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第9章『輝く青3』(16)

 

 内政官房長官ベールの声だ。

 法陣円から立ち上がる光の幕がスランザール、内政官房長官ベール、財務院長官ヴェルナー、そして他の侯爵達の姿を映し出す。

 あたかも楕円の卓がもう一つ、並んでそこにあると思えるほど近く感じられた。


『王太子殿下――御身の御無事をこの目で確認できたこと、喜ばしく存じます』


「みなのおかげだ。私はみなに守られて、ここにいることができている」


 しゃがれた声が代わって届く。


『王太子殿下は昨日と比べ、十年も成長されたような御様子であらせられる』


「スランザール」


 ファルシオンは頬を綻ばせた。スランザールが法陣円の幕の中で身を揺らし、一礼を向ける。


『これまでの報告はある程度受けております。未だ道半ばながら、現時点では、まずは勝利と申せましょう』


「そうだ。私たちは今、勝っている」


 ファルシオンは揺るぎなく頷いた。

 幼い声は凛として、列席者達それぞれの耳に届く。

 その響きに正規軍将軍、大将達が双眸に決意の色を改めた。


「そして、これから――必ず、私たちはさいごにも勝っていなくてはならない」


 白い幕が映し出す姿は再びベールへと変わった。


『それでは、まずは現状の確認、それから戦術の確認及び検討を』


 アスタロトが片手を上げ口を開く。


「当初の予定通り、西海軍二万は堰を用いた分断、挟撃により壊滅。後陣の四万も北岸からの攻撃を仕掛け後退した。同時にレガージュを奪還し、南方軍がシメノス沿岸を東進しつつ挟撃することで退路を絶っている。ここまで、当初予定していた戦術が功を奏した。加えて、ナジャルが出現した際、西海軍にも被害が生じた。これについては心底理解し難いけど、ナジャルは敵味方関係なく喰らった」


 憤りを込めた声を抑えるように一呼吸置き、吐き出す。


「だから西海軍はほぼ壊滅――この戦いにおいての懸念要素とは成り得ないと判断している。問題はナジャルが吐き出す死者だ。まず死者の軍の一万。北岸で西方、東方軍が後退しつつ引きつけて戦った」


 ミラーやゴードン、そして後方に座るゲイツ、シスファン等、死者の軍と対峙した大将達が、戦いを思い出し眉を顰める。

 余りにも虚しく、心を折ろうとする戦いだった。


「死者達の動きを完全に止めることは困難だったが、ルベル・カリマの剣士の助力のお陰で、ほぼ停止した。この戦いが終わったら、私が浄化する。全部」


 アスタロトはきっぱりと言い切り、真紅の瞳の奥に揺らめく光を灯した。

 浄化が彼女の炎によって可能だと、今は誰しもがそう考えている。


「それから――、一番厄介だったのが、ナジャルの吐き出した三つの影――。元西方公と、それから、海皇と」


 肩がゆっくり上下する。


「ナジャルが、喰らって、使役した。その中の二つ、元西方公、海皇の影は既に消滅している」


 列席者達の視線がアスタロト、ファルシオン――

 そしてレオアリスへと動く。


 明らかになっているのは三つの影の内、元西方公と海皇の二つだ。ではもう一つの影は、誰だったのか。どうなったのか。


 一呼吸おき、光の幕の向こうから、ベールの問いが返る。


『今、ナジャルの動きは』


「法術院の観測では、南岸に闇の塊が見える。私達がボードヴィルに戻って、これで四刻になるけど、動きはまだない。でも私達を警戒してるからだとは思えない。私達がどう動くのか、ただ待ってるんだと思う」


 アスタロトの言外には、自分達がどう動こうとナジャルにとってどれほどの問題でもないからだと、そんな言葉が隠れている。


「法術院には、海皇によって一度崩されてたボードヴィルの防御陣を再構築を急いでもらってる。でもそれだけじゃ何も解決しない。ナジャルをどう倒すか、ここで改めて明確にしたい」


『ナジャルを倒すには本体に戻す必要がある。その条件は変わっていない』


 ベールの声は法術を介し、普段よりもより淡々と広間に響く。

 可能性の低さを改めて示すようだ。


『法術院長アルジマールの二重陣はナジャルを捉えきれなかった――擦り抜けたと聞いている。多重陣を張るのに要した時間はアルジマールでさえおよそ六日――それを考えた時、ナジャルの捕縛が叶うかどうか、そこが鍵になるだろう』

『叶うでしょう』


 ベールとはまた異なる理知的な、涼やかな声が光の幕の向こうで答える。

 光の幕の中にヴェルナー――、ロットバルトの姿を映し出す。


『まず一つめの要素。ナジャルを抑え、跳ばす為に必要なのは捕縛陣と転位陣、二重の陣です。その為にアルジマール院長は六日をかけて多重陣を構成しました。ナジャルは二重陣を擦り抜けましたが、最大の要因はナジャルの力を削っていない段階だったという点にあります。次の要素として、新たな戦力』


 ロットバルトの言葉を先回りするように、広間の中の視線が楕円の卓に座る二人に集中する。


『思いがけず、ルベル・カリマ、そしてベンダバールの二つの戦力が加わったこと。この段階での戦力の追加は非常に大きな要素です。それが剣士ならば尚のこと、狭隘の山路から平地に出たと言っていい。ルベル・カリマは可能性を捨ててはいませんでしたが、ベンダバールは想定外でした』


 その言葉にカラヴィアスは「はっきり言うなぁ」と頬に笑みを刷いた。


『アスタロト公の炎も以前より力を増しています。現状、戦力は飛躍的に増加したと言えるでしょう。ナジャルを本体に戻す為には、人型、あるいは闇――思念の投影と呼ぶべきかは判りませんが、それを削り続けることが求められる。最も困難と考えているそこに、一間なり、一里なり、近付くことができました。その上で』


 白い光の幕の向こうから、ロットバルトはレオアリスへ双眸を向けた。


『この戦術のもう一つの鍵は、近衛師団第一大隊大将の剣の状態にあります。()()()()()()()()()()()()()――今の状態はいかがですか』


「問題はありません」


 レオアリスは光の幕を挟んで視線を捉え、端的に、明瞭に返した。

 カラヴィアスが片手を上げる。


「私が見たところ、剣威は半年前より数段上がっているだろう。半年前までは左右二つの剣を顕す機会は少なかったようだが、今は十全に扱えるはずだ」


『承知しました』


 右の剣が戻った理由を敢えて問わず、ロットバルトは頷いた。


『では、今後我々が視野に入れておくべきは、ナジャルそれ自体のみと仮定してもいいでしょう』


 レオアリスは視線を卓の木目に落とした。

 ナジャルの吐き出した三つ目の影が誰で、どうなったのか、それをこの場で明らかにする必要は無い。特にファルシオンの前では。


(この戦いを終わらせることで返すだけだ)


 そしてその後、ファルシオンへ話をすればいい――しなくてはならないが、全て終わった後に話をすると、そう誓った。

 ロットバルトの姿からベールの姿へ、光の幕の中が入れ替わる。


『改めて戦術を確認したい。カラヴィアス殿、ナジャルについて何か情報をお持ちか』


「どれほど役に立つかは判らないが」


 カラヴィアスはそう言い、光の幕の中のベールと、それから正面に座るファルシオンへと瞳を巡らせた。


「受け売り程度とお考えください。まず()の蛇は、大きく分けて三つの形態を持ちます。本体の蛇体、人型、思念体というべき闇。闇は流動的であり、捉え難く、それそのものを武具のように扱うこともあれば精神面へ作用させることもできる。人型は思念体の一つの形状でしょう。おそらく他のものにも変わるはずです」


 広間と、そして法陣円が揺らす幕の中とに冷えた空気が流れる。


「死者の使役。喰らったものを使役する。ただし機能、能力は喰らった際の状態に拠り、また、生前――喰らった際の本人より、その力は落ちていたはず」


 広間の列席者は互いに顔を見合わせた。騒めきの中、「あれで本来の力じゃ無いってのかよ」とクライフが堪らず呟く。

 ボードヴィルへ侵入した海皇の影の力は、クライフ達からすれば脅威以外の何者でもない。

 それを倒したことで、ようやく一息つくことができていたのだ。


「吐き出した死者を消したことで、ナジャルの力もその分削ったはずです。しかしながら」


 力を削った、という言葉に安堵しかけた列席者達へ、カラヴィアスは双眸を巡らせた。


「取り込んだ力は少ないと申し上げた。あまり期待しない方がいい。そもそも本来の生命力――命数は桁外れだ。どこまで削れば底が見えるか、考えただけでもうんざりする」


 椅子を微かに軋らせ、カラヴィアスは再びファルシオンへ瞳を戻した。


「それから、本体ですが、これが一番厄介です。尾を振り回されれば掠っただけでも致命傷になりかねませんし、牙も同様――加えて毒を有しています。外皮、あの鱗は我等の剣も通り難い。更には回復力。一つ一つ挙げていくと、戦うという行為が非現実的なものに思えてきます。そうした存在です」


 唸るような空気が広間に満ち、カラヴィアスは苦笑した。


「脅すつもりはないのだが――事実は事実として捉えるしかない」


『貴方の見立てでは、どれほど削れば本体に戻り、そしてどれほど損傷を与えればナジャルを倒すことが可能とお考えですか』


 カラヴィアスは声を立て、短く笑った。嘲笑ではなく苦笑だ。


「失礼した――私はほぼ不可能なのだと口にしたつもりだが、そう――」


 身体を起こし、光の幕へ顔を向ける。


「この状況下では戦うしかないし、ナジャルを滅ぼすしか道はない。あれは喰らいたいのだからな。謀らずも海皇を喰らい――いや、謀ってのことかもしれないが、そのせいで久方ぶりの美味に目が向いた。一定程度喰らい尽くすまで満足はすまい。だからこそ、あの暴威、理不尽を前にあくまでも戦おうとするあなた方に我々は敬意を抱く」


 広間内は静まり返り、ただそれは誰一人、そこから退こうと考えている為の沈黙ではない。

 カラヴィアスは真っ直ぐにファルシオンを見つめた。


「質問の答えとはいきません、が――蛇体に戻すのであれば、吐き出した死者を完全に消滅させ、加えてあの闇を徹底的に削る必要があるでしょう。どの程度まで、とはお尋ねにならないで頂きたいものですが」


 それからレオアリスへ、その瞳を移す。


「致命傷を与えるのも同様。斬撃を重ね、ひたすら削るしかない。今のお前の剣でも、ただの一撃では外皮を削れる程度だろう。それでもお前の剣は、今最もナジャルを削れる力を持つ」


 レオアリスは軽く瞳を見開き、鳩尾に指先で触れた。


「――ナジャルを倒すまで、何度でも斬るつもりです。ナジャルが再生し続けるのならば、一撃がただ膨大な影の一欠片を斬っているだけだというのなら、その膨大な影全て、消滅し尽くすまで何度でも」

「うんざりするが――その通り」


 会話の内容とはそぐわず、カラヴィアスは双眸を柔らかく細めてレオアリスを見つめ、今度はアスタロトへと顔を向けた。


「将軍閣下は先ほど、死者の軍の浄化を戦いの終了後と仰ったが、先がいい」

「先?」

「我々の剣によって七割方消失しているが、死者の軍の痕跡そのものを浄化し、ナジャルが再び取り込むことを防ぐ」


 アスタロトは真紅の瞳を窓の外に向け、頷いた。


「その方がいい。私も、いつまでも晒しておきたくない」


 白い光の幕が揺らぐ。

 ベールの姿を捉え、映す。


『基本的な戦術に大きな変更はなく、まずはナジャルを本体に戻す為に動く。カラヴィアス殿、プラド殿、改めて力添えを頂くようお願いする』


「無論――。このプラドは無口だが、その分戦力として剣を以って応えるだろう」


 プラドは傍らのカラヴィアスへ眉根を寄せたが、そのまま黙っている。


『礼を申し上げる。では、これより正規軍、法術士団はボードヴィル及びその周辺域の防御に徹し、ナジャルとの交戦は当初の予定通り正規軍将軍アスタロト、近衛師団第一大隊大将レオアリス、法術院長アルジマールを中心とし、剣士の二氏族の協力を得る。戦いの決着点はナジャルの消滅――』


 沈黙が一度、広間を支配する。

 誰ともなく、静かに息を吐く。


『他に意見は無いか』


『一つある――』


 それまでいなかった声が新たに加わる。

 広間からでもなく、王都からでもなく――幼さを感じる響きは、法術院長アルジマールのものだ。


『僕はもう一度、ナジャルを捕らえ、跳ばす。だからこのボードヴィル周辺からまずは戦闘域を外れないで欲しい』


『準備にどれほどかかる』


『――あと、一日。ナジャルが擦り抜けた時に基礎が幾つかいかれた。一日あれば充分だ』


「充分――? 丸一日、一方的に剣を叩き込み続けたとしても、どこまで削れているやら」


 呆れた口調でカラヴィアスが肩を竦める。

 アスタロトは最後に片手を上げた。


「丸一日とは言わないけど」


『いや、ちょっと勘弁してよ』


 アルジマールの抗議をよそに、アスタロトは続けた。


「動くには少し時間が必要だ。死者の軍の浄化の時間。それから兵達の休養の為にも。せめて一晩、ナジャルが動かずにいてくれればいいけど」


『そう願おう』


 ベールが頷き、ファルシオンへ向き直る。


『王太子殿下――』


 ファルシオンは幼い面を持ち上げ、白い光の向こうと、そして楕円の卓、広間を見渡した。


「私たちは、必ず、勝てる。そうみなで準備してきた」


 レオアリスは楕円の卓の奥、背を伸ばし、凛として座るファルシオンの幼い姿を見つめた。


 国王代理として多くの希望の上に立とうとしている姿。

 兵達の、人々の願いを身に受ける存在。

 この先に向かって、守るべき存在だ。


 鳩尾に、静かに、熱が揺れる。


「みなと共に戦えることを、心から誇りに思っている」



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