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第9章『輝く青3』(56)

 

 転位の呪言。

 ナジャルを囲っていた鎖が輝く光を移ろわせる。


 淡い紫。

 深い藍。

 空の青。

 夜が明け染めるかのように。



肉体は個を(ソマ・エ)分離する一つの(・ナ・イドロ•)具象に過ぎず(ハイレシス)



 樹々の緑。

 輝く黄。

 アルジマールの双眸が虹色に輝く。



全てこの地に在り(オン・エ・ゾ) 彼の地にまた在る(オン・マ・クリア)



 昇る太陽の橙。



なれば真なるは(ティ・アリスイア)我が双眸が眺むるのみ(・コリ・オ・シヴァン)



 燃えたつ炎の赤。

 ナジャルを捉える光の鎖が震え、激しく輝く。

 抱え込んだ膨大な質量の蛇体を、目的の地へと転位させる為に。


 アルジマールは瞳を細めた。


「足りない――」


 ()()()()

 奥歯を鳴らし、白木の杖、そして法陣を睨む。


(使いすぎたか)


 持てる力を全て注ぎ込まなければナジャルを捕らえ跳ばすのは困難と判っていながら、これまでの戦いの中で二度、力を割いた為だ。

 だがそうしなければ、ここまで来る前の段階で破綻していた。


「大丈夫。あるもの全て使う」


 これまでも、今もただそれだけだ。

 ナジャルを跳ばす。結果はそれ以外にない。

 虹色に輝く自らの瞳へ、アルジマールは右の人差し指と中指を突き立てた。

 抉り出す。


 瞳は義眼、力を溜め込む装置だ。元から視認の役割は果たしていない。

 左眼も。

 掴んだ二つを、杖の頂点に開く篭、そこに浮かぶ輝く宝玉へと()べる。

 宝玉は煌々と輝いた。


 白木の杖が重さを増し、同時に激しい振動を掴む手に伝える。

 術式強化に反比例するかのような、ナジャルの抵抗――蛇体が身を起こそうとしている。

 激しい圧力に、杖を握るアルジマールの腕の血管が破れ、血を噴き出した。だが苦痛すら意識の外に押し出し、アルジマールは詠唱を重ねていく。


 それでも――

 ナジャルが、身を起こす。鎌首を擡げる。

 覆う鎖が限界まで伸びた。


 あとひと(ゆす)りで、鎖が弾け飛ぶ。

 アルジマールは血で濡れた手で杖を更に強く握りしめた。この血すら触媒に変えても――


「まだ、足りてない――」


『力不足だ』


「もっと触媒を。僕の――何か」


 レオアリスはアルジマールを見据えていた瞳を、右の剣へ落とした。

 触媒になるとしたら。


『結局、無駄であった――』


 剣を投げ入れようと手首を返す。


「どうだろうな」


 芯のある女の声がかかった。

 レオアリスの後方、カラヴィアスが立っている。


 その手が投げた赤い光が虹の光の中でさえくっきりと尾を引き、アルジマールが持つ白木の杖の、宝玉を浮かべた"篭"に落ちる。


 紅玉――

 鮮やかに燃え立つようなそれは、杖が元々抱えていた宝玉に触れて瞬く間に溶け合い、虹色の輝きと共に紅蓮の焔を吹き出した。


 同時に、捕らえているナジャルの蛇体を焔が包む。蛇体が身を捩る。


 アルジマールは閉じた目でそれを眺め、直後、悲鳴に近い声を上げた。


「あーーーー!!! なんてものをそこに入れるんだ!!!!」

「滅多に手に入らない代物だ。有り難く使え」

「信じられない! 赤竜の宝玉だろう! 今の! 今のっ! 滅多に?!? 信ッじられない!!」


 レオアリスは瞳を見開き、緋色に燃え盛るアルジマールの杖を見つめた。


「竜の――赤竜の、宝玉――」


 黒竜の宝玉を思い返す。あれを手にした時の困難を。


「そうだ。風竜を送った時のもの――、今、この時以上の使い道はないな」

「これだから武闘派は! あああ! なくなっちゃった! 触りたかった! 眺めたかった! 半月くらい思う存分じっくりねっとり撫で回したかった!!!」


 半ば泣き叫びつつアルジマールは煌々と輝く白木の杖を、血に塗れた手で握り込んだ。


「でも、これでいける!」


 ナジャルを捕らえる虹色の鎖と、燃え盛る焔。

 再び、蛇体は地に臥している。

 鱗が軋み、爛れて落ちる。


 アルジマールは最後の呪言を唱えた。



全ての事象(オ・シヴァン) 全ての天賦を以て(オー・エ・カリマ) この意志(エ・ブレイシス) この具現を成す(ェリ・ジ・ウルギア)



 光の滝のように――虹が立ち上がり、空へと弧を描く。

 南へ。

 その指す先は、熱砂の砂漠(アルケサス)


 跳ぶ。


 レオアリスは草地を蹴った。全身に走る痛みを押しやり、アルジマールの架けた虹へ踏み込む。

 カラヴィアスが同じく、レオアリスを追って虹の中に入った。


 肩越しに、カラヴィアスは視線を巡らせた。

 倒れているティルファングの胸が動いていることを確認し、それから身を起こそうとしているプラドを捉えた。口許に微かな笑みを刷く。


「プラド、お前は残れ。その娘の為に」

「――」


 ティエラがその背に手を当てる。


「プラド、私は」

「いや――、残る」


 ティエラは自分が共に行って自分が戦うと、そう言うだろう。プラドは身体に込めていた力を、抜いた。


 僅かに安堵の混じった息を吐き、レオアリスは首を振った。


「カラヴィアスさん、貴方もここで。もう充分です」

「お前一人に負わせるのは、我等が厭っていたことだ。それにもうこれは、我々の問題でもある」


 カラヴィアスの面を束の間見つめ、頷いた。


「――有難うございます」


 虹が、光を移ろわせながら輝きを増す。光は闇を押しやり、辺りを昼のように照らし出していた。

 ナジャルの抵抗に、アルジマールの法術が押し勝っている。


「レオアリス!」


 振り返った瞳が、空の姿を捉えた。光に照らされて浮かぶ二騎の飛竜の、その上。

 アスタロト。


 それから、セルファンが操る飛竜の背に立つ、幼い王子。


「ファルシオン殿下――」


 長大な蛇体が陽炎の如く揺れた。法陣、輝き立ち上がる虹がナジャルを目的の地へ、跳ばそうとしている。

 アスタロトは飛竜の背から飛び降りた。

 虹の光の中、レオアリスの傍らへ。無言のまま立つ。


 戻れと、そう言いかけ、レオアリスは言葉を飲み込んだ。

 代わりに空のファルシオンを見上げる。見つめる物言いたげな黄金の瞳と、真っ直ぐに視線を重ねる。


「殿下――」


 意図した行為ではなく、左の剣、それを逆手に持ち、切先を自らの胸へ向ける。


 ほんの束の間の永遠――、剣を半回転させ、身体の脇に下ろした。


「必ず、勝って戻ります」




 虹色の光が辺りを包み、世界は虹の中と外とで分断された。

 カラヴィアス、アスタロト、そしてレオアリスを、跳ばす。

 ナジャルと共に。


 アスタロトが横に並んで立つのが判った。


「レオアリス。これで最後――倒すぞ」

「ああ」


 足元から地面の感触が薄れ、身体の周囲で世界がぐるりと回転する感覚。





 悪意が差した。



『転位の先はアルケサスであろう――』


 ナジャルの含み笑いが虹と燃え盛る焔に、滲んで渦を巻く。


『だが、跳ぶ先は我が意思が決める』


 アルジマールは白木の杖が跳ねるのを抑えた。抑えた両手に伝わる振動。血で(ぬめ)る。


(ここまで来て――)


 術式が歪む。

 虹の差す向きが変わる。

 転位する先が。


 南、アルケサスではなく。



 ――西へ。








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