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第9章『輝く青3』(37)

 



 アルジマールは詠唱を紡ぎながら、目の前に浮かぶ幾つかの光景を追った。


 四つの楕円の中に映し出されているのはボードヴィル、シメノス北岸、南岸、そして下流。

 それぞれに置いた物見――視点が、状況の断片を伝えてくる。急速に事態が悪化している。

 ナジャルの闇の侵食。貪欲な捕食。


 一瞬も途切れず紡ぎ流れる詠唱の合間、時折もう一つの思考が差し込む。

 今、自分が多重陣の構築に全てを振り向け下流を、そしてボードヴィルをこのままにしておくことが、正しい選択か。

 最重要はこの瞬間に失われていく命よりも、本当に多重陣か。

 ボードヴィルへ対応するべきではないか。


 術の組成を中断すれば多重陣の完成は更に遅れる。もう既に一度中断している。これ以上の遅れは多重陣そのものの使い所を失うことになりかねない。

 けれど今、ボードヴィルを落とされれば後はない。アスタロト、そしてファルシオンを喰われればナジャルを止める術すべはなくなる。


 では、多くの兵が喰われることは。

 剣士達が。


 結局いずれを選んでも、最終的には行き着く先がナジャルの腹なのではないか。

 この多重陣が発動して、何になるのか――


(どうする――)


 ほんの僅か、術式を紡ぐ流れが落ちる。


(どうする)


 目の前に投影された幾つかの光景。

 ボードヴィルを覆った金色混じりの障壁。それも長くは持たない。

 下流で、地を覆い貪り続ける黒い波。


(――今、僕は)



 その虹色の瞳が、上がった。






「レオアリス!」


 目の前に開いた顎あぎとの、並ぶ無数の歯が克明に見える。

 喉に喰らい付こうとした顎の前に、プラドが身体ごと割り込んだ。下から剣を振り上げ首を断つ。

 剥き出しの歯がプラドの左肩に喰らい付き――直後、ぼろりと崩れた。


「プラドさん!」


 プラドの肩の傷から血が噴き出した。


「構うな。集中を続けろ」


 プラドはレオアリスを後方へ押し、まだ血の滴る腕のまま、更にもう一つの首を断った。尚も複数の首、腕が空から垂れ周囲を檻の如くぐるりと囲んでいる。

 プラドが踏み込み、次々に振り下ろされる首を断つ。


 レオアリスはプラドの動きを追いながら、自らの心のもう一つ奥を見つめた。そこは静かだ。


(呼吸を、整えろ。集中を――)


 剣を研ぎ澄ませる。

 澄んだそれを思い描く。

 空の色のように。


 金色の陽射しを受けて輝く、その青。

 レオアリスの左右の剣が、冴え冴えと光を帯びる。



 空に浮かんだ目が瞬く。渦を巻く。

 海魔を含んだ黒雲が地に下がるように、圧力が一段、増した。


『――そなたの友人の苦悶を、見せてやろう』


 まだ空を漂っていた首の内の一つ、ゆるゆる降りてくる。

 その面に半ば浮かび上がっているのは、少女の顔だ。先ほどよりも明瞭に、内側から掘り出されるように、形がはっきりしてくる。


「アスタロト――!」


 レオアリスは空を見上げ、一歩踏み出した。剣の光が揺れる。


『もうすぐ我が身の内に完全に宿る。そなたがここでただ立ち尽くしている間にも』






 黄金を含んだ白い障壁が振動する。

 手足を抱え、苦痛を内側に抑え込むように短い呼吸を繰り返していたアスタロトが、唐突に身体を震わせた。

 抑えきれない苦鳴が噛み締めた歯の間から溢れる。


「公!」


 タウゼンや法術士が驚きアスタロトを覗き込む。両手を肘まで染めて止まっていた黒い染みが、再び蠢いている。

 じわりと、ほんの僅かずつ、広がって行く。


「侵食が、また」






「ナジャル」


 プラドは低く、呼び掛けた。

 レオアリスを背にし、無数の腕、首を断つ。だが視線は空へと向いていた。


「さっきも言ったが、お前は恐れているのだろう」

「プラドさん――?」


 確固たる響きだ。

 空から垂れる首達の動きが一度、止まった。


 黒雲がもう一段下がる。

 空が落ちてくるようだ。


『愚かなことだ。そうも自らを過信できる若さは、好ましくもあるが――』


「海魔を用い、幻影を弄し、異物を捏ね上げ、この場からとかく自らを切り離そうとしている。心を揺さぶり、乱そうと謀る。それほどまでに驚いたか」


 ナジャルの気配がすうっと静まる。

 対照的に風が揺らぎ、プラドの剣を巻き込み吹き上がる。


「お前はあの時、自分が失われる可能性に気付いたはずだ。長い生の中で、そんなことが一体どれほどあったか――」


 プラドは視線を空に据えている。

 空に浮かぶ首や腕は、動きを止めたままだ。


「これまで恐らくは海皇と、アレウスの王。そして赤竜くらいか。この三者のみがお前に死の恐れを見せたのだろう。だが、つい先程も、お前はそれを感じたんじゃないか?」


『過信を好ましいと言いはしたが――たかが剣士、三人寄り集まったところで、我を削り尽くせる訳もない』


「三人? 違うな」


 プラドの言葉に驚いたのは、レオアリスの方だ。


「お前が最も恐れているのは一人だ。レオアリスを」


 ナジャルが沈黙する。


「レオアリスの最初の一刀で、お前は図らずも三つの姿を現わした。あれは恐らくお前の本質だ。違うかと尋ねても答えまいが」


 空が渦巻く。灰色と黒とに。

 嘲笑う響きが渦巻く。

 首が四方からしなり、急速に迫る。


 プラドの剣が内三つを断ち、だが二つは剣を掻い潜り、プラドの身体を打ちつけた。

 プラドが後方へ弾かれる。


「プラドさん――!」


 掴もうとした手は指先だけ掠めた。二つの首と、空から垂れ下がる無数の腕がプラドへと伸びる。

 レオアリスは右手の剣を払った。青い閃光が走り、首と腕をまとめて断つ。


 弾かれたプラドが地面に叩き付けられる寸前で、レオアリスは地面を蹴りその身体を受け止めた。


「集中しろと――」

「大丈夫です、もう、済みました」


 プラドの言葉が教えてくれた。


 レオアリスの左右の剣が煌々と青い光を発する。

 双眸を空へ据える。


「――見えた」


 初めから、そこに。あの一つ目の向こう――

 そこにナジャルの意識がある。


 レオアリスの身を覆っていた青い光が一瞬強く吹き上がり、それから、体の周囲へと凝縮した。

 光は更に身体に吸い込まれ、二箇所へ――、左右、二振りの剣へ、集まる。


 動きを止めていた長い首、そして手が、青い光から逃れようと互いに絡まり、ぶ厚く重なる。

 構わず踏み込み、レオアリスは右手の剣を、掬い上げるように縦に振り抜いた。空へ。


 青い輝きが大気を裂き、一直線に空へと走る。

 更に踏み込み左の剣を薙ぐ。

 剣光が十字に重なり、空は四つに断たれた。


 全ての首が光に飲まれる。二人を囲い遮断していた腕の『檻』もまた、ぼろりと崩れた。


 その向こうに断たれた無数の首と、空を見上げるカラヴィアスの姿があった。喉元で赤い光が揺れている。

 プラドも空を睨む。


()()()()()()()――」


 空から灰か、霧か、闇か。

 砂時計が落ちるように、地に降り積もる。三箇所。

 三つの影。


 影は二、三度揺らぎ、次第に形が現われる。


 レオアリスは剣を下ろして立ち、三つの姿を見据えた。


(ナジャルの、()()




 百年も年老いたように見える男――それとも女。



 二十代そこそこに見える女であり、男。



 そしてもう一つ、年齢も、性別も、顔すら目には見えているのに認識し難い存在。





 空気が更に一段、重さを増した。





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