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第8章『輝く青2』(35)


 

 全ての音が周囲から消える。


 ただ一人向かい合い、そして影は正面に、ほんの三間ほど離れたところに立っていた。

 纏っていた闇がゆっくりと剥がれ落ちていく。その姿が現われる。


 レオアリスは緩く首を振り、一歩、足を引いた。




 見たくない。

 見てはいけない。

 視線を逸らし、通り過ぎろ。

 ボードヴィルへ――

 ファルシオンがそこにいる。ファルシオンを、護らなくては。それがレオアリスのやるべきことだ――この剣が。




 頭の中で、警告の声が激しく渦を巻く。

 その全てを理解している。



 紛い物だ。違う。

 これはナジャルが創り上げただけのもの。

 レーヴァレインがそう言ったように、ただの影――残滓。ナジャルの悪意の塊。

 その人では、決して無い。



 解っているのに、それでも瞳は逸らせず、閉ざすこともできなかった。

 纏っていた闇は既になく、その姿は今、レオアリスの前にはっきりと在った。

 乾いた大地に陽光が落とす、影の輪郭の明らかさ。


 深い智慧と威厳と、静謐を湛えた黄金の双眸。

 半年前、あの朝、レオアリス達の前に立っていた、王の姿――


 幼い頃から何度となくその光を想い描き、そして王都で初めて目にした姿、レオアリスの前に在り続けた姿。

 眼差しも、身に付けていたものも寸分違わず、それは彼の王の姿だった。何も、何一つ変わっていない。


 銀の髪と、暗紅色を重ねた長衣の裾を風が揺らす。

 王は身を揺らし、レオアリスへ、その黄金の双眸を当てた。


「レオアリス」


 低く紡がれたその、声――

 深い響き。


 口元に浮かぶのは時折目にすることのできた、微かな笑みだ。威厳に満ちて温かく、深い。



 見開いた瞳から涙が零れ、頬を伝って落ちた。



「陛――」


 言葉を発しようとして、掴み損ない、息すら吐き出せなかった。喉は微かにその周辺の空気を震わせただけだ。

 湧き上がる無数の想い、感情は何一つ言葉にならず、ただ喉の奥を塊が塞いでいる。



 違う。

 違う、はずだ。絶対に。

 解っている――


 それでも。



 それでももう一度、その姿を目にしたかった。

 その存在の前に立ち、声を聞きたかった。

 名を呼ばれたかった。


 熱の塊が喉の奥を競り上がり、零れた。


「――陛下……」


 押し出した声と共に、押え込んでいた感情がどっと溢れ出す。


「陛下」


 王が帰らなかったなど、信じていなかった。


 そうだ。

 信じていなかった。絶対に違う。

 イスに行けばわかる。きっとまだ王は、イスにいて、王自身の何らかの考えがあって、だからそこに留まっているのだ。

 兵達を救う為に残った。まだ戻らないのは王自身の意思のもとのことだ。


 いずれ戻る。ファルシオンも、エアリディアルも、王妃もいる、王都へ。

 戻らないはずはない。

 そんなはずがない。

 だって自分はそこにいなかった。この剣を持ちながら、イスに――王の傍にいなかった。

 だからそんなはずはない。


 ()()()()()王の傍に自分が、いられなかったはずがない。


 そんなのは嘘だ。

 絶対に。


「そうだ――」


 頬を涙が止めどなく伝う。それをレオアリスは意識していなかった。

 口元に微かに、あるかないかの笑みが浮かぶ。


「やっぱり、嘘だったじゃないか――」


 こうして今、王は目の前にいる。

 戻らないなど嘘だった。

 嘘だった――ずっとそう思っていたように。



 それなのに何故、胸を掴むような苦しさがなくならないのだろう。



 レオアリスは力無く下ろしていた両手を、緩く握りしめた。


 手の中から、剣は消えていた。





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