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第8章『輝く青2』(4)


「ワッツ!」


 西方軍第五大隊大将ゲイツが片手を上げ、本陣の幕舎へと歩いてくるワッツを呼んだ。

 二人は幕舎の前に立ち止まり、互いに軽く一度、右腕を胸に当てた。


 グレンデル平原の『壁』上に、木材と天幕で仮拵(かりごしら)えされた、タウゼンの総司令部だ。

 ゲイツがいくつもの傷を刻んだ面を綻ばせる。それは七月の、第一次サランセラム戦役で負った重傷の名残だった。傷を法術で消すことも不可能ではないが、ゲイツはあの七月を忘れないよう、敢えて消さずに残した。


「左軍は整ったか」

「はい。昨日には全て整い終えました。午後からは左翼全体の連携を確認して、あとは兵達を休ませてやります」


 第五(うち)もだ、とゲイツは頷いた。

 ゲイツの第五大隊は右翼に配備されている。


「にしても敬語はよせよ、もう同じ立場だろう」


 ワッツは分厚い掌で剃り上げた首の後ろを撫でた。


「いやぁ、まあ自分でもまだ慣れてませんで。ウィンスター殿の後釜ってのが、また」

「そんなことあるものか、相応しいさ。お前がいると何となくだが、物事なんとかなりそうな気がするからな。それに俺達は七月の戦いを生き残った同士だしな、二人いればより縁起もいいってもんだ」


 ワッツの肩を叩き、ゲイツはその面を西へ向けた。

 双眸を思い起こすように細める。


「ウィンスターへの挨拶に行ったか」

「昨日」

「そうか」


 風が足元の下草を鳴らし、崖下から吹き上がる。張られている幾つもの幕舎の布や立てられた軍旗が煽られ音を立てる。


「ここでの戦いは、これで三度目だ。一度目は大敗を喫し、二度目は勝利し退けた。三度目――今度で、全て終わりにする」


 ワッツはゲイツの横顔を見た。


 ゲイツが思い起こしているのは、ヴァン・グレッグと同僚だった第六大隊大将グイード、第四大隊大将ホフマン、そして部下や同じ正規軍の兵士達のことだろう。

 三大隊、九千名の兵士の、ほとんどが命を落とした。

 ナジャルに喰われ――


 ゲイツの両手が拳を作る。


「これは、俺達にとっては弔い合戦でもある。西海軍を、二度と侵略などする気が起こらんよう国境の向こうへ叩き返し、そしてナジャルを」


 拳の中で爪が掌に食い込む。


「消し去る」


 低く噛み砕く声を押し出し、それから、ゲイツはふっと力を抜いた。


「まあそこは、将軍閣下や王の剣士に頼るんだがな」

「しかたありません。俺達の武器なんざ何の役にも立たないですからね」


 ワッツはボードヴィル前に現われたナジャルの姿を、脳裏に思い浮かべた。

 ありありと思い出せる。


 巨大な蛇体。

 戦場で兵士達を次々と喰らい、呑み込んだ。


『ワッツ中将――』


 若い兵士が助けを求めて伸ばしかけた手。

 目と鼻の先を(よぎ)る長い銀の胴へと、渾身の力で振り下ろした剣は、硝子細工のように砕けた。


「大丈夫だ」


 視線を引き上げ向けた先で、ゲイツはまだ西へ面を向けている。


「他人任せで上等だ。俺達は将軍閣下や、レオアリス殿、そしてアルジマール院長が、ナジャルと邪魔が入らず戦える状況を作るのが役割だ。アレを倒せば、全て終わるんだからな」


 ほんの少しばかりの自らへの不甲斐なさ、それに勝る勝利への意志のこもった響きだ。


「炎帝公、剣士、法術院長――そして、王太子殿下が戦場におられる。兵士達の意気は今まで以上に高い。必ず勝てる」


 喇叭の音が一声、二人の立つ幕舎のすぐ近くで鳴る。軍議開始四半刻前の合図だ。

 顔を戻し、ゲイツはワッツへと右手を差し出した。


「勝つぞ」

「――そうしましょう」


 ワッツはその手を握り返した。

 互いに力を込め、そして離しかけたその手の上に、三つ目の手が載せられる。


「俺もだ、勝つ」


 載せたのは北方軍第五大隊大将カッツェだ。ひょいと外し、笑って過ぎる。


「何だ、西方の。二人で気勢を上げてるんじゃ寂しいだろう。混ざってやる」


 同じく北方第四大隊大将エンリケ、続いて第六大隊大将ブラン、第七大隊大将マイヨール、北方軍の大将等が幕舎へ向かいがてら、二人の横を通り過ぎ次々と右手を一度置いていく。

 ゲイツは顔をしかめた。


「ついでのようにやっていくな。大体いつまでもこの大男と手を握ったままなのも勘弁だ」

「まだ南方と東方がいるぞ」


 エンリケが後ろを顎で示す。

 ちょうど三々五々、この後の軍議への参加のために集まってくるところだ。


「もう終わり――」

「まあ待て、西方と北方だけで完結するのはつれないというものだ」


 張りのある声がかかる。

 ゲイツは視線を向け口をひん曲げた。


「うげ、シスファン――」


 東方第七大隊大将シスファンは黒い切れ長の瞳を細めて笑い、不本意にもずっと握手したままの状態になっているゲイツとワッツの手の上に、自分の右手を軽く載せた。唇が艶やかな笑みを形作る。


「女の手だ。有難く思え」

「思えん」

「東方の辺境にこもったままで、この国難に大した貢献もできず、失礼した」

「東方第七軍は魔獣の対応があっただろう。任せきりにしたのは俺達も同じだ」

「それだけではな。ともあれ、今回は幾ばくかの貢献ができる」


 シスファンは笑い、二人の横を抜け幕舎へと歩いていく。


「東方第七――本当に全軍だな、これは」


 王都守護と最低限の治安維持部隊を残した、五万八千。総力戦だ。

 それだけ今回の戦いが、国運を賭けたものであることを物語っている。


 結局その後、残りの大将等全員が通り過ぎるまで握手の状態が続き、ゲイツはようやく手を離し、息を吐いた。


「やれやれ。取り敢えず、握手は今後もうやめとこう」


 ワッツも苦笑し、頷いた。


「同感です」





 軍議で総指揮タウゼンが示したのは、グレンデル平原での戦術に加え、もう一つ、これまでは無かった新たな戦術だった。


 幕舎内には一度驚きの波が広がり、それも束の間で、新しい緊張に引き締まった。

 ワッツは居並ぶ大将達の列の一角で、彼等それぞれの面を見渡し、それから正面のタウゼンヘ戻した。


(第二手か。この戦術は戦場外での根回しが重要だ。それは問題ねえだろうが)


 王都で、その為に動いているだろう相手の顔を思い浮かべる。


(一番はやっぱナジャルだな)


 最も重要なのはやはり、確実に西海軍とナジャルとを分断することだ。

 そして、ナジャルを倒すこと。


 それが叶わなければ、この戦いに勝利は無い。


 アスタロトと、アルジマールと、そして。


(頼んだぜ、レオアリス)






 ティルファングはボードヴィル砦城の大屋根を見下ろす塔の、崩れた壁に腰掛け、宙に投げ出した足をぶらぶらと揺らした。

 かつてナジャルが現われ崩した塔はまだ修復されず、塔頂部の部屋が剥き出しのままになっている。


 周囲はすっかり空が覆い、ボードヴィル前面の丘陵、後背部のシメノス大河、岩壁を渡った向こうの森、そして地平が見える。


「僕達もこんなところまで来て――何だかずいぶん流されてる気がするな。ちょっと気に入らない」

「そう? 俺はいいかな」

「いいかなって」


 ティルファングは少女のような愛らしい顔で隣に立っているレーヴァレインを睨んだ。


「僕らはまだ手を貸すとは決めてないし、それに相手はナジャルだぞ。あいつら転位の為に本体を抑えるとか言ってるけど、レーヴはそんなこと可能だと思うの?」


 レーヴァレインは首を傾けた。


「そうだね」

「どっち?」


 頬を膨らませ、それからティルファングは両手を身体の脇につき、逆上がりをするように身体を持ち上げるとレーヴァレインの隣に降り立った。手を(はた)く。


「ナジャルは赤竜に近い存在だろ。普通に戦って勝てる訳がない。もし風竜の時みたいに赤竜が出てくることを期待しているなら、間違いだ。あんなことはもう無い」

「彼等は分かってるよ」

「だったらほんと、無謀だよ」


 ティルファングは肩を竦めた。


「でも戦わない選択肢はないだろう。ナジャルは海に飽きて、次は地上を喰らいたいと思ってるんだろうから。結局そうなると、俺達だって全く無関係じゃない訳だ」


 穏やかな口調のレーヴァレインをティルファングはむっと睨み、顎を外らせた。


「でもさ」

「ティルは、無謀な戦いは好きだろう」


 ますますむうっと眉をしかめる。


「俺もだよ。俺達はそういう性質だ」

「だから、長は参戦しなかったんだろ」


 ティルファングはレーヴァレインの涼しい顔をちらりと見て、再び眉をしかめた。







 事態はアレウス国が着々と体制を整え、西海軍への万全の布陣を完了させたかに見え――

 十一月二十二日の夕刻、急激に動いた。


 日没も過ぎた六刻過ぎ、急報を携えた伝令使がグレンデル平原本陣へと舞い込んだ。


 伝令使を寄越したのは南方軍第七大隊大将ダイク。

 フィオリ・アル・レガージュに駐屯する部隊だ。


『夕、六刻。西海軍、レガージュ、侵攻――』


 伝令使独特の掠れた声音が薄暗い幕舎に流れる。

 燕の姿をした伝令使は、更に嘴を開いた。


『敵兵数、およそ、六万五千』


 タウゼンは卓上に広げた地図の上で、右手を握り込んだ。


「六万五千――」

「西海軍の現兵力、ほぼ全軍ではないか」

「バージェスからではなく、水の利のあるシメノスを選んだか」


 シメノス遡上の為に、まずはその入口であるレガージュを奪おうとしている。

 南方将軍ケストナーが立ち上がる。


 今、レガージュに配備されているのは第七大隊一大隊のみだ。それ以外の全ての兵は、ここグレンデル平原に集結していた。


「すぐに援軍を向かわせます」


 南方軍は本陣中、後衛を担っている。

 慌ただしく陣内が動き出し、それに伴い兵士達の間にも緊張が高まる。

 陣営の中に灯り始めた篝火が、薄紫の大気に揺れる。


 第二報は南方軍の出立が整い、正に出立しようとしていた七刻に入った。


 今度は伝令使ではなく、飛竜でレガージュから飛んだ伝令兵によるものだ。


「申し上げます――!」


 伝令兵は幕舎へ駆け込み、そこにいたタウゼン、ハイマンスと四将軍の前に転げるように膝をついた。


「レガージュ配備、南方第七大隊大将ダイクより、ご報告申し上げます!」


 伝令兵は自らもまた、身体のあちこちに血を滲ませている。

 レガージュでの戦闘の激しさを物語っていたが、伝令兵の伝えた状況はそれを上回っていた。


「フィ――フィオリ・アル・レガージュは、陥落――!」


 幕舎内が緊張に満ちる。


 荒い息を吐き、伝令兵はその場に頭を伏せた。


「西海軍の猛攻を凌ぎ切れず――我が部隊は、辛うじて住民達を護衛しつつ、撤退を試みております」






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