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第8章『輝く青2』(33)

 

 空に風が渦巻いている。


 アスタロトは足元――空高くに浮かんだ法陣円に両足を開いて立ち、荒い呼吸を繰り返した。

 炎の矢の狙いが、荒い呼吸に上下に揺れる。


 何度も、何度も、何度も。


(もう――)


 何度も。


 風が裂いた傷口が絶え間無く痛み、血が伝い、足元の白い法陣円に滴る。

 身体は冷たく、だが喉の奥を塞ぐ塊だけ熱を持っている。


 何度も。


(もう、私――)


 これ以上は、限界だ。

 何度も、炎の矢を放ち、あの身体を焼いた。


 風が唸り、幾筋もの風の鞭が走る。空気を引き裂き、アスタロトを左右から巻くように打ちかかる。


「!」


 避けようとした身体が傾ぐ。アスタロトを引き裂く直前で、白光が風の鞭を断った。


「ぼけっとすんなっての! まだ終わってない――終わらせてないぞ」


 ティルファングを見上げ、アスタロトは息を吐き、瞳を斜め下へ向けた。唇を噛む。


 もう既に、ボロボロだ。炎の矢が身体を貫き、焼き、それでもまだ立っている。

 立っているというよりも――ただそこにある。


 右腕と左脚は失われ、腹部も半分焼失している。それでも動き、風を操る。

 ナジャルからの尽きない力の供給。無惨なほどの。


 操る風は威力こそ上がったが、ハイドランジアの湖で戦った時のような畏怖は微塵も感じなかった。

 もう違うのだと、これほどまでにまざまざと見せつけられるのが耐え難かった。

 悔しさと不甲斐なさに、溢れた涙が頬を伝う。


(早く、終わらせてあげたいのに)


 何度も、何度も、もうこれ以上傷つけたくない。

 アスタロト自身も幾度か風を受け、無数に傷を負っている。何度も炎を繰り出し、壊れていく姿を目にし、疲労は肉体的にも精神的にも積み重なり続けている。


「――これ以上戦えないなら、言え」


 アスタロトは息を吸い、吐いた。


「大丈夫」


 もう本当は嫌だ。


 叫び出したい。代わってもらいたい。目を閉じたい。


(それでも)


 自分の手で彼女を解放してあげなければ。

 自分の力が及んでいないから、足りないから、終わらせてあげられない。


 アスタロトは首を振り、小さく呟いた。

 違う。


(私の覚悟が、足りないんだ)


 彼女を手にかける覚悟。その痛みを負う覚悟。もう既に一度、そう心に決めたはずなのに。

 あのハイドランジアの湖の輝きの中で――

 碧い湖面の輝き。その眩しさの中で、あの時の彼女は遠く微笑んでいる。


 その微笑みはアスタロトの想い出の中の微笑みだったが、気持ちがすとんと、落ち着いた。

 大きく息を吸い――、吐く。


「ごめん」


 アスタロトは炎の矢を番え、弓を最大限に引き絞った。凝縮された熱が周囲の大気を焼く。

 矢も弓も、全て炎が青く染まる。


「――ファー。これで、最後にするよ」


 放った矢はルシファーには向かわず、彼女の横を抜けシメノスの河面に立つナジャルへ、突き立った。

 水蒸気が柱となって上がる。


 それを見ず、アスタロトは法陣円を蹴った。斜め下のルシファーへ。吹き上がる灰色の風が皮膚を叩き、切り裂く。血が風に舞い、視界が赤く染まった。

 腕を伸ばす。


 夜明け色の瞳を失った、その顔を覗き込み、身体を抱き締める。

 腕の中に収めた身体はもう、まるで存在感がなかった。空気を掻き(いだ)くようだ。

 それでも力を込める。

 灰色の風が周囲を渦巻き、唸り、皮膚を裂く。


「苦しめてごめんね」


 全身に炎を纏う。

 炎は灰色の風を巻き込み、呑み込んだ。

 微かな抵抗が伝わるが、それもアスタロトの腕を押しのけるほどもない。


「私はずっと忘れない。貴方の風がどれほど綺麗だったか」


 アスタロトとルシファー、二人の周囲を炎が包み球体となって浮かぶ。自らの肌を焼くほどの高温の炎を、アスタロトは更に重ねて纏った。

 腕の中で身体が崩れていく。


 もう彼女ではないもの――それでもかつては、彼女だったものだ。


「覚えているから――」


 全てが燃え尽きる時、ほんの少しだけ、涼やかな風の香りがした。






 腕を広げ、ただ透明な風だけがあるのを見て、深い息を吐く。

 瞳を落としたままの耳朶に、嘲笑を含んだ冷徹な声が触れた。


『残念なことだ。せっかく再会したというのに』


 シメノスの上、ナジャルが嗤っている。先ほど放った炎の影響はその上に微塵もない。

 アスタロトはもう一度、ゆっくりと息を吐き、ナジャルを睨み据えた。


 まだ、これからだ。

 この存在を倒さなければ何も変わらず、終わらない。


「あれは、彼女じゃない」


『本来、命を失えば二度と会うことなど無いのだ。どんな形であれ、大切な存在がそこにいるだけでいいと、そなた等は思うものではないのかね?』


「うるさい」


 会いたかった。


 そうだ。会いたかった。

 ずっとそこにいて欲しかった。

 もっともっと、話をしたかった。


 何で離反してしまったのか、何に苦しんでいたのか、何を求めて、見つめていたのか。

 でも話さなかった。

 あの時――


 ハイドランジアの湖の上で彼女と戦ったとき、本当はもっともっと話をしたかったけれど、そうしてしまったら決心が鈍るから、しなかった。


「お前は、許せない」


 ナジャルの前に揺れる、最後の影。

 それが何か、もう解っている。良く解る。

 ナジャル。


 人の尊厳を、希望を踏み躙って、絶望を嗤う。


「つんつん剣士。あいつを倒そう」

「ティルファングだ」

「ティル」

「え? いきなり踏み込みすぎじゃない?」


 ティルファングは声を尖らせつつ、アスタロトの傍に足場を置き、立った。


「でも、良くやった。次もさっさと倒そう。まずはあの最後の影。海皇もどきも、レーヴ達がそろそろ終わらせるから」

「三叉鉾は」


 南岸に出現したのは気付いていた。

 イスで、自らの兵の命を奪い、力を増したあの鉾――

 あの悍ましい気配が今は感じられない。


「ついさっき砕いた。レオアリスが」


 アスタロトは深く息を吐いた。


「そう」


 ならば安心だ、と


『海皇の妄執を、砕いた――本当かね?』


 ナジャルが嗤っている。

 ティルファングは河面に立つナジャルを見下ろした。


「そうだ。実際、鉾はもう――」


 言いかけたティルファングは、不意に身体を揺らし、右足を踏み出してそれを押し留めた。


「どうし――」


 アスタロトが手を伸ばしかけ、すとんと、その場に腰を落とす。

 自分の意思ではない。


(なに――)


 身体から急激に力が抜けたのだ。アスタロトは法陣円の上に座り込んだまま、強い眩暈を必死に堪えた。


「気を張れ。遮断できるか?」

 ティルファングは膝をやや落とし、身を低く構えている。攻撃の為というよりは、倒れないよう身体を支える為だ。


「遮断……?」


 何とか持ち上げた視線が吸い寄せられる。

 シメノス南岸、目にしたものに唇を噛む。


 海皇の姿。そして、


「三叉鉾――」


 砕けたはずのそれが戻っていた。

 悍ましく黒い光を纏い、渦巻いている。

 命を、吸っている。


 より強い眩暈が襲い、ぐらりと景色が回った。二人を乗せた法陣円が弱く瞬く。

 まずいと、そう思った瞬間には法陣円が消え、足場が消失した。

 二人の身体が足場を失いシメノスへと落下する。


 視界が回転する。空が目に入った時、黄金の光が空いっぱいに広がり、降り注ぐのが見えた。







 室内に満ちた黄金の光――粒子。

 それが温かく肌に触れる。


 全身から失われていた力が再び流れ込み、戻るのを感じ、クライフは座り込み凭れていた壁からようやく身を起こした。頭を振って残る眩暈を払う。

 何があったのか明瞭ではないが、ふいに全身から力が抜け、そしてファルシオンの黄金の光に包まれて、失った力がまた戻った。今判るのはそれだけだ。


「殿下――」


 視線を彷徨わせ、部屋の真ん中に立つファルシオンを見つける。その小さな身体は眩いほどの光を纏っていたが、クライフが膝を起こす間にも、輝きは急速に失われた。


 ぐらりと身体が揺れる。


「殿下!」


 床に倒れる直前で、セルファンがファルシオンを抱き止めた。


「王太子殿下! 寝台へ……治癒師をここへ」


 セルファンは部下へ指示しながらもファルシオンを抱え、自分自身も僅かに覚束おぼつかない足取りで、寝台のある奥の部屋へ向かった。クライフが先に扉を開く。

 覗き込んだファルシオンの顔は血の気が引き、真っ青だ。呼吸はゆっくり、深い。


「セルファン大将、殿下は」

「眠っておられるような状態だが――」


 寝台に横たえセルファンは厳しい顔でファルシオンを見つめた。


「王太子殿下が何をなさったのか、私では見当が付かない。だが、『命を奪うのは許さない』と仰った。あの眩暈と感覚――我々の為に、その力を使われたのだと思う」


 セルファンは一度言葉を切り、吐く息と共に続けた。


「西海の皇都イスに、陛下の護衛で赴いた時――海皇は兵達の命を吸った。少なくともナジャルも同じように、命を吸って力を増すのだろう」


 クライフは窓の外に目を向けた。

 城壁の上で兵達が行き来している姿が見えるが、彼等の動きもやや重い。


「すぐ報告があると思いますが、けどこれ以上、ファルシオン殿下が力、って言うんでしょうか」


 あの黄金の光は。


「とにかく無理をされるのは良くないと感じます」


 ファルシオンが、このボードヴィルの兵達を守る為に力を用いた。


(命か……?)


 全身の力が抜けるあの感覚は、セルファンが言うように自分の中から生命が抜けていくと言うのが相応しい感覚だった。

 クライフ達の生命が奪われるのを、ファルシオンが止めた。


(止まった。それは確かだが、その後は戻ったってよりも補充されたって感じだ)


 ファルシオン自身の力も自分達に流れ込んだのではないかと、クライフにはそう思えた。

 力を使っただけではなく分け与え、補ったことであれだけ疲労しているのではないか。


 今のファルシオンの状態がなくとも、もう一度同じ事をしてしまうのは、避けなくてはならない。また同じようなことがあった時、きっと自らの危険を顧みずファルシオンは動いてしまう。


(上将)


 万が一の為に――もう状況は万が一ではなくなっているように思うが、レオアリスにこの場に戻ってもらうべきではないかと考え、


(上将はナジャルと戦ってるんだ)


 ファルシオンの守護を自分達に任されたのではないかと、クライフは首を振った。



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