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第8章『輝く青2』(32)

 

 三叉鉾が身を震わせ、砕ける。

 同時に海皇の身体も内側から弾けるように砕けた。




 風が吹き上がり、レオアリスの身体を四、五間も後方へ押し流す。

 視線を逸らさず見据えた先で、三叉鉾の刃が溶け、続いて残った柄も大気に溶けた。


 束の間、静寂が辺りに満ちる。


 レオアリスは地面に降り立って踵を返し、レーヴァレインへ駆け寄った。

 法術の足場は全て消え、レーヴァレインは枯れ果て乾いた土を剥き出しにした地面に膝をついている。呼吸の為にその肩は大きく揺れていた。


「怪我は!」


 顔を上げたレーヴァレインを見てレオアリスは詰めていた息を吐いた。血の気はやや失せているが、瞳の光ははっきりしている。


「大丈夫――少し遅いけど、回復してない訳じゃないから。けど最初にあの闇に剣を掴まれたのは迂闊だったね、反省してる」


 視線をまだ海皇の溶けた位置に据え、レーヴァレインはゆっくりと呼吸を繰り返している。その呼吸の間隔も少しずつ、平常に戻っていく。


「君はどう? 状態は」

「俺は、おそらく問題ありません」


 先ほど剣を振り切る直前に感じた、身体の奥の熱――黄金の光を帯びたようなそれ――それが侵食した海皇の闇を払拭したのだと解る。

 それはボードヴィルの城壁で、ファルシオンを抱き止めた時、身を突き抜けて放たれた黄金の光だ。

 その名残り。


 レオアリスは身体の内部でまだ暖かく残るそれへ意識を向け、それから息を吐き、レーヴァレインの傍らに膝を落とした。

 回復していない訳ではないとそう言うが、やはり既に傷が塞がっているレオアリスとは対照的に、レーヴァレインはまだあちこちに血を滲ませている。


 レオアリスは辺りを見回した。冬枯れの始めとはいえ一面を覆っていた草はほぼ見当たらず、剥き出しの土と、シメノスの谷底へと崩れかけた南岸が風に吹かれている。

 全て終えたような感覚を、首を振って払った。


「貴方のお陰で何とかなりました。一旦、ボードヴィルへ」


 アスタロト達の戦いもまだ続いている。何より、ナジャルがまだ、シメノスから動いていないはずだ。


「治癒を」


 頷いてレーヴァレインは立ち上がった。その足元がよろめく。

 肩を貸したレオアリスへ、レーヴァレインは首を巡らせた。


「君の剣はやっぱりジンに似てるね。ジンも大気系の属性だったな。本当に強かった。何しろ同属性の風竜を斬ったくらいだ――」


 そうだ、と、顕したままのレオアリスの剣へ視線を落とす。


「レオアリス、君の剣、属性があるだろう」

「属性? ですか」

「うん。ルフトは大気系だし。君は確か、前は法術を扱ってたんだろう? 何が得意だった?」


 飛竜を呼ぼうと空を見上げながら、得意だったものと好きだった――使いたかった術とは違うだろうかと、そう考える。

 得意だった術も、実はあまり無い。


(いや、風かな)


「風切りと、雷撃です」


 そう言って、気恥ずかしさを覚える。何度もまだ早いと言われながら、でも覚えたいと我儘を言った術式だ。


 ふと、この地からずっと北、黒森ヴィジャの縁にある育った村と祖父達を懐かしく思い出した。

 ずっと帰っていない。

 この戦いが終わったら一度帰ろうと、そう思う。この半年幽閉という扱いだったのだ、祖父達は心配しただろう。

 レオアリスの伝令使のカイの気配が少し騒いだ。


「やっぱり大気系だろうね。ならどちらか――、自分の剣にその力を重ねてみて」

「重ねる?」

「想像だよ。そうなるように。属性を理解していた方が、剣の力を引き出しやすいんだ」

「――バインドのように、ですか。剣に炎を纏っていた」

「バインド? そうか、カミオのね。カミオには結構炎の属性が多い。うちもだけど。炎そのものを纏うって感じじゃないけど」


 長は特に、とそう言って、レーヴァレインはレオアリスへ視線を戻した。

 自らの剣を睨むように見据えているレオアリスへ、くすりと笑う。


「そうすぐにできるものじゃない。この戦いの中で少し理解できるようになればいい方だよ。でも意識し続けることが大事だから」


 レーヴァレインはそう言うと、空を降りて来る飛竜へ顔を上げた。


「とにかくこれで大分、ナジャルの力を削れたはず――」


 レーヴァレインの言葉が途切れる。

 二人の視線は同時に、一点に向いた。


 砕けたはずの、三叉戟があった場所へ。



 そこへ、赤黒い塊が集まり、捻れていく。


 漂っていた闇が人の形を取り戻す。

 レーヴァレインはレオアリスの肩から離れ、再び右腕に剣を顕した。


「――まだ、砕き切れてなかったみたいだね。しつこいな――」


 再び、風が緩く、形を成していく三叉戟と海皇へと集まり始めた。

 悍ましく肌を撫でる。

 先ほどよりも更に強い、冷えた感覚が足元から這い上がる。


 まるで意識する間も無く、レオアリスは膝の力を失い、身体を落とした。気付いた時には膝を落とし、地面に手をついていた、そんな感覚だ。


「――三叉戟が――まだ」


 まだ――

 いや、先ほどよりもなお、命を吸っている。

 急速に――


 貪欲に。


 全身の力が抜けかけ、眩暈が視界を揺さぶる。


「まず、い……」


 右手の剣が纏う光もまた、風に吹かれた蝋燭のように明滅した。


「意識を――外と自分とを切り離して」


 レーヴァレインの声に一度、強く目を瞑る。目の奥、頭の中心に力を置き、レオアリスは深く息を吐いた。

 力の流出が止まる。


 だがレオアリスだけ――、レオアリスとレーヴァレインだけが抗し得ているに過ぎないと判る。


 視線を上げた先で三叉戟が赤黒く、輝きを放っていた。








 ボードヴィル城壁上にいた兵士達が次々を膝を落とし、或いは石の床に倒れる。

 タウゼンも視界が回るような眩暈を堪え、兵達へ声を上げかけ、果たせずに城壁に背中を預けた。


「これは――」


 上空を雲が南へ、南岸へと集まっていく。





「――何……」


 身体全体を取り巻いた強い眩暈に、クライフは一瞬、膝を落とした。傍らの低い茶器棚に掴まり、棚の中身ががしゃりと音を立てる。


「何だ、この、眩暈――」


 全身の力が急速に抜けて行く。身体に力が入らず、どうにか背中を壁に預け、視線がファルシオンを探した。


「殿下」


 ファルシオンを、転位させるべきだ。


「転位陣、に」


 だが広い室内で、クライフだけではなくセルファンも、他の隊士達も皆眩暈を堪えるように額を抑え、或いは膝を落とし蹲っている。

 空気が重く部屋全体にのしかかり、身体が冷えて行く感覚と強い吐き気に指を動かすのも苦しい。


「殿下――」


 ファルシオンは一人、黄金の光を身体に纏わせ、立っていた。

 その瞳は煌々と輝き、窓の向こうの空へ向けられている。


「命を――」


 小さな身体が一歩、重い空気の中を進む。


「ひとの命を、奪うのはゆるさない」

「殿、下……いけない」


 セルファンが声を絞り出す。


「貴方は、王都へ――」

「だめだ」


 ファルシオンはもう一歩、踏み出し――その身体全体から、黄金の光が膨れ上がり、球体となってファルシオンを包んだ。


 一呼吸後、球体は部屋全体に広がった。

 セルファンを、倒れた隊士達を、クライフを包み、更に広がる。

 ボードヴィル砦城を――城壁の上で蹲る正規軍兵士や法術士達を包む。


 ボードヴィルの街全体を包み、そして弾けた。

 黄金の光が粒子となって四方へ広がる。

 サランセラムの丘へ、ボードヴィル上空へ、シメノス南岸へ。


 そこにある命を吸い寄せようとしていた闇を、黄金の光が払った。







 レオアリスは空からゆっくりと降り注ぐ黄金の粒子に顔を上げた。

 暖かく包み、身体に急速に、失われた力が戻ってくるのがわかる。


「――殿下……」

 これほどの力、そして触れたものを包みこむ温かさが幼いファルシオンの中にあるのだと、そのことに呼吸を奪われる。


 ただ幼く、守られるだけではない存在だと。

 そして、必ず、守り抜かなければならない存在だと――

 右手の剣が熱を持つ。


 剣に瞳を落としかけ、レオアリスはその瞳を、引き寄せられるように左前方へと向けた。


 三叉戟。

 海皇の姿。

 その昏い双眸が向けられた先に息を呑む。


「ボードヴィル……」


 そこにいる、ファルシオンへ。


 海皇はその顔をボードヴィルへ向け、そして一歩。


 踏み出した。





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