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第9章『輝く青3』(8)

 


 王の手が伸びる。

 伸ばされた手はレオアリスの髪に触れ、その頭を一度、撫ぜた。


 レオアリスは涙が零れるままの瞳を見開いた。

 目の前の姿が揺らぎ、あの夜の庭園が脳裏に浮かぶ。

 半年前、王が不可侵条約再締結の為にイスへ向かう、その前夜。春の祝祭を締めくくる夜に、同じように王の手がレオアリスの頭を撫ぜた。


 それはレオアリスが最後に、この存在の前に、その剣士として在れた時間だった。



 涙が、止めどなく落ちる。

 この手は、過去のものだ。今、レオアリスの前に在るこの存在は。


(そうか)


 結局自分にとって、この主の為に剣を顕す機会は、もうあのイスしかなかったのだ。

 主がそれを、可としなかった。

 もう、そこに戻ることはできない。



 俯き、目を強く瞑る。

 押し出された涙が頬を伝い、雫を落とす。雫は僅かに黄金の光を帯び、足元の草の上に砕けた。



『――ス』


『レオアリス』



 遠く、微かに名前を呼ぶ声が掠める。



 剣を呼ぶ。

 自らの内にあるそれ。未だ主を持たない剣。

 砕けた剣。

 鳩尾が熱を持つ。

 力なく下げていた右手が、ゆるく持ち上がり、鳩尾に触れた。



 ふと――

 レオアリスは自分の剣に、誰かの指先が触れたように感じて、鳩尾に視線を落とした。

 剣を顕してはいない。

 けれど微かに――、()()()、確かに、そこに触れた。

 そこから零れた金色の光が、刀身を波紋のように広がった。温かく。

 剣を、レオアリスの腕を伝い、胸の奥に落ちていった。



 声が甦る。

 それは()()の、王の声だ。

 余りにも懐かしく、指先すら触れることも叶わず遠く、胸を締め付ける。


『――その刀身を曇らせる事無く、自ら光を纏う(つるぎ)のようであれと願った』


 王都の、庭園で。

 レオアリスに名前を与えたことを語った、王の声。



『強く、清澄な光を纏う剣のようであれと――』



 喉を塞ぐ塊の奥から、声を押し出す。


「――陛下……」



 考える。

 もうずっと、何度も、何度も、何度も――

 あの時の王の言葉を。

 その意味を。


『剣とは敵を切り裂くのみに非ず、そなたら剣士がこれまで心を以って示してきたように、誰かを、何かを護るものでもあろう。そしてまた、そなたが自らそうしてきたように、未来を切り拓くものでもある』


 あの日、自分がイスに、王の傍に居られなかったことを。


 考える。

 かつて、その時、選択した全ての場面にもっと、より良い選択肢があったのではないか。

 違う手段、違う意思、違う選択、違う道を選んでいれば、状況は違うものに、もっと良いものになっていたのではないか。

 考える。

 もし自分が。

 もしあの時。


 考える。


 けれどそれは全て、終わったことだ。

 通り過ぎてしまった。

 どれほど悔やんでも時は巻き戻せず、選んだ道は戻れない。


『そなたは自ら切り拓き、ここに立った。この先迷う事もあろう。その時は、答えは常にそなた自身の中にあるのだと、思い出すと良い』


 そうだ。

 どれほど道を迷っても、違う道を辿っても、自分がきっと、必ず、あの存在の前に立ったように。


 だから、今するべきは、新たな道を――何を今なすべきか考えた上で選ぶこと――

 できるのはそれだけだ。


(――俺は)


『レオアリス』


 王の声――

 違う。

 ファルシオンの声だ。


 剣に触れる黄金の光は、僅かにその光を変えた。

 まだ幼い、けれど、強く輝き始めた光。

 向かう先を照らす、柔らかな澄んだ光――



「――殿下」



 この戦いで、自らも戦場に行くと、ファルシオンはそう言った。


『自分だけ王都にいて――そんなの、総大将なんかじゃない。みなの力になれないのだ。私は、みなの力になりたい』


 反対するレオアリスへ、ファルシオンはその幼い首をきっぱりと振った。


『私は、そなた達と共に行く。それが私の願いで、誇りなのだ』


 黄金の瞳が内側から光を滲ませていた。


『私を認めてほしい』


 輝く光。そこに宿る意志。

 幼い身で重責を背負い、王の――父のいない国を背負い、悲しみと苦しみを心の中に抑え、それでも瞳を前へ向けようとしていた。


 だからレオアリスは、約束したのだ。

 戦場で、万が一、危険が迫った場合は、自分を呼んで欲しいと。


 必ず行くと、そう誓った。




 レオアリスの前に立つ王の姿が、二重にずれる。

 その黄金の瞳は、レオアリスへと向けられている。

 黄金の光だけを残し、姿を変える。


 幼く、まだ頼りなく、それでも凛とした姿へ。



「レオアリス――」



 呼ぶ声が聞こえる。

 王の静謐さと深い智慧を湛えた確固たる光とは異なる、どこか不安定な光。

 追い求める光ではなく、消えないように守らなければならないもの。


 身体の中で温かい光が広がる。

 それはファルシオンが放った金色の光だと解る。



「――ボードヴィルへ」


 ナジャルの吐き出した影――海皇はファルシオンを取り込み、自らの形を、欲望を、取り戻そうとしている。

 それだけはさせられない。もう二度と、同じ後悔をするつもりはない。


 身体の奥底で、砕けて散っていた剣の欠片が、熱を帯びた。

 身体を裂く痛みを伴い、一つに寄り集まっていく。鳩尾へ。



 目の前で、幼い王子の姿は再び形を変え、王のそれへと戻った。

 それでも、もう解っている。

 静かに、言葉を落とす。


「――()()は、俺の剣の主じゃない――」


 ただの影だ。もう王はいない。それをレオアリスは理解していた。

 半年前、王がイスに赴いた日、右の剣が砕けた時から――


 もう、王はいないことを。その前に立つことは、叶わないことを。それは、王自身の意志によるものだと。



『そなたの剣の一振りが、ファルシオンの為にあれば良いが――』



 理解していた。ずっと。

 左手を、鳩尾に当てる。

 ずぶりと沈み、その手が(つるぎ)を引き抜く。


 青白い光を纏う、月の光に浸したような剣――。ゆっくりと息を吐く。

 更に、右手を当てる。

 沈めた指先が、それに触れた。


 剣――王に捧げた、砕けた剣。


 再び形を成したそれを掴み、引き抜く。溢れ出した青白い光が辺りを、夜に落ちる月の光に似て煌々と染めた。

 新たなその剣は、たった今鍛え上げたかのような澄んだ光を帯びていた。


 剣身に、青い光が爆ぜる。

 二振りの剣が青く輝く。



 剣は青白い光の筋を引き、流れた。束の間、無音がそこに生じる。

 二つの光が、王の身体を断つ。



 一度震え、断たれた身体は青い光の中に溶けるように消えた。

 それだけだ。



 ただ、それだけで、そこに既に王の姿は無く、辺りには静寂だけが満ちた。




 両手の剣を下げ、ゆっくりと息を吐く。

 膝を落とし、俯いた。二つの剣は青く、澄んで、輝いている。


 食い縛った歯の奥から、堪え切れず呻きが洩れる。


「――ッ、う……」


 嵐のような感情が渦を巻き、吹き上がる。

 レオアリスは喉を反らし、肺の奥から迸り出るような、嗚咽に似た叫び声を上げた。



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