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第9章『輝く青3』(11)

 

 一瞬の強く青い光が視界を満たす。


 身体を、命を端から削り取るかの如く重くまとわり付いていた空気が、直後、拭い去ったように軽くなった。




 アスタロトは頬に石畳の冷たさを感じながら、閉じようとする瞳を無理矢理上げた。霞む視界でどうにか、光を捉える。

 その存在がすぐにわかる。青白く輝く光は、あの剣だ。

 二つ。


(二振り――)


 レオアリスの剣。

 戻ったのだ、と、そう思う。


「……殿、下……」


 何とか動かした視線が空に浮かぶ銀翼の飛竜と、その背の幼い王子の姿を捉えた。ファルシオンは無事だ。

 肺の奥から、深い息が零れた。


(海皇の気配がない。倒したんだ――海皇を……)


 命を吸い上げていた三叉鉾は砕けた。もうあの悍ましい気配はどこにも無い。


「良かった……」


 安堵が波のように広がる。

 それに抗い、アスタロトは石畳に手をついて、身体を起こそうと力を込めた。


(まだ)


 あと、もう一人――

 ナジャルそのものが残っている。ナジャルを倒さなければ終わらない。


「――」


 腕に懸命に力を込めても、まるで力が伝わらず、身体を起こすことができなかった。


「――様……!」

「炎帝公!」


 誰かが呼んでいる。駆け寄ってくる幾つかの足音。

 側に誰かが膝をつく。


「治癒師を――」

「だい、じょうぶ――」


 霞む視界の中、ナジャルを倒すための戦いがまだ残っているのだと、そう自分に言い聞かせる。


 ただ目を上げるのも叶わず、アスタロトの意識は今度こそ、深い眠りの中にすとんと落ちた。









 いつも背中を見ている気がしていた。


 自分の前に立つ背中――

 そこに居る。そのことに深い安堵を覚えながら、手を伸ばしてもその背に触れられないのではないかと、何故かそんな思いがいつもどこかにあった。


 例えば、ファルシオンの兄、イリヤを助けるために湖で戦った時。

 例えば波に揺られる船の上で、マリ王国海軍提督メネゼスと向かい合っていた時。

 例えば、王城で。


 ファルシオンの居城の温室で。

 王都に西海軍が侵攻した夜、長い眠りから目覚めて、ファルシオンの前に立った時。


 このボードヴィルの塔から、シメノスの戦いを見つめている間も。


 いつもファルシオンはその背中を見ていた。

 そう感じる理由はわかっている。

 いつも、自分が守られているからだ。

 彼が自分を、いつも守ってくれているから――


 だからその背中はずっと遠かった。





 ファルシオンを乗せた銀翼の飛竜が、ボードヴィル砦城の中庭へ、風を煽って降りる。

 銀翼が地面に首を下ろすか下ろさないかの内に、ファルシオンは飛竜の背を滑り降り、その姿を見上げながら駆け出した。


 レオアリスは海皇がいた四階の瓦礫の上から中庭へと降り立ち、ファルシオンへと歩いて来る。

 距離が縮まる。姿が、表情がはっきりと見える。


「――レオアリス」


 レオアリスはファルシオンのやや前で立ち止まり、片膝をついた。

 そのまま駆け寄りたい気持ちをぐっと堪え、影一つ分手前で足を止めたのは、見つめたレオアリスの表情がこれまでのどんな時とも違うと、そう感じたからだ。


 父王の前に在った時とも、半年前のあの三日間とも、半年間もの眠りから目覚めた後とも――

 苦しみや後悔ではなく、悲しみや喪失ではなく、穏やかさ、決意、そのどれでもなく、そのどれもがある。胸の奥をぐっと掴まれるような、そんな面差しだ。


 ファルシオンはしばらく何も言えず、膝をついたレオアリスを見つめていた。


 レオアリスは一度、立てた右膝に胸を当てるようにして深く上体を伏せ、それから顔を上げた。

 もう既に手の中から二振りの剣は消えている。

 ただ、その身の(うち)に宿っているのがわかる。


 剣が、戻ったのだ。


「王太子殿下。帰投が遅れ、申し訳ございません」


 声の響きも僅かに、それまでとは違う。

 ファルシオンは首を振った。


「そんなことはない。よく――」


 半年前のあの日、謁見の間での光景が頭の奥を()ぎる。


 父王が戻らなかった、不可侵条約再締結の日――、レオアリスが零した血と、慟哭に似た叫び。

 砕けた剣。


 あれから半年が経った。

 全てあの日から始まったとさえ思える。


 あの日の前に戻りたいと、何度――


「……レオアリス」


 ファルシオンは口をつぐみ、その先の言葉を飲み込んだ。

 ()()は、と――、喉元まで出かかった問いを。


 ナジャルが吐き出した影の、最後の一つ――海皇と同じように、その影が誰のものだったか、レオアリスが失った剣を取り戻しているその理由を、ファルシオンは既に理解していた。


 どんな形でもいい、会いたかったという切なる想い、それから、もし父王に会ったら――()()()()()()()()、それが決して父王自身ではなくナジャルの創り出した影だと解っていても、耐えられただろうかという不安と、怖さ。

 そして、レオアリスが父王の剣士として、父王の影の前にどんな想いで立ったのか。今どんな想いでいるのか。


 幾重にも重なるその感情を捉え切れず、言葉にすることはできなかった。

 ぎゅっと唇を引き結び、石畳に視線を落とす。正面に膝をつくレオアリスの、太陽が落とす影はファルシオンの足元に、ぎりぎり届いていない。


「ファルシオン殿下」


 声に呼ばれ、ファルシオンは足元に落としていた瞳を上げた。レオアリスはファルシオンを真っ直ぐに見ている。

 その瞳を見つめると、たった今湧き起こっていた不安や、恐れ、それからもう一つの想いも不思議と消えていった。

 どこか影を帯びながらも、強く落ち着いた光が漆黒の双眸に宿っている。


 レオアリスは口元に微かに笑みを浮かべた。


「この戦いが終わったら、私の話を聞いていただけますか。きっと、全てをお伝えできると思います」


 ファルシオンがまだ恐れていること、それから、切望していること。

 ファルシオンはじっと見つめ返した。


「ききたい」


 そう頷いた時、二人のいる中庭を取り囲む城から波音にも似た声が広がった。

 見上げれば城壁や塔、城の窓ごとに張り出した露台から、兵士達が中庭へ乗り出すように声を上げている。

 ファルシオン達が今いる中庭には、近衛師団の隊士達が遠巻きに控えている。クライフの姿も見えた。


 中庭を包むのは海皇と三叉鉾を打ち倒したこと、そして(ながら)えたことへの喜びと讃える声だ。勝利の歓声とはまた違う、安堵を含んだ響きが改めて、一歩前進したのだと教えてくれる。

 そしてまだ、終わっていないことも。


 レオアリスはファルシオンへ再び一礼し、立ち上がった。


「ナジャルの気配はまだ南岸に留まっています。そのまま動かないでいてくれれば正直有難いところですが、終わらせる為には、動かさなくてはいけません。一度、現状の確認をした上で、体制を整える必要があります」

「うん」


 頷き、ファルシオンは中庭を囲む砦城をもう一度振り仰いだ。大屋根は一部が崩れ、海皇がいた貴賓室がある棟の一角も、壁が崩れ落ち室内が一部剥き出しになっている。


 一番の影響は三叉鉾が兵達から生命の欠片を吸い上げたことだったが、それでも城壁や、城の中では既に兵達が動き出している様子が見て取れる。

 彼等の姿にほっと息を吐きながらも、反面で、どれほど犠牲が出ただろうかと思うと胸が痛かった。


(わたしが、もっと――もっと)


 ぎゅっと両手を握る。


「ファルシオン殿下は、多くの兵の命を守ってくださっています。私自身も含めて」


 崩れた大屋根から瞳を戻す。

 自分へと向けられている瞳を見つめ、ファルシオンは小さく息を吐いた。


「今は兵達の救助と休息が優先です。一晩――」


 それが現実的ではないことは、レオアリスの声の響きにも表れている。


「可能であれば、ボードヴィルから退かせたい。ただ、まだ北岸は西方軍と東方軍が、ナジャルが吐き出した死者の軍と交戦中でしょう。それに対しては私が」



「そこは我々が引き受けた。もう向かわせている」



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