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第9章『輝く青3』(55)

 


我が意志は(ゲー・ア・)悉く地に満ちる(ネ・ブレイシス)



 静寂を縫い、詠唱は夜に(びょう)として四方へ流れた。

 辛うじて立つレオアリスのほんの拳一つ前で、ナジャルの牙が動きを止める。



 大地に光の模様が突如として浮かび上がる。

 虹を帯び、煌々と輝き、照らし出す。果てなく見えるその広がりは、光が天地四方を覆って広がり行くからだ。


 レオアリスの全身を照らし、ナジャルの長い蛇体を包む。


『法陣――』


 身動(みじろ)ぎかけたナジャルの蛇体が、ぎしりと軋んだ。あたかも無数の不可視の鎖がその身を捉えているかの如く。


 レオアリスは視線を落とした。光の粒子が泡となり身体を包みながら立ち昇っていく。辛うじて支えていた脚、身体に、緩やかながらも力が戻っていくのを感じた。

 アルジマールの法術、彼の操る膨大な力の流れ。


(多重陣)


 ゆっくり、息を吐く。

 肺の奥から迫り上がる、安堵とも異なるそれ――

 ここまで来た。


(発動した――)


 術士の姿は見えず、ただ光を紡ぐその声はアルジマールのものに間違いない。

 術式――捕縛陣。

 呪言が流れていく。



檻の如く(ベィハイオ・)揺るぎなく(ン・クェルヴィ)



 集中力を高め術式を補強する『呪言』を、アルジマールは滅多なことでは用いない。

 多くの場合、彼にとってそれは必要ではないからだ。


 大気が揺れ、収斂していく。ナジャルへ。

 光る模様の一つ一つ、複雑に絡み合い広がるそれが、今や目に見える鎖となり四十間(約120m)にも及ぶナジャルの蛇体を地に繋ぎ止めている。



彼の者は(トゥエ・オ・)過ぎ去らず(パ・レ・ソウン)



 詠唱は四方へ広がり、波が打ち返すように四方から響き、渦巻く。

 詠唱に合わせ繭の如く、幾重にも光の鎖がナジャルの躯を廻る。無音の光景。



とこしえに(フシケー・アリ)魂を繋ぐべし(・オ・ハイレイン)



 呪言の最後の一片(ひとひら)と共に光が煌々と輝き、周囲を真昼の如く照らした。

 ナジャルの躯は完全に、法陣円の張り巡らされた地に固定されている。


(捕らえた)


 捕縛陣の完成。次に発動するのは捕縛陣の下に重ねた転位陣。アルジマールがこの六日で重ねてきた、複数層の陣。


 昨日の昼、多重陣の一層目、捕縛陣と転位陣を発動させたが、ナジャルはこれを擦り抜けた。


(今は、違う)


 ほんの半日前の昼とは、ナジャルの状態そのものが異なる。


 吐き出した三つの闇、死者の軍、海魔、そして三つの本質――

 それらを打ち砕き、斬り、浄化し、そして今、ナジャルを本来の形の中に押し込め、その変化を封じた。


 漸く、ここまで持ってきた。


 立ち昇る光の中レオアリスは息を吐き、力の戻って来た指先、両手で、剣の柄を握り直した。

 残る力を掻き集め、全てを剣に注げるよう、意識を集中する。

 剣に力を、意識を流し、また身に取り込む。血流のようなその流れ。


(次の詠唱で跳ばせる)


 跳ばして、その先でナジャルを倒す。

 完全に――


(これで)


 背筋を、ぞわりと凍る感覚が走った。


『愚かなことだ――』


 含むような嗤いが辺りを這った。

 ぎしりと、ナジャルを捕える鎖が軋む。

 レオアリスは奥歯を噛み締めた。


 まだ動く。


(あれでも、削り足りないのか――?)


 ナジャルの蛇体は鱗が裂け、捲れ、血を流している。熱と風、そしてレオアリスの剣のいかずちが撃った。

 幾度も、幾度となく。


『懲りもせず、その程度の術で我を捕えたつもりか、法術士――』


 幾重もの光る鎖で縛り付けられながらも、その躯になお、膨大な力の気配が揺らいだ。数百ものナジャルの躯に巻かれた光る鎖が、端からその輪が弾け、音も無く千切れていく。

 尾が揺れ、頭が揺れる。


 あと数度身を揺すれば、ナジャルは全ての鎖を断ち切りそうだ。


(もっと――)


 剣を握る。そこにナジャルを斬れるほどの力はまだ戻っていない。

 カラヴィアスも、ティルファングやティエラも動く気配がない。


(俺が)


『姿を現わせ』


 ナジャルの双眸が赤く染まる。踏み込みかけていたレオアリスは、ナジャルの双眸の光に手足が硬直するのが判った。意識よりも奥底の、本能的な畏怖。

 巡らせた視線の先、思わず息を呑む。


(アルジマール院長――!)


 姿が露わになっている。地から立ち上がるナジャルの胴の、ほぼ、直下だ。

 今まで何も見えなかったそこに、光の立方形が幾つも重なり合い、星形に似た立方体を作ってアルジマールを覆っていた。防御壁だと判る。

 その前でナジャルを戒める光の鎖は、他愛無い糸たっだかのように次々と絶たれていく。


 剣を握り込むが感覚が遠い。

 動きたい。転位させる為にはもっと、ナジャルを削る必要がある。

 何より、アルジマールの存在がナジャルの前に遮る物もなく晒されているのが恐かった。


 だがナジャルの赤い双眸が辺りを睥睨し射竦め、渾身の力を込めたはずの腕は僅かも動かない。


『所詮そなたらの法術など、我が身にはさしたる影響を及ぼさぬ。何度重ねようと』


 嘲る声に、幼さを含んだ声が応えた。


「充分、知っている。だから捕まえきるまで重ねるさ――その為に六日もかけたんだ」


 防御壁の中、アルジマールは手にしていた白木の杖を掲げた。

 光が拡散し、遠い空へと複雑な色の欠片を投げる。

 白木の杖は上部の先端が枝葉を開いた樹木の如く篭を作り、その中に虹色の宝玉を(いだ)いている。


 法術を強化する為の杖――これもまた、普段のアルジマールならば用いないものだ。


「僕は法術士だからね。法術を破られたらただの人だ。僕の場合法術以外身体能力壊滅的だからほんとやばい。だから色々と、念入りに下拵えして積み重ねた。何度も言うけど六日もだよ。まあ貴方からすれば瞬きの間にすら満たないかな?」


 アルジマールは掲げていた杖の石突で地を突いた。

 初めに敷設した転位陣――昼にナジャルが()()()()()法陣(それ)――そこに残されていた虹色の輝きを、白木の杖が吸い上げる。

 虹色の宝玉が輝きを増す。


 アルジマールの足元から新たな光る筋が走り、草地へ花弁に似た紋様を描き出した。

 模様ごと浮き上がるように光る鎖が無数に立ち上がり、空へ伸び、ナジャルの躯に再び絡みつく。


「これを失敗したら研究費減らされちゃうんだ、あの人あれ、涼しげだったけどめちゃくちゃ本気だし――、ほんと僕のこの先の研究人生が掛かってる」


「こんな時にあの人、何言ってんだ……」


 ぼそりと呟いたレオアリスの言葉を耳聡く聞きつける。


「君の元参謀官だよ! 全くえげつない!」

「え。いつも通り――」

「ええ?!?」


 遡ること八日、王城の中庭でロットバルトはアルジマールに、切り出した。

 今回の戦いの戦略的構想、捕縛陣及び転位陣敷設の要請。そしてそれが破られる可能性を。


『万が一その状況になったら――いえ、貴方には失礼ですが、おそらくそうなるでしょう。その時点で対応しようとしても間に合わない』


 ナジャルとの戦いでは風竜戦と同じく、周囲に影響を及ぼさない、広範囲の戦闘が可能な場へとナジャルを切り離す必要がある。その為にアルジマールにある対応を求めた。

 多重陣敷設。

 捕縛陣及び転位陣の二重陣ではなく、それらを幾重にも重ねた、多重構造の陣を敷設することが可能か。


「可能だとも!」


 六日間、この地で組み上げ続けた。

 全てはナジャルを捕らえ、跳ばす為にだ。


「捕縛陣と転位陣、捕縛陣と転位陣、捕縛陣捕縛陣捕縛陣捕縛陣捕縛陣――! さすがに舌がもつれそうだ!」


 アルジマールは両手で白木の杖を高く掲げ、足元を鋭く突いた。




我が意志は(ゲー・ア・)悉く地に満ちる(ネ・ブレイシス)!』




 杖の下、敷かれた法陣が弾けるように輝く。

 新たな鎖が疾風の如くナジャルに巻き付き、取り込む。


 ナジャルの気配が変わったのが、確かに伝わった。

 驚愕に近い、それ。

 鎖が軋み、長大な蛇体全体が押し潰されるように、地に臥せた。あたかも大気そのものが重量を増したかに見える。


 知らず右足が草地を一歩踏み、レオアリスは自分を捉えていたナジャルの目の呪縛が消えていることに気付いた。

 顔を上げ、アルジマールと、その前に身を臥せるナジャルを見つめる。

 新たな法陣、光の鎖がナジャルを押さえ込んでいる。


(跳ばせる)




天も地も(ティ・オ・)時も全ては(ウル・ゲー・)同一のものならば(ロノス・タウ・ト)





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