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第3章「陰と陽」(14)

 小さな果樹園と素朴な家、小川と水車小屋で作り上げられた穏やかな世界は、野辺の花のように春の陽射しに身を委ねていた。

 住人である歳若い夫婦の姿は、ふいに消えたまま戻らず――それでもこのひっそりと閉じた世界が揺らぐ事はない。

 この家と果樹園の樹々だけが二人の行方を知っていたが、尋ねる(すべ)もなく。



 バーチ・コリントが街道沿いの青草の茂みで無惨な姿で見つかったのは、彼が家に帰らなかった翌日の事だった。四月二十四日、今より三日遡る。

 探しに出た領事館の同僚のエッジが発見し、亡骸を抱えて領事館へ駆け込んだ。

 発見された時コリントは馬も金品も、一切を持ち去られていた。襲われて咄嗟に逃げようとしたのか、胸に一か所、背中に三か所の刀傷があった。致命傷は背中から心臓に深く入った傷だ。

 領事はまず、街道付近に野盗が潜んでいないか、捜索を正規南方軍第四大隊へ依頼し、街の住人にはしばらく街道を一人で歩くのを控えるよう触れを出した。コリントが発見されたその日の内の、素早い対応だった。

 けれどコリントが街道で襲われたその前の状況を、領事は把握していなかった。

 コリントが王都のヴェルナー侯爵家から任務を受けた、例の果樹園のハインツ夫妻を訪ねた帰りだった事も、そこで見た事を彼が急いで領事に報告しようと考えていた事も、果樹園にイリヤ・ハインツとその妻ラナエの姿が無かった事も――

 平穏な、それほど栄えてもいない小さい街では、ここ最近野盗に襲われる事件などなく、突然の事態に呆然としていた事もある。

 またコリントの人柄故に街人の悲しみも大きく、家族の嘆きは深く、葬儀も同日に執り行われ、翌日は真新しい墓標の前で彼を偲んだ。

 何も知らないセイモア医師は、コリントに用事を頼まなければ良かったと自分を責めたが、医師も領事も、コリントの死とハインツ夫妻の事を結び付けて考えはしなかった。

 ようやく領事がこの件をヴェルナー侯爵家へ伝えなくては、と思い至ったのは、二十七日の朝の十一刻、当のヴェルナー侯爵家から使者が来た時だった。

 飛竜を駆ってやって来た使者はブロウズという男で、領事からコリントの死を聞くと表情を一変させ、まず王都へ一報を送った。

 そして発見した領事館員やセイモア医師を呼び、聞き取り調査を開始した。

 

 領事館はすぐに通常の業務に戻っていった。

 生真面目で仕事熱心なコリントの死はロカの街にとって損失だったが、彼の死がこの先、国内を揺るがす大きな争乱の幕開けだったとは、この時ロカの街の誰一人として想像もしていなかった。






 十一刻半。

 レオアリスは執務室の扉が開くのを待っていたが、壁際の置き時計の針がほぼ真下を指すのを見て、立ち上がった。

 ロットバルトがロカの領事館からの報告を持ってくる予定だったのだが、ファルシオンの昼餐の招きは正午だ。

「さすがに間に合わなかったか……仕方ない」

 使者には今日未明に飛竜でロカへ向かってもらっている。飛竜を駆っても五、六刻の距離があり、ロカへの到達自体つい先ほどといったところだろう。

 使者であるブロウズはヴェルナー侯爵家が抱える諜報団の一人で、ロットバルトは彼の能力はヴェルナー侯爵の信頼を得ていると、そういう言い方で保証した。それは父である侯爵へのロットバルトなりの信頼の証だと思ったものの、口にはしなかった。

 ともかく確認できれば停滞無く報告が挙がることは間違いないが、時間が問題だった。

「行ってくる」

 グランスレイが黙って頷く。その青黒くなった左頬が目に入り、レオアリスは何とも言い難い思いで苦笑を浮かべた。

 グランスレイの前を通って扉へ向かいながら一瞬、瞳が壁の近衛師団旗を捉える。

 そこにファルシオンと、イリヤの姿が浮かんだ。

 そして、王の――

 十日ほど前に上がった報告だけでも、ファルシオンに伝えられる事はある。特に前回の、二人が新たな命を授かったようだという報告内容は喜ばしいものだった。

(陛下へ、それをお伝えする事ができたら――)

 けれどレオアリスは、それが認められる可能性など僅かも無い事を、

 誰よりも知っていたが。

 イリヤの処遇――ヴェルナー侯爵家が、もっと正確に言えばロットバルトがあくまで個人の対応として、秘密裏に彼の周辺を整えた事を、王は『知らない事』になっている。

 公にされる事はこれまでもこの先も、一切無い。

 イリヤとラナエの間に産まれる子は、自らの出自を知らずに育つ。

 レオアリスやイリヤがそうだったように。

(――仕方ない。その選択が間違いだったとは思わない)

 それしか王が彼等を護る手段は無いのだから。

 士官棟脇の厩舎へ入り、管理官からハヤテを受け取ってその背に飛び乗る。長い首のひんやりした鱗を軽く叩き、手綱を引いた。

 銀翼の飛竜が上空へ駆け上がり、騎首を王城へ向けたところで、左手から一騎の黒鱗の飛竜が寄せた。

「ロットバルト」

 間に合ったのか、と言いかけ、その蒼い瞳が厳しい色を浮かべている事に気付いた。

 首筋にピリピリとした感覚が走る。

「どうした」

「ロカの領事館員が死んだと、急使がありました」

 レオアリスは瞳を見開き、思いもよらない報告をもたらしたロットバルトの顔を見返した。

「死んだ? ――どういう事だ」

「街道で野盗に襲われたのではないかと、街は考えています」

「野盗――この時期に?」

 呟いたのは意識してではなく自然に浮かんだ疑問だった。

 だが、ロットバルトもそう考えている事が瞳の色から判る。

 定期報告を早めたのは偶々だ。

 レオアリスがファルシオンから昼餐に招かれていなければ次の月末の報告を待ち、知るのはもう数日遅れていただろう。

 この時期に、偶然――

 イリヤを担当する領事館員が?

「――イリヤ達は」

「ブロウズが調査中です。夕刻には報告があるかと」

「判った。俺が戻る前に一報があったらお前の判断で進めておいてくれ」

「承知しました」

 ロットバルトは頷いてレオアリスが王城へ向かうのを見送ると、すぐに騎首を返した。

 レオアリスは一度振り返り、離れて行く黒鱗の飛竜とその向こうの南方の空へ、視線を投げた。

 風に乗って雲が南から北へ流れていく。

 青い天蓋に棚引く幾筋もの白いそれは、南方から王都へと迫ってくるようにも見えた。

 嫌な予感がした。





 こつり、と指先が木の机を叩き、小さな音を立てた。意識が一点に修練される。

 ブロウズは領事館の一室で、前に座るセイモア医師の顔を見つめた。

「私があの日に、コリント事務官に用事を頼まなければ――彼が街を出たのは偶々でした。街中の仕事が主でしたから。だからいつもの通り街にいたら、あんな事にはならなかったんですよ。最近は西方公の捜索の関係で正規軍が目を光らせていて、野盗も出なかった。それが、あの日に限って」

 気落ちした顔でそう言った医師にブロウズは頷いた。

「貴方のせいではありません。誰しも野盗を怖れて街の中だけで暮らすなど望まないでしょう。野盗であれば、コリントさんではなく他の住民が襲われていたかもしれない。巡り合わせが悪かったと、残念ながらそれだけです」

 ブロウズの心の内はそう考えていなかったが、だからと言ってコリントの死が 医師のせいだとは思っていなかった。

 巡り合わせだ。

 医師が言った通り――ラナエ・ハインツが検診に訪れなかった事、それが第一の要因だと思えた。

 まだハインツ夫妻の状況を確認した訳ではないが、ブロウズの勘がそう言っている。

「有難うございました。野盗は南方軍が見つけ出し、掃討するでしょう」

 医師は立ち上がろうとしてふいに面を強張らせ、それからブロウズの面を食い入るように見つめた。その瞳の上に強い不安がある。

「もしかしたら……」

「何でしょう」

「ハインツ夫妻が、野盗に襲われたなんて事は」

「それは……」

 ブロウズは一旦口を閉ざし、言葉を探した。

 一番恐れているのはそれだ。野盗というより、もっと別の要因がイリヤ・ハインツ達の身の上に降り掛かったのではないかと。

「そうでは無い事を願います。私はこの後、彼等を訪ねて確かめます」

 医師が僅かに不安の軽くなった顔をし、部屋を出ていった。

(まずは果樹園を確認し、ロットバルト様へ報告しなくては)

 ブロウズは荷物を取り上げ、続くようにして廊下へ出た。





「レオアリス」

 呼ばれてレオアリスは瞬きをし、ファルシオンを見つめた。ほんの束の間、ロカの果樹園へ意識が流れていた。

「これ、苦い」

 白い皿に載った緑の野菜を示す。

 眉を辛そうに寄せ、できれば食べてくれないかな、と訴えている瞳を見てレオアリスは思わず笑みを浮かべた。

「殿下なら召し上がれます。まあ、あと数年経たれた方が美味しく感じられるでしょうが」

 あと数年、という言葉に触発されファルシオンはぐっと気合いを入れた。

「今でも、美味しく食べられる!」

 えいっと口に収めた王子の様子に、卓の傍に控えていたハンプトンが笑みを零す。

「すごいな、殿下は。俺は殿下と同じ位にはやっぱり苦手でしたよ」

「――うん」

 苦い、と思っているのが明らかに判る表情でファルシオンは頷いた。控えている女官達も皆、微笑ましさに頬を綻ばせた。

 食事が全て済むといつもの温室に場所を替え、薫りの良いお茶が運ばれる。

 それから、ハンプトンも隣室にさがり、温室にはファルシオンとレオアリス、二人だけになった。

「ねぇレオアリス、ロカはどうなのだ」

 ずっと楽しみにして待ちわびていたのだろう、早速そう切り出し、長椅子の座面に手をつき身を乗り出す。

「ラナエは、おなかに子どもがいるの?」

「そのようです」

「すごい」

 黄金の大きな瞳がきらきらと興奮し輝く。

「兄上の子どもだ」

 できるだけ抑えて、そっと言った。

「すごいな――」

 ファルシオンの喜びを見つめ、レオアリスはやはり、王へこの事を知らせられたらと思った。

 一切表に覗かせないだろう、喜びをそれでも感じられたに違いない。

「いつ産まれるんだろう」

「順調に行けば秋頃という事です」

 自分で発した言葉にふっと不安が差し込む。

 順調に行けば。

 ロカの領事館員の急な死は、どう絡むのか。

 何もなければいい。まずはそれを確認したかった。

 ブロウズからの報告は返っただろうか。

 嫌な感覚が自分の中にわだかまっているのを打ち消すように、レオアリスは未来への期待に輝くファルシオンの瞳の光を見つめた。





 ブロウズは飛竜を急がせ、王都へと向かっていた。

 ロットバルトへは状況報告で伝令使を飛ばしたが、正確な報告が必要だ。

 果樹園は空だった。数日前にコリントが見た光景を、ブロウズも見てきた。

 争った形跡はない。ブロウズはその生業(なりわい)の特性上、口外できない手法に熟知し手を下した事もあるが、そうしたやり方で連れ去られたような痕跡すら無かった。あくまで自分の意志で出ていったように見える。

 忘れられたような、支度途中の干からびた野菜さえ無ければ、だ。

 イリヤ達がどのような立場にあるかはブロウズ自身知らなかったが、ただロットバルトからは、彼等が普段と変わらぬ生活を、あの果樹園でしている事が重要なのだと聞いていた。

「もう少し、急いでくれ。悪いな」

 未明からほとんど休み無く自分を乗せて飛ぶ緑鱗の飛竜の首を叩き、ブロウズは王都へと急いだ。




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