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第9章『輝く青3』(2)

 

 シメノスの速い流れに身体が押し流される。

 左右の岸壁のごつごつとした景色が小船に乗ったような速さで流れ過ぎていく。


 アスタロトは懸命に水面に顔を上げ、どうにか岸へ近付こうと流れに抗ったが、荒れた波が容赦なく顔に被り、その都度水中に沈んだ。十一月の水は冷たく、身体の動きを妨げる。

 再び河面に浮かぶ。辛うじて視界に捉えたボードヴィル砦城があっという間に遠ざかる。


「どうにか――」


 岸へ。

 とにかく泳ごうと身体を動かしたが、また沈んだ。


 アスタロトはそもそも、自分が泳ぎが得意なわけではなかったと思い出した。得意か得意ではないかと言うより、あまり泳いだ経験もないのだ。特にこんな流れのある川では――


(悠長に、振り返ってる場合じゃない――)


 ナジャルが、どう動くか――

 シメノスに落ちる直前、ナジャルはアスタロト達を見ていなかった。既にアスタロト達から興味を失い、次の対象を探していたのだと、そう思う。戻らなくてはいけない。それから。


ティル(あいつ)は)


 彼もアスタロトと一緒にシメノスに落ちたはずだ。助けなくては。


 岩か、川岸の草か、何でもいいから掴みたいと伸ばした手を、誰かが掴んだ。

 咄嗟に掴み返す。とにかく掴む。手。腕。

 誰でもいい。


(岸に――)


「やめろ! 浮き草掴む奴の典型か! 僕まで沈む!」


 刺々しい声と共に、身体がいきなり重くなった。

 沈んだのではなく、水から出た――勢い良く放り出されたのだと判ったのは、大小の石が転がる狭い岸辺に落っこちてからだ。


「痛ぁ! いったい!」


 お尻を思い切りごろごろする石にぶつけた。ものすごく痛い。

 隣に誰かが降り立つ。


「さっさと立て。戻るぞ」


 おそらくアスタロトを放り投げ溺れる寸前の状態から一応助けてくれた相手――ティルファングは腰に手を当て目を細め、お尻をさするアスタロトを文字通り見下ろしている。


「ティル。もうちょっと丁寧に放り投げてよね」

「丁寧に放り投げるの意味が分からない」


 ふん、と背を向け、ティルファングは岸壁に挟まれた上流を見上げた。


「足場が完全に壊れたな」


 アスタロト達を宙空に立たせていた法陣円が、三叉鉾の発動の影響でふいに消えたのだ。そのせいでシメノスに落ちた。


「早く戻らないと――レーヴ達は三叉鉾の影響内だ」


 小さな呟きを溢す。

 アスタロトも打ち付けた痛みを抑え、立ち上がった。


「そうだ、殿下――!」


 落ちる寸前に見た、黄金の光はもう消えている。あの光はファルシオンのものだった。ファルシオンが海皇の三叉鉾に対し、何か――それを遮断する何かをしたのだ。

 そして流れ出した力の代わりに、新しい温かい力が流れ込んだ。


「大丈夫なのか……」


 そんなことをして、まだ幼いファルシオンは。


 今、二人がいる場所はボードヴィル砦城から二百間(約600m)近く下流の、北岸下の岸辺だった。もう二十間も下るとシメノスは大きく右へ曲がり込んでいく。その先の流れは更に急になり、おそらくここで川から上がれなかったらもっと遠くまで流されてしまっただろう。


 その前に溺れていたかもしれない、とアスタロトは息を吐いた。


「取り敢えず、上流へ向かいながら飛竜を呼ぼう」


 周囲を見回し、表情を曇らせる。

 岸辺のあちこちに、西海兵の亡骸が倒れている。つい先ほどまでシメノスを遡上し戦っていた相手が、そこかしこに倒れ、明らかに命が失われている様は気持ちを重くした。


(私たちは、戦って勝った。正規軍にだって犠牲は出てる。西海の侵攻に黙っていたらこの国の多くの人が亡くなる)


 アスタロト自身も、炎によって西海兵の命を奪っている。

 それでも物言わぬ死者達は哀れだ。


(こんな戦いがなければ、今も生きていたのに)


 束の間じっと見つめていたアスタロトは、不意に身体が浮き上がったことに気付き、その理由にぎょっとした。


 ティルファングがアスタロトを両腕に抱え、ぐんと跳躍する。鼻先すれすれを岸壁が流れる。

 一瞬、落ちる感覚があった。


「ぎゃあ!」


 光る足場を上方へ次々設置し、ティルファングはそこを上がっていくのだが、踏み外したら二人ともまた河原へ真っ逆さまだ。


「危ない! 危ないから! 教えてくれれば自分で登る――」

「うるさいな、着いたぞ」


 すとんと身体が地面に降りた。

 ティルファングが最大限に鬱陶しそうに、可愛らしい顔を歪めてアスタロトを見下ろしている。既に二人はシメノス北岸の岸壁の上だ。


 ほっと息を吐きかけた時、意識外にあった痛みが全身を走り、アスタロトは堪らず蹲った。


「――い……っ!」


 薄らと目を開き身体を確認する。風で受けた傷が全身、あちこちに残り、血はもうシメノスの水が洗ったが、その分切り傷は生々しく目に映った。


 ティルファングは指を口に当て、空へと、高く指笛を鳴らした。それから容赦ない鬱陶しそうな瞳をまたアスタロトへ下ろす。


「大丈夫か? 傷は回復しないの?」

「け、剣士と、違う……」


 普通より少しは回復力はあるが、剣士のように傷を受けるそばから治ったりはしない。

 ティルファングは遠慮のない溜息を吐いた。


「ボードヴィルに一旦戻らないとな。邪魔になる」

「言い方……」

「歩けるか?」

「多分、へいき」


 辛うじて頷くと


「行くぞ」


 相変わらずつっけんどんにティルファングが急かし、先に立って上流へとさっさと歩き始めた。アスタロトはそっと息を吐き、痛む体をそろそろと起こして足を踏み出した。


 ティルファングがまた立ち止まって再び指笛を鳴らし、空を見回す。飛竜を呼んでいるのだろう。

 そこへ何とか追いついて、並ぶ。


「ありがとう、助けてくれて」

「別に、礼なんていらない。僕はレーヴが心配なんだ。一刻でも早くレーヴのところに行きたい。傷が辛いんなら置いてくから」

「わかってる」


 ティルファングはその言葉通り、焦れている。レーヴァレインが今どんな状況にいるか、それを気にし、時折意識を澄ましている。


(――レオアリス)


 アスタロトもレオアリスのことが心配だ。ファルシオンと。


 王と瓜二つの海皇の存在、それから、ナジャルがどう動くか。

 三つ目の影がどうなったか。


 嫌な予感が強かった。








「各大隊第九小隊は北岸、西方、東方の援護へ回れ。マイヨール、第七大隊第九小隊はボードヴィルへ向けろ。ただしタウゼン閣下の指示があるまでボードヴィルには降りず、高度を保って次の指示を待て」


 ランドリーの指示に、北方軍兵士達はきびきびとした動作で次の行動へと移っていく。


 正規軍各大隊の第九、十小隊は竜騎兵で構成され、この作戦へは第九小隊が参加している。

 今ランドリーが指揮する七百の竜騎兵の内、六百を北岸へ向け、百をボードヴィルへ向ける。

 それ以外の部隊は歩兵、騎兵で構成される為、迅速に北岸へ移すことは叶わない。


 ただボードヴィルから離れシメノス下流にあるこの場所では、三叉戟の影響を免れているのが幸いだった。


「ワッツ、お前の隊もマイヨールと共にボードヴィルへ対応しろ」


 ワッツはそれまで右手に握ったままだった剣を鞘へ戻し、ランドリーへと敬礼して踵を返した。自らの部隊へ足を向けかけたワッツを、軋んだ声が追いかけた。


「無駄ダ。三叉鉾に喰らワれ、ナジャルに喰ラわれルのガ落ちダ」


 ヴォダは僅か二十名ばかりの部下達とともに、やや離れた場所に立っている。ただ正規軍の動きを眺めているだけで、これ以上剣を交えようとする様子も、そこから移動する様子もない。

 ワッツは片方の眉を上げ、ヴォダへ向き直ると、彼等の前へと歩いた。


「お前さん、いつまでただ諦めてるんだ?」


『何だと』


「あんたはあのしょうもねぇ総大将を回収しようと動くくらいだし、兵達がナジャルに喰われることを憐れに思って剣を振るってた。ランドリー閣下の剣を、それも俺と二人がかりのを抑えてた。それが海皇の槍だの鉾だのが出たってくらいで、しかもここからは見えてもいねぇってのに、すぐに諦めるのが理解できねぇ」


『貴様らには――』


 ヴォダは一度区切り、言葉を変えた。


「貴様ラにハ、我々の……これまデの生キ方ナド解るまイ。弱イものハ、強イものノ糧とナる。ソれが西海ダ」

「やっぱ会話できるのはありがてぇな。俺はこの戦場から生きて帰ったら、西海の言葉を少し学ぶ気になったぜ」


 ヴォダの前に立ち、口元をへの字に曲げる。


「生き方を変えりゃいい話だと思うがな。喰われるのをただ待つ必要はないだろう」

「変わラん。ナジャルは倒セなイ」


 あちこち血の渇いた太い腕を組み、ワッツは剃り上げた頭を左右へ傾けごきりと首を鳴らした。


「それこそ結果の判らねぇ話だ。なんせ今まで、こんな戦いは無かったんだしな。大戦にだってナジャルは出てねぇ。こいつはナジャルを倒す機会だ。戦っている以上、どっちかが勝つ。当然、俺達アレウスは俺達が勝つつもりでいる。その為に色々仕込んできた」


 それと、と、巌のような顔の中の、緑の瞳をヴォダへ据える。


「俺はレイラジェ殿と二度ほど会った。先は見えなくとも、変えて行こうとされていた。だから話に乗った」


『――レイラジェだと。あの阿呆は今更だ。大戦前に動けず、今になって誰の為に動くというのか』


「まあ別にいいんだが――けどもったいねぇって思うぜ」


 ワッツは腕を解くともう一度ヴォダを眺め、すぐにその足を、自分を待っている部下達、乗騎へと向けた。




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