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第9章『輝く青3』(29)



 飛竜の背からアスタロトの身体が滑り落ちる。

 カロラスが伸ばした手がアスタロトの腕を掴んだ。


 飛竜の背に引き上げ、蒼褪め張り詰めた顔を確かめる。呼吸は浅く、荒く吸い込む一つ一つの短さが身の内の苦痛を物語っているようだ。


 北岸、そして見渡す南岸の混乱は収まっている。アスタロトの炎はナジャルが変質させた黒い炎をもう一度塗り潰し、拭い去った。

 シメノスの海魔も焼かれ、黒い固まりのように縮んで動かない。


(さすがと言うべきか――だが代償は大きい)


 アスタロト自身、そして失われた兵の数も決して少なくはない。


「カロラス、どうだ」


 飛竜を寄せ尋ねるトールゲインに、カロラスは厳しく眉を寄せた。


「治癒が必要だ。アレウス国軍の法術士に得意な者がいればいいが」


 アスタロトを蝕む苦痛は恐らく、ジグムントを喰らったそれと同質のものだ。「ジグムントは」


「――長に伝令使を送った」


 トールゲインは短く告げた。カロラスが唇を引き結ぶ。

 参戦を決めた時から覚悟はしていたことだ。


「下に治癒師が来ている。ジグムントを診ていたが、そのまま将軍の治癒に当たれるだろう」


 切り替えるように、トールゲインはシメノスを見下ろした。


「一旦落ち着いたとは言え、海魔――ナジャルがあれで退くとは思えん。すぐに何らかの動きがあるはずだ。今の内に体制を整え直す。だが俺達の剣が呑まれるようでは、戦いは恐ろしく厄介だろうな」


 トールゲインはカラヴィアスの補佐役であり、剣士達の中でも豊富な経験を有している。そのトールゲインが厳しい判断をせざるを得ない状況だ。上流、カラヴィアス達の状況も気になっているだろう。


 カロラスは黙したまま頷き、トールゲインに目礼して飛竜を降下させた。

 北岸の丘の一つには既にエスト、バルギエル、クラディアスと、灰色の法衣を纏った法術士が三人、降りている。


 項垂れる彼等の間にジグムントが横たわっているのが見えた。右腕の剣はほとんど失われ、右半身は肉と骨が剥き出しになっている。傍らにエリアスが膝をついていた。


「――」


 アスタロトを飛竜から草地に降ろす間にも、苦痛がその身体を蝕み続けているのが判った。歯を食い縛り必死に堪え、滲む汗で軍服が重く湿り気を帯びている。

 痛みで気を失うこともできない状態だ。


「閣下――!」


 アスタロトへと駆け寄った法術士達を見回す。


「法術士殿、侵食を止めることはできるか。それでなければ痛みを抑えることだけでも」

「や、やってみます」


 一人が青ざめた顔で、だが躊躇う間も惜しんで頷き、アスタロトの傍らに膝をついた。

 術式を口ずさみ、横たわるアスタロトの上に光る法陣円を作り出す。他の二人は補助式なのだろう、同じ術式を綴っている。


 初めの法術士が法陣円に手を添える。

 法陣円の光が広がり、柔らかく穏やかにアスタロトを包んだ。

 ふた呼吸ほどの間――


 不意に、法陣円が黒く染まった。

 掲げていた法術士の右手も一瞬で黒ずむ。


 法術士は身体を硬直させ、跳ねるように身を反らせて草地に倒れた。悲鳴が上がる。

 アスタロトを蝕む闇と同じだと見て取り、カロラスは右腕の剣を走らせた。

 法術士の手首から先を剣で断つ。


 のたうつような悲鳴を背に、カロラスは他の二人の法術士へ声を張った。右手首の断面は剣の熱で灼かれ出血は無い。


「治癒を。落ちた手に触れてはいけない」


 忠告するまでもなく、黒く染まった法術士の右手は草地に落ちた後、灰でできていたかのように崩れ、散った。

 それを睨み、それから右手を断った法術士の傍らに膝をつく。


「咄嗟に断つしかなかった。お詫びする。痛みは」

「な、無い――」


 右手を失った法術士は辛うじて首を振った。断たなければ、闇はあっという間に全身を蝕んでいたのではないか。右手を――神経を蝕む痛みと共に。


「カロラス」


 最年長のエストがカロラスの傍らに立つ。


「現状で治癒は困難か――将軍はご自身の治癒力、つまり炎によってぎりぎりのところで堰き止めておられるのだと思う」


 幸いかどうか、と続ける。

 それが苦痛を長引かせている原因でもある。


「ここではなく、一旦ボードヴィルか、近隣の主要な都市か、もしくは彼等の王都にお連れした方がいい」

「しかし今のを見ると、相当の治癒師でなければ難しいかと……浄化の域です。将軍自身の炎が最も効果的でしたが――」


 束の間カロラスは口を閉ざし、続けた。


「長の持っている宝玉ならば」


 エストもまた迷いを見せ、それでも首を振る。


「確かに――だがそれは状況がどう転ぶかによるよ。――クラディアス」


 一番若いクラディアスを呼ぶ・


「至急ボードヴィルへ戻り王太子殿下に状況を伝えると共に、治癒の体制を整えてくれるか。この先同じ状況に陥らないとも限らない」


 そのまま戻すつもりで命じたエストの内心を感じ取った上でか、クラディアスは意志を双眸に込めエストへ目礼した。


「はい。整えたのち、必ず戻ります」

「――」


 一瞬迷い、だがエストは頷いた。

 アスタロトの苦しみは続いている。


「まずはボードヴィルに急げ」




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