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第9章『輝く青3』(6)

 

 ボードヴィル砦城の石組の床に散った血を、三叉鉾が吸い上げる。

 吸い上げるごとに三叉鉾の表面は赤黒く蠢き、禍々しさを増した。


 それを手にする海皇の身体は三叉鉾が血を吸うごとに、ぎこちなかった動きが変化し皮膚に生気が戻り始めている。海皇は侵入した地下二階から、既に地下一階への階段を登っていた。


 アスタロトは地下一階までの放棄を決めた。被害を最小限に抑える為に地下一階から一切の兵を撤退させ、一階に自分が控え、部隊は中庭と二階以上を中心に配置した。





 ごくゆっくりと――だが既に悠然と、海皇は歩みを進めた。地下一階に至り、折れ曲がる階段を更に昇る。何処へ向かうか、行くべき先は三叉鉾が示している。

 砦城の三階、未だ黄金の光がある、一角へ。


 そこに至り、そして光を喰らえば、取り戻すことができる。

 新たな血と肉とを得て、その後は全てを喰らい尽くす。

 全て。


 命。存在。血肉を持つもの、持たぬもの全て。


 この国のものを支配し、隷従させ、喰らう。そしてこの地上とあの深い海との、唯一絶対の覇者となる。

 一千年の宿願だ。


『寄越せ』


 海皇は地下一階からの最後の一段を昇り、足を一階の床にかけた。


 不意に、足元に炎が湧き起こった。

 廊下を走り、海皇の周囲に壁となって埋め尽くす。


 海皇は炎に巻かれてもがき、身を捩った。






(復活しかけてる――)


 アスタロトは長い廊下に立ち、頬を張り詰め、七間(約21m)先で燃え盛る炎の向こうに海皇を見据えた。小さく息を吐く。


 復活しかけている。イスの謁見の間では顔は闇に沈み、垣間見たのはごく僅か、淡い光に照らされていた胸から下のみだったが、それでも海皇があの時の状態に近付きつつあることが判る。


(兵達を――)


 喰らって。


 もしこのボードヴィルの兵を、そしてファルシオンを喰らえば、おそらく海皇は復活を果たす。

 あのイスでの海皇が思い起こされる。冷酷で、他者を容易く踏み躙る。自らの兵達ですら何の躊躇いもなくただ糧にした。


 アスタロトの中に炎が燃える。感じるのは強い憤りだ。このボードヴィルを、兵達を、ファルシオンを――この国の人々を、あの存在の糧になどさせない。


「みんな、退がっていい」


 まだ廊下に僅かに残る兵達へ、アスタロトは手を上げ、退がるよう示した。


「しかし」


 西方第七大隊少将ゼンが炎の向こうへ目を向ける。海皇は炎によって足止めされているが、あれで終わる訳がないとゼンにも良く分かっている。

 剣士の剣で斬ることができず、法術による最大の光弾の束でも消すことができなかった。


 それでも少し前まではナジャルの吐き出した影に過ぎなかった。

 今は血を吸い、実体を持ち始めている。意思を。


 アスタロトの炎を挟んでさえ、海皇の身体に満ち始めた力――憎悪にも似た塊り――それを肌に感じる。


「あれは、復活しかけて」

「大丈夫」


 青ざめているゼンに、アスタロトはきっぱり言い切った。

 アスタロトは一歩、踏み出した。海皇を囲む炎が更に温度と、厚みを増す。


「退いて」


 凛とした声だ。

 ここにアスタロト以外がいては却って妨げになる。ゼンは廊下の先の炎を見据えたまま息を飲み込み、兵達へ指示して後退を始めた。


 アスタロトは兵達が退くのを確認し、全ての注意を壁の如く燃える炎の奥に向けた。


「兵達の命を吸ったのは許さない。でも、お前がそれで形を持つのなら、私に有利だ」


 意識を集中し、更に炎の温度を上げる。

 赤く揺らいだ炎は次第に青く、色を変えていく。


 それでも、高音の炎の中で海皇は身体を左右に大きく揺らし、一歩――また一歩と、歩き出した。

 アスタロトは息を呑んだ。だがそれも想定内だ。


(まだ妄執だけの死者――痛みなんか感じてない。焼き尽くさない限り動くんだ)


 一歩、更に一歩。

 海皇はごくゆっくりと、だが、炎を纏わせながらアスタロトとの距離を確実に縮めて行く。七間あった距離は既に六間に縮んでいる。


(なら、もっと)


 アスタロトは敢えて、踏み出した。集中を高める。

 更に一間、二人の間の距離が縮まる。

 変化はそこで現われた。


 再生した肌がぼろぼろと崩れ始める。筋肉が焼け崩れ、骨が覗く。

 尚も再生しようとする肉を、押し切ろうとアスタロトは両手を強く握り締めた。

 目の奥にチカチカと光が明滅しているが、それでも心の中に踊るような希望が湧き上がる。


 燃やせている。想定していたように――想定以上に、海皇が血肉を纏ったことは海皇自身にとっての弱点になっているのだと、そう思えた。


(行ける――?)


 海皇を、倒せるか。

 足留めだけでもと、そう思っていたけれど。ここで。


(このまま、一息に、焼き尽くして――)


 一瞬、くらりと目が回った。奥歯を噛み集中する。

 炎を使い過ぎている。余りにも傷を負った。

 アスタロトには休息が必要で、限界に近い状況にあった。治癒で表面上の傷は塞がったが、身体の内部には疲労が積み重なっている。


 普段は息をするように扱える炎も、発生させ、維持し続けるのにかなりの精神力を要していた。

 回る視界を押し留めようと奥歯をきつく噛み締める。


(でも、行けるんだ――)


 今なら。

 海皇が血肉を纏った今ならば、焼き尽くすことができるはずだ。


 両足を踏みしめ、海皇を見据える。一点に、額の真ん中に意識を集めるように、更に集中を高める。鼓動の音が耳に響く。

 一つ、二つ、三つ――


 五つ目の鼓動を数えた時、焼失と再生を繰り返していた海皇の身体が、がくりと揺れた。

 膝から下が崩れて失われ、身体が床に落ちる。三叉鉾を支えに海皇はもがき、だが身を起こすことができないまま、焼け崩れていく。


(――やった……)


 三叉鉾が支えを失い、炎の海に倒れる。

 蹲った海皇の身体はもはや、ただの黒い塊のようだ。アスタロトの見据える先で、塊は動かない。灰になる――


「やった――」


 全て焼き尽くしたと、そう思えた時――

 崩壊はぴたりと止まった。


 黒い塊が蠢く。燃え盛る炎は一切その勢いを緩めてはいないが、塊は揺れながら立ち上がった。

 炎の中に白い骨――骨格が現れる。


 まるで先ほどまでの時間を逆に戻して行くようだ。臓器が復元し、筋肉が覆い、皮膚が戻る。

 ひび割れた面の、空洞だった眼窩に、金色の瞳が戻った。


 三叉鉾が炎の海から持ち上がり、海皇の手に戻る。石突が床を突く。

 炎は一瞬にして掻き消えた。


 直後、剣山の如く無数に突き出した闇の槍に、アスタロトは右肩を貫かれていた。

 そのまま身体が奥の壁へ叩き付けられる。


「――ッ、あ」


 闇が、アスタロトの右肩を石壁に縫い留めている。左手を上げ、炎を纏わせて縫い留める闇を掴む寸前、新たな闇が二筋、右の手の甲を貫いて更に腹部を、左脚の膝上を穿ち、背後の石壁に突き立った。


 苦痛が全身を痺れさせ、声にならない悲鳴が喉から迸る。


「娘――」


 早く煩い脈動の向こうから、声が流れる。

 海皇の、冷徹な、残酷さを含んだ響き。

 イスで、アスタロトに投げられた言葉――


「自らの戴く王を、疎んでいたのだろう」


 アスタロトは苦痛を堪え、滲む視界を上げて海皇を睨んだ。


「私は――」


 鼓動が早い。

 あの時、海皇に自分の心を見透かされた気がした。

 だから、自分はあの時王の為に戦えなかったのではないかと――


 息を吐き、真っ直ぐ見据える。


「私はもう、そんな想いに縛られてなんかいない」


 戦うと決めた。自分自身とだ。

 取り戻すと決めた。


 炎が湧き起こり、アスタロトを縫い留める闇を焼き、崩す。

 解放されて床に落ち、アスタロトは呻きながらも歯を食いしばり、身体を起こした。


 海皇が近付いてくる。三叉鉾がゆらりと揺れる。

 あの鉾が身を貫けば、ひとたまりもなく死ぬと、解った。


「そなたが想う相手はそなたを見ていない。全てを見捨て、己の主の前にいる」


 アスタロトは真紅の瞳を見開いた。


「――レオアリス」


 ずっと、ナジャルが三つの闇を吐き出した時から、ずっとそれを恐れていた。


「そうだ。今はあの男の前だ。分かるだろう? この場所のことなど――そなたのことなど、あの剣士の意識の片隅にも無い」


 王の前にいる。

 決して、王ではないものの前に。


「そなたが疎むのも当然――」


 含んだ嗤いが耳をそろりと捉える。囁く。


「だがもし望むのならば、あの剣士をそなたのものにしてやろう。私にそなた以外のものの命を寄越せ。あの王子の命を寄越せ。アレウスの残滓も、私が残さず喰らってやろう」

「――」


 アスタロトは息を深く吸って、吐き――

 笑った。


「何言ってるの。言ったじゃないか。とっくに私は、そんなものに縛られてなんかいない。お前みたいに」


 膝に手を当て、激しく痛み、鉛のように重い身体を起こし、立ち上がる。

 右手に炎を纏わせる。 自分の中に残る、ありったけを。


「お前みたいに、千年も、自分の周りのことなんか何一つ見ないで、ただ縛られているだけなんかじゃない」


 息を吐く。


「王も――、レオアリスも」


 右手に纏った炎が燃え盛りながら渦を巻き、アスタロトの腕を昇る。

 それは吹き上がって広がり、近付いて来る海皇を再び包んだ。今まで以上に激しく燃え盛る。

 それでも――


 自分の炎の熱を感じながら、三叉鉾の表面を蠢く赤黒い流体のようなそれを、アスタロトは目で追った。

 海皇自身よりも尚、悍ましい。

 あれがある限り海皇は滅びない。


(三叉鉾を、滅ぼさなきゃ)


 今の炎のままでは駄目だ。

 三叉鉾がある限り何度でも生命を吸い上げ、何度でも海皇は、血肉を纏い続ける。

 そしてそれは、ナジャルへと繋がる。


(ここで)


 最大の炎を――そう、死者の群を浄化した、あの赤い竜の炎のように。

 あの炎があれば、海皇を、三叉鉾を滅ぼせる。

 この妄執を。


 三叉鉾の切先が倒される。アスタロトへと真っ直ぐに向けられている。

 海皇は激しい炎に包まれたまま無造作に歩みを進め、アスタロトへと、切先は次第に近付いた。

 あと一間。半間。


 三叉鉾の三つの切先が、アスタロトの瞳を映す。


(炎――浄化の……)


 あの竜の。

 緋く、そして清浄な。

 一切の容赦、憐憫などなく、そして慈悲深い。


 あの炎があれば。


 ぐらりと視界が回った。

 踏みとどまろうとして、だが、唐突に視界を塗りつぶすように暗くなった。自分の意識が遠のいているのが判る。


(駄目だ……)


 海皇を、浄化しなくては。

 ここで、自分が。


 けれど身体が動かない。意識を保とうとしても容赦なく落ちて行く。


(私が、ここで、倒れたら)


 ボードヴィルの兵士達が。

 ファルシオンが。


 海皇が三叉鉾を引き、突く。

 切先がアスタロトの胸を貫く、その寸前、黄金の光がアスタロトの身体を包んだ。

 黄金の光に阻まれ切っ先が止まる。


 海皇は鈍く灰色の虹彩の交じった黄金の瞳を、上げた。

 上の階、この砦城の、三階へ。


 三叉鉾が揺れ、天井を突く。天井は柔い泡の膜を突いたように崩れて、三階までの縦穴を開けた。闇が海皇の身体を持ち上げる。


「行かせ……な――」


 アスタロトは懸命に身を起こそうとし、それを成し得ず、意識を失って床に倒れた。




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