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第9章『輝く青3』(53)

 

 ボードヴィル砦城の全ての窓硝子が一斉に振動する。


 セルファンは血の気の少ない顔を上げ、窓を見据えた。北棟にあるこの部屋の窓からは中庭を挟んだ棟の影と夜の空しか見えないが、ナジャルの存在がそこまで来ているのが伝令を待たなくとも判る。

 触れる空気は肌を泡立たせる。


 廊下側に寄せた寝台の上に眠るファルシオンの姿を確かめる。呼吸はまだ苦しそうだが、半刻前よりもずっと落ち着いている。

 傍らの長椅子のアスタロトも少しずつ、眠りが浅くなっているように見える。


(あと少し、持ち堪えれば――レオアリス)


 自分が加われない戦いが。


(王太子殿下は、私が必ずお護りする)





「悪夢でも見てるみてぇな光景だ――」


 ワッツは城壁から南岸を見据え、太い声を押し出した。空は黒い雲が渦巻くように棚引き、地平に向け傾いた月が淡く光を投げている。

 南岸、夜の中に浮かび上がる影は、別世界にあるようだ。

 傍らのクライフが視線だけ向ける。


「お前でもそう思うのか。黒竜を直接見たんだろ。つぅか戦ったじゃねぇか」

「ああ。お前だって風竜を見ただろう。()()と同じだったか?」


 南岸に身を起こしているあの長大な蛇と。

 クライフが異論もなく首を振る。


 風竜は全く異なった。垣間見たあの原初と呼ばれる竜でさえ。

 ナジャルの身が纏う禍々しさ、貪欲さ、悍ましさ、そして無慈悲さ。一切、理解が及ばない異なる存在。


「――それでも、ここまで来た。あとは倒すしかねぇ」


 あの場で戦っているレオアリスや剣士達、ほんの数人に託すしかない。

 クライフはぐっと両拳を握った。視線を向けたワッツも同じ想いだろう。


(託すだけじゃねぇ)


 負わせるだけではない。クライフ達も――兵士も、法術士達、アルジマール、アスタロト、ファルシオンも。王都に残る者達、そしてこの国自体が――


 これまで戦い、一歩一歩、その歩を進めてきた。今、それらが結実してそこにある。

 勝つ為に。





 ティルファングは跳ねる鼓動と胸を圧迫する焦燥を抱え、城壁へと階段を駆け上がった。

 肌がやすりを当てられたようにひりついている。狭い階段を抜け、南岸が見渡せる城壁の上に出たとたん、大気がそれまで以上に重く、身を押しつぶすように全身を包んだ。


「なんて、気配だ――」


 ナジャルの存在がすぐそこにある。

 押し戻されそうになる身体を前へ踏み出す。

 対岸、目前に迫るように、ナジャルの蛇体が空へ伸びていた。


「ここまで――。長は」


 巡らせた眼が、夜の一角に膨れ上がる青い光を捉えた。

 青い閃光が闇を裂き走る。ナジャルへ。

 レオアリスの剣、その輝き。煌々と輝く。


「斬れる――」


 あれなら。

 城壁に手をつき身を乗り出し、だがティルファングは奥歯を噛み締め、喉の奥から押し出すように呟いた。


「駄目だ」


 ナジャルの動きが早い。

 尾が剣光の前に立ちはだかる。


 尾は青い光に触れ、その半ばから断たれた。







「足り、ない」


 レオアリスはよろめく脚を堪え、倒れかかる身体を起こした。

 全てを乗せた一撃――胴を捉えるつもりだった剣が断ったのは、ナジャルの尾だ。剣光はそのままナジャルへと走ったが、威力は尾によって大半が削がれた。


 剣光がナジャルの頭部を捉える。鱗を裂き、爆ぜる光が蛇体を走る。ナジャルが硬直したように動きを止め、赤い双眸からその場を圧していた輝きが薄れた。

 だがそれだけだ。剣光は霧散した。


 四十間(約120m)を超える銀色の蛇体から断たれた尾が、赤黒い血を撒き散らして地面に落ち、跳ねる。頭上へ落ちかかる尾を避け、レオアリスは左後方へ跳んだ。


 疲労が足がもつれさせ、避けきれなかった尾の先端が肩と頬を裂く。弾かれた身体は地面に倒れ、五間近く草の上を滑った。

 尾は、まだ生を持って地面をくねり跳ねている。


 レオアリスは剣を握ったままの拳をついて身を起こし、喉を喘がせ、引き攣る肺に酸素を取り入れた。身体が重い。ひたすら重く、熱く、軋み、痛い。

 顔を持ち上げ、断った尾の向こう、まだ空へ伸びているナジャルの蛇体を見据える。


(届かな、かった。それでも、尾を断てた――)


 初めて、ナジャルの本体を。

 喉か、せめて胴を捉えることができれば。


「もう、一刀――」


 剣を握り込んだはずが、柄の感覚が判然としない。

 (こら)えていた左肩が知らず、地面に落ちる。

 肺が(せわ)しなく動き、血液は全身を巡り、顳顬(こめかみ)を叩く音が煩い。

 その間もずっと、レオアリスはナジャルへ視線を逸らさず据えていた。


 ナジャルはまだ動いていない。

 今の一撃、そして今までの蓄積と剣の雷が、ナジャルの動きを制限している。だがそれはほんの束の間のことだ。すぐにナジャルは動きを取り戻す。


 今、攻撃を重ねたい。今畳み掛ければ斬れる。

 それでも。


(身体が――)


 動かない。

 全ての力が抜け落ちたように思えた。


 不意に、剣に集中する意識すら突き刺し、ひやりとした感覚が首筋を撫でた。

 背筋を凍らせる気配。

 動きを止めていたナジャルの躯が、動く。


 レオアリスへ。


 蛇体が身を畳むようにたわめる。獲物に襲いかかる直前に見せる、その動作。

 次の瞬間、弾けるように伸びた。


(避、け……)


 腕すら上がらない。

 誰かの手が倒れているレオアリスの襟元を掴んだ。カラヴィアスだ。

 剣を顕したままの右腕でレオアリスの身体を後方へと、力任せに放り投げる。その速度を乗せ振り向きざま白熱した剣を、背後を抜けるナジャルへと、身の回転とともに叩き込んだ。


 カラヴィアスの剣がナジャルの顎側面を捉え、裂き、炙る。だが止めるには足りず、カラヴィアスは身体ごと弾かれた。宙に浮き、十間近く離れた地面へ叩き付けられる。


「カラ――」


 ナジャルの双眸がレオアリスを見据える。瞬きの間、一間先に牙があった。

 開いた赤黒い口腔。

 風を巻いた剣光が、斜め後方からナジャルの顎を撃った。

 動きを止めた蛇体の向こうにティエラが立っている。一度消えた剣を右腕に顕していた。


「――こっちよ!」


 シメノスの岸壁に並行して走り、ティエラは地面を蹴った。跳躍し、風を纏った剣をナジャルの胴へ、振り下ろす。音楽的な音色とともに剣の余波が地面を抉る。


 既に熱で爛れ、風に巻かれて捲れ、雷が爆ぜた鱗は、ティエラの切先を易々と通した。長い胴のちょうど半ば、直径一間ほどにも及ぶ胴を、切先が二尺の深さまで切り裂く。


「浅い」


 ナジャルの胴を蹴り、宙へ身を翻す。顔を上げたそこに、ナジャルの牙があった。鋭い牙はティエラの頭ほどもある。


「!」


 ティエラの横を白刃が抜ける。

 風を纏ったそれが、ナジャルの顎を捉える。


「プラ――」


 プラドはティエラの肩を抱え込み、剣を振り抜いた。ナジャルの顎を弾く。剣に刻まれた(ひび)が深まる。


「プラド!」


 弾かれた顎は宙でぴたりと止まり、弓の弦を打つように再び打ち掛かった。プラドの剣が迎え撃つ。


「駄目、剣が――!」


 剣がナジャルの右頬の表皮と肉を削ぐ。即座に返し、剥き出しの肉へ、剣を重ねる。抉られた分厚い肉の奥に白い骨が覗いた。

 皸は更に深まり――、直後、


 プラドの剣は半ばから折れた。


 ティエラが叫び、プラドを抱き締めたまま落下する。ナジャルの上体がうねり、ティエラとプラドを弾いた。

 宙で弾かれた二人の身体は数十間先の地面に落ち、更に滑った。その先、シメノスの岸壁へ――


 (とど)めるものもなく、二人の身体がシメノスへと飛び出す。

 ティエラは右手を伸ばし、岸壁の縁を辛うじて掴んだ。






 折れた――剣が。

 全身の痛みと、疲労、それらが伸し掛かり、意識が朦朧とする。

 それでも、プラドの剣が折れたことがはっきりと判った。


 レオアリスは剣の柄を握ったまま、指先で地面を掴んだ。下草も土も構わず握り込み、上体を起こす。


「絶、対、に――」


 力をかき集める。

 あと何度、剣が振れるか。


(何度――?)


 一度でもいい。


「ナジャルを、倒す、ここで――」


 残った力を全部、最大の力を、剣に込めればいい。

 左右の剣が微かに、月光に似た光を纏う。






 カラヴィアスは右肘をついて重い身を起こし、寸断されたナジャルの尾を確認した。尾は辺り一体を血で染め、まだ生きているかのように痙攣している。


 だが()()()訳ではない。

 断って落とせばナジャルの蛇体と言えど、生命活動は止まると考えていいか。

 勝機はある。


 ゆっくりと息を吐き、吸う。レオアリスへ伝えたように、剣に力を流し、また戻す。

 積み重なる疲労と負傷を、ほんの僅かの間抑え込めればいい。


(そう長く保たせなくてもいい)


 左腕は骨折したまま回復していない。上体を持ち上げ、剣を顕したままの右腕に力を込める。

 意識を巡らせる。上衣の下、帯びた革帯の物入れ。そこに揺れる炎の気配。


 革袋に収められているのは風竜を浄化した際、原初の竜(オルゲンガルム)が吐いた息が(こご)った、宝玉だ。

 視線を辺りへ配る。


(あと少し)


 カラヴィアスは自らの剣に、注意深く力を注いだ。








 忌々しい――



 夜の中、ナジャルは光を滲ませる幾つかの輪郭を見回した。


 白熱した光はルベル・カリマの長のもの。岸壁の際、揺れる白光はベンダバールの剣士二人。

 そして青く明滅する光は、ルフト――アレウスの王が見出した剣士。まだ未熟だったはずのそれ――


 今はどの光も辛うじてその色を保っている状態だ。一口もなく喰らえる程度の存在。

 そのはずだった。


 断たれた尾が再生しない。断面の細胞が完全に活動を停止している。神経にも及び、動きを妨げる。

 何度、あの剣を受けたか。確か五度。


『いや、六度か――』


 初めは鱗を撫でた程度と軽んじていた。いつの間にか身に蓄積されていた。

 鬱陶しい。


 ナジャルは蛇身をくねらせ、伸ばした。

 青い光へ。

 牙が喰らい付いたのは、狙いから二間も離れた場所だ。


『――忌々しい……』


 身体の芯に纏いつき、積み重なる痺れ。


 それがナジャルの身体の感覚を僅かに狂わせ続けている。




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