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第9章『輝く青3』(48)

 


 夜にナジャルの双眸が見える。浮かぶ月のようだ。

 赤く、不吉な。


(本物の月、は――俺の斜め、後ろ)


 レオアリスはまだ少しふらつく身体を、両足を広く開いて支えて立ち、息を吐いた。

 血が足りない。立ち上がると良く判る。

 体力も落ちている。


(そういやずっと、戦い尽くしだ)


 こんなに戦い続けたことは、今までない。

 すぐ前にカラヴィアスが立ち、そして右前方、ナジャルの右斜めのところにプラドが立ち上がっているのが見えた。二人とも負った傷をまだ身に刻んだままだ。


 上空に(もた)げた鎌首――そう表現するには余りに巨大なそれは、地上から十間(約30m)もの高さに双眸を揺らしている。


「来るぞ」


 双眸が血の色に輝く。

 赤く、赤く――


 捕食者のそれ。


(身体が)


 一瞬、硬直した。剣を握り直す。


 ナジャルの頭がゆらりと揺れる。大気が動く。


「跳べ!」


 カラヴィアスの声。

 レオアリスは瞳を見開いた。

 距離は二十間を超えていた、はずだ。


 瞬きの間もなく――ナジャルの頭が目の前にあった。

 開く(あぎと)、レオアリス自身を一呑みにしても有り余る、その深い口腔。


 咄嗟に地を蹴った足がやや早い。跳んで避けた身体の横、髪の毛一筋ほどの位置を銀の鱗が流れる。

 頭は無造作に大地に突っ込んだ。地響きと、土煙。


 風圧に叩かれ、レオアリスは数間先の地面に身体を打ちつけられた。まだ癒えきらない傷から全身に痛みと痺れが走る。


「ッ、う」


(掠めてもいない、のに――)


 塊に弾かれたような感覚だ。

 捲れ上がった土を踏みカラヴィアスが目の前に立つ。その剣が白熱して輝く。


『おお、我としたことが――』


 低く響く声は、大気に滲み頭蓋の奥へと侵入するようだ。


 ナジャルの頭が持ち上がる。血の色を滲ませた双眸が動く。

 カラヴィアスが剣を薙ぐ。放たれた熱の刃がナジャルの喉を捉えた。


 直後、反対側、ナジャルの右側面から放たれた風の刃がカラヴィアスの剣の熱を巻き込み、ナジャルの頭部を覆い、裂く。ナジャルは身を揺すった。夜の闇ごと動いたかのように、大気が揺れる。


『滅多に無い馳走故に、つい()いてしまった』


 海魔ならば数十体を一度に断てる攻撃だ。だが裂いたはずのナジャルの頭部にはもう傷は無い。


「刻んでも薄過ぎる。これじゃ長期戦どころじゃないな――レオアリス、立てるか」

「問題、ありません」


 カラヴィアスが地面を蹴り走る。白い光が夜に筋を引く。

 ナジャルの顎の直下に踏み込み、喉へ、縦に剣を斬り上げた。上方、プラドの逆手の剣がナジャルの頭頂に落ちる。激しい光の交差が夜を照らす。


 空気が爆ぜる。カラヴィアスとプラドが跳んで退く。

 レオアリスは右手の剣を振り抜いた。剣身を青い光が爆ぜ、迸る。


 剣光がナジャルの喉を捉え、突き抜けた。蛇体の向こう、シメノスの対岸に亀裂が生じ、次の瞬間雷鳴に似た音をたて崩れ落ちた。


(手応えはあった)


 レオアリスは剣の先に、ナジャルの姿を睨んだ。

 ナジャルがゆらりと首をもたげる。剣光を喰らったはずの頭部、そして喉元。


 確かに刻んだはずの傷が、見る間に消えて行く。砂漠の砂に引いた細い線が砂に埋められていくように。


(効いてない――)


 ナジャルの首が動き、瞬きの直後、(あぎと)の奈落が目の前に迫る。地面を蹴ったレオアリスを追ってナジャルの頭がほぼ直角に動く。


「ッ」


 左の剣を振ったが身体の制御が効かず、剣風はナジャルの鱗を流れた。

 鋭い牙、開いた口腔へ身体が落下する。宙空で逃れる場所が無い。


 斜め下から振り切られた白熱した剣がナジャルの巨大な頭を撃ち、その衝撃でナジャルの頭は弾かれレオアリスを捉えることなく地へ落ちた。大地を揺るがす音と振動。


 レオアリスが降り立った横に、カラヴィアスが立つ。


「レオアリス、前に言ったな。この戦い、連撃を重ねたとしても倒し切るには数日かかるだろうと」


 戦いに入る前のことだ。

 闇に赤い双眸が揺れ、ナジャルの身体が持ち上がる。その圧迫感。

 まるで損傷の見えない鱗は、カラヴィアスの言葉を証明している。


「だが状況は変わっている。奴の吐き出したものを削り、本質を削った。その意味は十分にある。私が当初考えていたよりは短縮したはずだ。その上――」


 カラヴィアスの声が、囁きに近くなる。

 その言葉はレオアリスには意外だった。


「奴の性質は、我々にとって有利だ」

「有利?」

「あくまでも上位者であり、捕食者であり、恐怖と混乱と絶望を喜ぶ。我々をただの餌と見做している」


 それはレオアリスが今感じていること、そのものだ。

 自分達はナジャルにとってはただの餌であり、容易く喰らえるそれを、如何に喰らおうかと考えている。それこそ蛇の目に捉えられた小動物が感じるような、肌を撫でる戦慄。


(もてあそ)んでいるのさ。だからこそ有利と言える。奴がそう考えている間はな」


 ナジャルが動く。カラヴィアスは白熱した剣を薙いだ。迫る顎を正面から捉え、弾く。

 レオアリスの剣光が夜を走り、ナジャルの頭部を撃ち、その向こうの地を砕く。プラドの放った風がレオアリスの剣光を含み、ナジャルの上半身を包んだ。


 ナジャルの動きが一瞬、止まる。

 すぐに蛇体が走り、飛びのいたレオアリス達の足元を砕いた。


「地を砕くのは力が分散しているからだ。剣に収束させろ」

「はい」


 レオアリスは草地に降り立ち背後を一度、素早く確認した。

 シメノス。夜の中に浮かぶボードヴィル砦城。

 その対岸――自分達がいるこの南岸。ボードヴィルからの距離は二百間ほどだ。


 シメノスは渡らせず、もう少し、ボードヴィル側に近付く必要がある。


「プラドが合わせる。奴の剣は我々の剣の能力を増幅させる。任せてお前は好きにやれ」


 ナジャルの頭が再び、空の半ばへ持ち上がる。

 辺りに引きずるように響く音は、ナジャルの身体が地を這い立てるものだ。長い胴が周囲を囲み始めている。


「剣を、意識を研ぎ澄まし続けろ」


 ここで倒し切ることが目的ではない。

 積み重ねたものを結実させる為に――ナジャルを確実に倒す為に。


「あの法術士殿の多重陣発動まで、削れるだけ削る。同時連撃を重ねるぞ」


 声と共にレオアリスは地を蹴り駆けた。カラヴィアス、プラドも同時に動いている。

 三方に広がる。

 ナジャルの蛇体が輪を狭める。


 膝を(たわ)め、跳んだ。


 剣が雷光を帯びる。






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