第9章『輝く青3』(15)
グランスレイは王妃とエアリディアルの前に膝をつき、状況を伝えた。
「ボードヴィルから報せがまいりました。状況は一旦落ち着き、王太子殿下は御無事であらせられると」
グランスレイの言葉とともに、それまで蒼ざめていた王妃の面に薄らと血の気が差した。
「良かった――」
深い背もたれのある椅子に身体を預け、そっと息を零す。
月華宮とも呼ばれる王妃とエアリディアルの為の館は、晴れた空の上に浮かぶように陽射しを全体に受け、やや青白い大理石の壁や柔らかな蜂蜜色の床を穏やかな光で満たしている。
それでも、二人の心はこの報告を聞くまで、冬の戸外の空気に晒されているようだった。
「あなた方にも、困難を課してしまっています。戦場の、兵達は」
「容易くはない状況にいるのは確かでございます。しかし王太子殿下ご自身が居られます。この上王妃殿下の御言葉を聞けば、兵達も勝利と、そして帰還に向け奮い立ちましょう」
グランスレイはそう告げて上体を折り、深く頭を下げた。
エアリディアルは母の肩に手を当て、藤色の瞳でグランスレイを見つめた。
西方での最終決戦の中、彼がこの王城に残ったことも、そして遠く離れた戦場の状況にも、様々な想いがあるだろう。
(ナジャルという存在との対峙が、これからどのように展開するか、まだ安心することはできない――)
遠く遥か、西方の空を見つめれば、そこに心を掴むような重苦しさを覚える。
これだけ離れればその欠片すら瞳に捉えられないが、ナジャルという存在が帯びる禍々しさが空に渦巻く闇を滲み出すかのようだ。
エアリディアルは自分が王女という立場であることを、今ほど不自由だと思ったことはない。
幼い弟を戦場に立たせ、自分自身は遠く離れた王都の、安全な王城奥深くで守られていることが。
(ファルシオンを守れるだけの力が――、一人一人を守るための力がわたくしにあれば)
剣を振るうことを身に付けていれば。
(――あの方が、羨ましい)
ほとんど同じ歳でありながら、自ら戦う力を持って、戦場に立つことを選んでいるアスタロトが。
今までその想いを、自らの中に明確に捉えたことはなかった。
今の状況に置かれて初めて、そう思う。
ただ、僅かに――、西の空の端を染める闇は、薄れたかのように思えた。
「エアリディアル」
想いは口には出さず、エアリディアルは母へ柔らかく微笑んだ。
「お母様、きっともうすぐ、全てが終わったという報せを受けることができましょう。わたくし達は彼等のために今は祈り、そして戦いの全てが終わったならば、彼等を労い、王太子殿下と共に国の復興のために力を尽くす時を待ちましょう」
戦場にいる兵達、そして幼い弟を想う。
全てを終え、戻ってくることを。
それから。
東方公、ヴィルヘルミナの街の前、夜の空と無数の矢を切り裂いた、青白く美しい剣の光を。
「出席者全員揃えば、こりゃ後にも先にもなかなか無い光景になるな」
そう唸るように口にしたワッツと、クライフも想いは同じだ。
ボードヴィル砦城の東棟三階の広間は、整列すればおよそ五百名が入れるほどの広さを有している。兵達への訓示や、時折の祝賀の式典などに使われていた。
半年前――、ルシファーが兵達を集め、『ミオスティリヤ』を引き合わせた時にもこの広間が使われた。
今は広間中央に縦長の楕円の卓が置かれ、軍議のはじまりを待っている。
卓の設えは、王都の謁見の間に仕立てた卓とほとんど同じだ。
卓の一番奥、楕円の頂点に総大将である王太子ファルシオンの為の椅子がある。
左右にアスタロト、タウゼンの席が並び、各方面将軍とその麾下の大将各一名、近衛師団、法術院と交互に左右の列に振り分けられる。
そしてファルシオンと対面にルベル・カリマの長、カラヴィアスと、ベンダバールのプラドが座る席が設けられていた。
クライフはワッツの席の卓に軽く寄りかかり、頷いた。クライフ達の席は楕円の卓をやや遠巻きにして置かれている。
「ファルシオン殿下の御前に剣士の揃い踏みだからな。ちょっと前じゃそんな状況、考えもしてなかった。それに――」
まだ楕円の卓はほとんどが空席だが、その中でも目立っているのは、椅子が置かれていない一角――ファルシオンの席から見て左側の一角だ。法術院の並びのおよそ五席分ほどは椅子が置かれず、これから軍議が行われる卓に違和感を与えている。
「アルジマール院長、何だかんだ仕事するよなぁ――っと、俺も席に着くわ」
クライフが向けた視線の先で廊下へ続く扉が開き、軍議の出席者が次々と入室してくる。
各方面将軍――北方将軍ランドリー、東方将軍ミラー、南方将軍ケストナー、西方将軍ゴードンがそれぞれの席の前に立った。まだ着座はしない。
八名の法術士が裾の長い灰色の法衣を揺らして歩き、内三人は楕円の卓の左側、あの椅子の無い空間を挟んだ手前三席に座り、残りの五人はそのまま壁際に控える。その中にはアルジマールの姿は無かった。
タウゼンが、まだ応急措置を終えただけの状態でありながら、卓に着く。右腕全体と上半身を覆う包帯の上に軍服を掛けている。正規軍将軍達、控えているワッツを始めとする大将達は、タウゼンヘ踵を鳴らし敬礼した。
次に入ったのはレオアリス――彼とほぼ同時に広間に入った三人の見慣れない姿に、小さな騒めきが流れる。
ルベル・カリマの長、カラヴィアス。
ベンダバールのプラドとティエラ。
四人が席の前に立ったところで、着席していた者達は一旦、全員が立ち上がった。
アスタロトとセルファンを伴い、ファルシオンが入室する。
中央に楕円の卓がぽつりと置かれている印象だった広間は、席に着いた顔ぶれの為か、印象がガラリと変わり、密度を増したように思えた。
「これだけで勝ち筋に見えるんだが、さて」
ワッツは口の中で小さく呟いた。
ファルシオンは黄金の瞳を、楕円の卓の左側、椅子の置かれていない一角へ向けた。
「始められるだろうか」
法術院の三席の中央の一人が立ち上がってファルシオンへ一礼し、背後へと視線で合図を送る。
壁側に控えていた五人の法術士が同じくファルシオンへと一礼し、その内二人が、手にしていた書物を広げた。
二言、三言、術式を口ずさむ。
楕円の卓の傍、椅子が置かれていない一角の向こう、床の上に丸い法陣円が浮かんだ。
続く術式の流れに乗り、幕を張ったような白い光が音もなく、一間近い高さまで円筒状に立ち上がる。
白い光の幕の中で二度ほど、別の光が揺れたかと思うと、幕の中に一つの像を結んだ。
どよめきがすぐに沈黙に変わる。
光の中に浮かび上がった像は、この軍議の場の列席者のほとんどには見慣れた光景だ。
遥か東、王都アル・ディ・シウムの王城五階に位置する謁見の間――、そこに置かれた楕円の卓を映し出している。
ファルシオンは揺らぐ光を見つめ、心の中でそっと息を吐いた。
(あの時みたいだ)
図らずも半年前、ルシファーが王城謁見の間との空間を繋げた時と、それはほとんど同じ状態と言えた。
あの時は、自分がこのボードヴィルに、今のような立場でいるなどとほんの僅かも考えもしなかった。
ずっと父王の庇護のもとにいられると、そう思っていた。
ファルシオンはレオアリスへ、視線を向けた。レオアリスもまた同じような想いを抱いているのか、視線はほぼ同時に重なり、ほんの僅か頷いた。
「――始めたい。いいだろうか」
もう一度、今度は法陣円の幕に映し出された空間へ、ファルシオンはそう声をかけた。
一拍後、低く落ち着いた声が返る。
『揃っております』




