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第9章『輝く青3』(39)

 

 目の前にいるのは三体目、顔すら定かではないそれ――

 例えるならば『無形』。


 足元を蹴り、後方へ跳ぶ。同時にレオアリスは右の剣を掬い上げるように振り抜いた。

 切先が相手を捉える前に、その姿が揺らぐ。


 次の瞬間、レオアリス自身の右肩が深く裂け、血を吹き出した。


「ッ」


 肩に力を込め、血を止める。


(何だ)


 目の前の『無形』が何か仕掛けた様子はない。


(どんな攻撃なんだ)


 見えない場所からのものか。

 この存在はこれまでの闇でも、霧でも、海魔でもなく、そしてあの初めの三体――ルシファーと海皇、王の写し身でもない。ただそこにあるだけ。


 厳然としてそこに在るだけだ。

 それでも、プラドの言う通り、この三体を倒すことが――


(この三体を倒さない限り、ナジャル本体を引き出せない)


 レオアリスは左右に下げた剣を意識した。

 剣は青く澄み、輝き、身体そのものが軽く感じられる。

 保つことも、それから。


 意図すると同時に、爆ぜるような光が剣身を走る。


 高めることも、できる。

 剣を自在に扱える感覚が、これまでとは比べ物にならない。


「倒して、本体を引き出す――」


 踏み込み、右の剣を斜め下から走らせる。

 青い切っ先が『無形』の左脇腹を捉えた。





 プラドは正面に現われた『老人』の姿へ、踏み込んだ。

 本質――それはレオアリスの剣により追い込まれて顕した、ナジャルという存在そのものだ。

 ナジャルの本質を映すこの三体を倒すこと、それが本体を引き出す最後の鍵でもある。


 それがどれほど困難であっても、倒さなくてはこの先へは進めない。


「時間はかけられない」


 剣が風を纏い、哭く。

 その首へ、剣を斜めに落とす。


「待て!」


 鋭い声はカラヴィアスだ。

 既に剣は『老人』の左の首の付け根を捉えかけ――、同時に迫り上がった言い難い感覚に、寸前で僅かに軌道を変えた。


 『老人』の左の鎖骨へ、剣が食い込む。

 自らの左肩へ走った鋭利な苦痛と衝撃に、プラドは奥歯を軋らせ、喉の奥に声を押し込んだ。


「――ッ」


 血を噴き出したのは目の前の存在ではなく、自分の左肩だ。鎖骨を断ち、深々と裂傷が刻まれる。


「何――」


 プラドの剣は確かに『老人』の肩に食い込んでいる。()()()()


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 肩の傷の出血を抑える。


「幻覚――? いや」


 傷は本物だ。

 再度、『老人』の右脚へ流そうとした剣の、切先を白熱した剣が止めた。


「阿呆か。一度喰らえば十分だ」


 カラヴィアスの剣がプラドの剣を抑えている。


「攻撃がそのまま返るぞ」


 カラヴィアスは背を向け、正面にもう一つの姿を置いた。カラヴィアスの前に立つのは『青年』の姿だ。


「一番厄介そうなのは、レオアリスのところか」


 プラドはレオアリスを探して視線を走らせ、眉を寄せた。

 姿が無い。


「たった今までそこにいた。何故だ」


 気配も無い。口にしたように、たった今までそこにいたという、その名残だけが感じ取れる。

 まるで盤面から、ひょいと駒を取り上げ手の中に包んだかのようだ。


「何が起きている」

「良く分からん絡繰りだが、心臓を狙ってみる気にはなれんな」


 カラヴィアスの視線が動く。

 その瞳を追い、プラドは鋭い双眸を開いた。


「何――」


 いつの間にか。

 レオアリスがほんの十間ほど離れた場所にいる。その前に、『無形』。


 その二人とも、たった今までそこにいなかったはずだ。


 レオアリスの右手から、青い光が走る。


「待て、レオアリス――!」


 直後、レオアリスの左脇腹から右胸にかけ、裂傷と共に血が噴き出した。







 ボードヴィル砦城の西端、城壁の下へ、長い首が数本、降りている。

 咀嚼している。城壁から落ち、積み上がった数十名の兵達の身体をだ。


 深く裂け無数の歯を剥き出した顎が、遺体の山の上に倒れる足に食らいつき、先端から飲み込むように貪る。肉が潰れ、骨が砕ける音。


 クライフはその音で気が付いた。


「なん――痛ッ」


 激痛が走る。思わず息を殺し、痛みの元を探った。

 暗くて良く見えにくいが痛みの位置から脚――左脚だ。膝、だろう。


(折れてやがる)


 あの首と戦う中で、兵達が城壁の角に追い詰められていた。走り込み、何度か剣を振るい、だが数に抗いきれずそのまま押し出されるように落ちた。城壁の高さはサランセラム側でおよそ五間(約15m)から七間。


 骨折程度で済んだのは、他の兵の身体の上に落ちたからだ。


「くそ――」


 自分の上にも何人か、兵の身体が重なっている。クライフはどうにか手を動かした。遺体の間に挟まっていた右腕を引き抜く。

 深い切り傷があったが幸い折れていない。ただ、剣は握っていなかった。


 左腕も同様に、引き抜きにかかる。ふと動かした視線が、何かの影を捉えた。いや、何かが視界の端で動いたから、そこに目をやったのだ。


 ばき。くちゃ。


 音――湿った。


 くちゃ。ごり。ごきん。


 喉の奥に息を呑み込む。影――あの首だ。首の先の平たい顔が、クライフの上に重なる兵達の身体の向こうに見えた。


 湿った音。無数の歯が肉を千切り、骨を噛み砕き、咀嚼する。その音。


「喰ってんのか――」


 遺体を貪っている。

 全身に悪寒が走る。悍ましい予感が浮かぶ。それがいつ、自分を見つけ、貪るか。


(冗談じゃねぇ――けどどうする)


 剣も無く、脚が折れている状態では戦えない。周辺は咀嚼音しか聞こえず、ボードヴィル城壁も静かだ。もう戦いが終わったのか、それとも防御陣がまた発動したのか。

 何れにしてもここで声を上げて、首がクライフを喰らう前に助けが来るとは思えない。


 呼吸と、動きを抑え、方策を思い巡らす。今どの辺にいるのか。

 西側の城壁の角から落ちたのなら、左側にシメノスの岸壁が位置する、サランセラム丘陵の手前の平地だろう。

 ならば門がある。


(いや、そうだ、昼に海皇が壁を崩したはずだ)


 そこから海皇は城内に入った。まだ修復されていない。そこまで行ければ――


 悲鳴が上がった。すぐ側だ。


「ひぃッ、く、来るな――! 来ないでくれッ!」


 まだ息がある、兵の声だ。


「嫌だ、喰われたくない――いやだ――」


 魂切る叫び。クライフの上に重なっていた身体がずり落ちる。視界が半分、開けた。右側――

 悲鳴をあげる兵の腕に、無数の歯を持つ首が喰らい付いている。


 クライフは左右を見回し、目についた剣を掴み、身を起こした。途端に左脚に激痛が走り苦鳴を洩らす。

 噛み殺し、剣を逆手に握り直すと兵に喰らい付いた顔の、額へ、力任せに突き立てた。


 額から血を噴き上げ、兵の腕を噛み千切り、のたうちながら首が遺体の山を滑り落ちる。


「おい! しっかりしろ!」


 腕を抱え悲鳴を上げている兵に近寄ろうとして、自らの折れた脚の痛みに耐え切れず、クライフは兵達の身体の間に倒れた。手を伸ばし、叫ぶ兵の肩に触れる。


「おい……ッ! 落ち着け! 今は血を、どうにか止めて――」


 ごそりと、背後で気配が動く。

 首を巡らせ、すぐそこに、薄ぼんやりとした顔が浮かんでいるのを見た。


「くそ――」


 顔の口の端が裂け、無数の歯を剥き出す。一体だけではなく、目にしただけでも三体。空から降りた長い首が揺れる。


 クライフは小さく、名前を呟いた。


 首の背後で、空が白く瞬いた。






 レオアリスは自分の胸を裂いた傷を見て、状況を悟った。

 自分の攻撃が、自分へ返っている。


「――っ」


 血が吹き出す傷を押さえ、呼吸を抑える。肺には達していないが、骨を切っている。動けるまでに数呼吸かかる。


 正面の『無形』を見据え――、だが、攻撃を仕掛けてくる気配がないことに、眉を寄せた。


「弾くだけか――?」


 判らない。


「レオアリス」


 背中に手が当てられ、レオアリスは視線を動かした。プラドとカラヴィアス、それからもう二つの存在。

 三人を囲むようにして、『無形』と『青年』と『老人』がそこにある。


「プラドさん、攻撃が」

「そのようだ。どういう原理かは分からないが、同じ場所に攻撃が返る。向こうに損傷が無いのは、攻撃そのものが返されているのか――さっきよりも厄介になったのは確かだ」


『どうした――我を捉えたのではなかったのかね?』


 三つの姿のいずれからか、声が周囲に揺れる。


『我が本体を引き出す為に、まず我が本質を打ち破らねばならない。それは正しい』


 カラヴィアスは首元の赤い石に手を当てた。

 揺らめく光がカラヴィアスの指先に熱を伝える。


『その石――原初の竜(オルゲンガルム)の息を凝らせたもの――そなたの身を護るには充分だ。だが』


 三つの姿が一瞬、歪んだ。


『我が()から逃れるのは不可能――』


 瞬きすらしていなかった。

 それでいて、レオアリスは再び自分の左脇腹から右胸にかけ、血が吹き出したことに気が付いた。


(いつの間に――)


 ()()


 傍に居たはずのプラドとカラヴィアスが離れた場所にいる。レオアリスへと駆け寄って来ようとするところだ。


 よろめいた足を踏み堪え、理解した。

 たった今起きたことの、繰り返しだ。


 この三体――青年、老人、無形。

 ナジャルの本質が表すもの。


(そうか)


『そこに在り続けよ。我がボードヴィルを喰らう間』







 空一面に蠢き様子を伺っていた長い首が、動きを変えた。

 降りて来る。


 ボードヴィル砦城と空とを遮っていた障壁に、首が次々と振り下ろされ、噛み千切ろうと喰らい付く。障壁を食い尽くそうとするようだ。

 障壁は激しく明滅し、目の奥に光を瞬かせた。


「このままじゃ破られる。補強を――」


 法術士へ指示を出そうとして、アスタロトは背筋を走った凍る意識に押され、叫んだ。


「まずい、()()!」


 黄金を含んで輝いていた障壁が、一瞬で黒ずむ。

 詠唱が悲鳴に変わった。

 城壁や塔、屋根の上で法術士達が身を捩り倒れる。


 アスタロトは全身に炎を纏わせ、次の瞬間四方へ放った。倒れた法術士達を包む。

 間に合ったかどうかも判らない。

 上空の障壁は失せ、長い首が次々と降りてくる。砦城は再び騒然とした。


 既に法術士達は障壁を貼り直せる状況にはない。下流の時と同じ、ナジャルの闇が身を侵した為だ。だが、それだけではない。

 法術士だけでは。


 アスタロトは自分の思考の遅さと甘さに、憤りを覚えた。


「タウゼン! 殿下の身の確認を!」





「殿下――!」


 ファルシオンが椅子から身を落とし、床に蹲る。セルファンは叫んでファルシオンへ駆け寄った。

 外の喧騒、伝わって来る空気が、状況が変わったことを――悪化したのだと報せている。


「殿下!」


 ファルシオンは小さな身体を抱え込み、苦痛に歯を食いしばっている。

 つい先刻、中庭で見たアスタロトの姿と、それは同じだった。指先が黒ずんでいるのが見える。


「――ナジャルの」


 障壁を媒介に、ナジャルの闇が侵食している。


 法術士を呼ぶよう声を張り、セルファンは強ばるファルシオンの身体を抱え上げた。






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