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第8章『輝く青2』(3)

 

 ファルシオンはボードヴィルを自らの本陣と定め、十一月二十一日夕刻にグレンデル平原で兵士達と対面したのち、グレンデル平原の正規軍本陣に転位陣を置いた上で、十一里(33Km)離れたボードヴィル砦城へと移った。


 騎馬では一日、飛竜ならばおよそ二刻、グレンデル平原で西海軍と戦端を開いた場合、王太子ファルシオンの安全を確保する上でスランザールやベールが譲らなかった距離だ。


 ただ、ファルシオンがボードヴィルを本陣としたことは、僅か十日前まで偽りの王太子旗を掲げていたという不名誉を負ったボードヴィルの住民達にとっては、大きな喜びとなった。


 ファルシオンがボードヴィル入りしたのは二十一日の夜も十刻を過ぎてのことであったが、通りは王太子を迎えようとする住民達で埋まり、当初は飛竜で砦城に直接入ろうとしていたファルシオンも急遽セルファンやアスタロト達を説得し、騎馬で街門から街中を通り砦城に入城した。





 夜の中にファルシオンを迎えたことによる住民達の熱気が、まだ漂っている。

 ファルシオンはボードヴィル砦城の塔から、広がる街を見渡した。

 砦城背後の、岸壁の下を流れるシメノス大河の水音を風が微かに伝えている。


 砦城の大屋根と、それからいくつかの塔、その間を巡らされている兵達が歩く為の歩墻。

 黒い板塀の家が低く連なる、特徴的なボードヴィルの街並み。

 王都とは全然違うその光景が、ファルシオンに遠くまで来たことを教えてくれる。


 吹き付ける風が塔の周りを抜け、どことなく楽器的な音色を奏でる。


「お寒くはございませんか、王太子殿下」


 セルファンの問いに、ファルシオンは首を振った。

 冷たい夜風が周りを吹き抜けていてやや肌寒くは感じるが、ただファルシオンは気持ちが高揚していて、それが体温にも表れている。


 自分を迎え入れてくれた街の人々の想いが嬉しく、彼等が半年間この街でどのように暮らしてきたのかを考え、そして明日からの新たな苦労を受け入れてくれる彼等に応えなくてはいけないと思う。


「わたしはだいじょうぶ。街の人たちこそ、こんなに遅くまで起きていて、風邪をひいてしまったりしないだろうか。明日は、ここを発たなくてはいけないのに」


 彼等はこの周辺が再度戦地となることから、戦禍を避ける為、明日二十二日の朝から順次西方第六軍の軍都エンデへ避難する予定だ。


「大丈夫です」


 答えたのは、並んだ窓から同じように街を見下ろしていたアスタロトだ。

 ファルシオンがここに登ってきた時、既にここにいて、レオアリスと話をしていた。


「住民達は正規軍がしっかり保護して移動しますから、安心してください。まだイス周辺にも西海軍の動きはありません。エンデへは三日の行程にはなりますが、道中の問題はありません」


 あっても正規軍が全部排除します、とアスタロトは胸を張り、自分の背の長布を外してファルシオンの身体を包むように掛けた。


「風があるんだからあったかくしないと駄目です、殿下」

「うん。ありがとう」


 ファルシオンはアスタロトへ微笑みを返し――それから、アスタロトのその向こうへ、瞳を向けた。

 塔内は円形になり硝子の無い細長い窓が二十、ぐるりと巡らされている。四つ向こうの窓に、レオアリスも立っている。

 ファルシオンが向けた視線へ同じように視線を返し、ほんの僅か、頬に笑みを浮かべる。


 数日の内にはおそらく西海との戦端が開かれるだろうこんな時ではあったが、風の音が抜けるこの小さな塔の空間が、ファルシオンにはとても嬉しく、暖かい場所に思えた。


『僕も、そちらに伺ってもよろしいですか、殿下』


 ふいに部屋に声が流れた。

 姿はないが、聴き慣れたアルジマールの声だ。


「かまわない」とファルシオンが答えると、すぐに部屋の中央にアルジマールの姿が現われた。


 背後の空間が揺らぎ、閉じる。


「まだ起きておいでですか、殿下。もう十一刻になりますよ」


 小さな子供――実際にファルシオンは五歳の子供だが――に夜更かしを釘刺すような口調で言い、アルジマールは一礼した。


「もう寝るところだけれど、ちょうど、アルジマール院長と話をしたいと思っていた」


 そう言ってファルシオンは法陣の敷設状況をアルジマールへ尋ねた。

 西海戦――ナジャルとの戦いに向け捕縛陣と転位陣、二重の陣を引く為に、十八日にアルジマールがこの地に入ってから、今日で四日目になる。


 十七日の軍議では、アルジマールは敷設に五日を要すると言っていた。

 いつものように問題ない、と頷くかと思ったが、アルジマールは今回はそう言わなかった。


「申し訳ありません、順調、とはやや言い難いですね。規模も大きいですし、重ねるものが多すぎて。けど、ナジャルが動くまでには間に合わせます」


 アルジマールにしては珍しく慎重だ。

 ファルシオンは首を振った。


「ありがとう。無理をさせてしまっているけれど、アルジマール院長の法術が、この戦いでとても大切なのだ。私にできることがあったら、何でも言ってほしい」


 アルジマールの口元が柔らかく微笑む。


「王太子殿下は、臣下を導く資質と風格を既にお持ちです。でもやっぱり、まだ殿下はお小さいのだから、もうお休みにならなきゃいけませんよ」

「わかった。また明日。三人とも、しっかり休んでほしい」


 アルジマールがここにきたのはファルシオンへの報告ではなく、アスタロトと、レオアリスと話をする為だろう。

 ナジャルとの戦いについて。


 ファルシオンは素直に頷き、アルジマールとアスタロト、そしてレオアリスへ瞳を向け、セルファンとともに階段を降りていった。





 先ほどまで感じていた暖かな空気が、ほんの僅か、温度を下げたように思えた。


 レオアリスはファルシオンが降りた、塔中央にある階段のぽかりと空いた空間から、視線を戻した。

 アルジマールが、ボードヴィル南西に構築中の法陣について話をしている。


「今は六割まで組めてる。捕縛陣と転位陣の二つ――この後が更に大技になるから、僕はあと少なくとも三日は掛り切りになる」

「わかった。さっきの殿下じゃないけど、アルジマールも身体を壊さないでよ」


 アスタロトが腕を組む。


「それまでは、任せて。西海の進軍はグレンデル平原で止める」

「うん、お願いしたい。それと今回は、法陣円までナジャルを連れてくることが一番肝心だ。その動きは君達二人にかかっている」


 アルジマールの瞳がアスタロトと、レオアリスへ動く。

 瞳を彩る虹色は、夜の中だと(かず)きの下でも微かに発光して見えた。


 アルジマールの両眼は義眼だ。

 アルジマールはそこに、法術に注ぎ込む力を貯蓄している。アルジマールが並外れた法術を行使するための法具と言っていい。

「この戦術は、ナジャルが僕達の思惑通り動かないと用をなさない。ナジャルを確実に動かさなきゃいけないけど、あの存在がどう、何で動くのか僕達は良く知らない。ただ」


 と、慎重に言葉を区切る。


「ファルシオン殿下は、それを見越して戦場に自らおいでになった」


 兵士達の鼓舞のためだけではない。

 共にあろうと、そう考えただけでもない。


 ファルシオンは自分の存在により、ナジャルを誘き出すつもりでいる。

 だからこそ、この連携を崩す訳にはいかなかった。


「僕達は、ナジャルの視線ひとつ、ファルシオン殿下に届かない位置でナジャルを留め、倒す。必ずだ」


 アルジマールは右手を伸ばした。

 その上に、光る波形が踊る。

 表されているのは重なった法陣円だ。


「僕の法陣――二重陣の一枚目の捕縛陣は自動発動だけど、二枚目、転位陣は発動ぎりぎりの段階で留めておく。ナジャルが捕縛陣に入って捕縛陣が発動して――、でも完全には抑えきれないと分かってる。転位陣の詠唱の、最後のひと紡ぎの時間が欲しい」

「全く余裕だろ、任せて」


 アスタロトはそう言って、胸に手を当てた。


「絶対止める」


 頷き、アルジマールは虹色の瞳をレオアリスへ据えた。


「大将殿。君にはもう一度、釘を刺しておくよ。一人で戦おうとしないこと。限界まで戦おうとしないこと。死を自分から受け入れないこと」

「院長」


 差し込むような瞳に、レオアリスは少し笑った。


「先日の協議で、戦術は決まったでしょう。理解しています。それにアスタロトだって同じことですし、アスタロトの方が無茶をしやすい」

「今の私はお前よりずっと大人だよ。レオアリスは無謀に見える。アルジマールの言うとおりだ」


 アスタロトはつんと顎を上げた。


「そんなふうに考えているつもりはありませんが、そう見えるなら気をつけます」

「気をつけるだけじゃなく、君の名誉にかけて誓え」


 じろりと睨み、アルジマールは一歩踏み出した。


「ファルシオン殿下の為に」

「――誓います」


 アスタロトはレオアリスの横顔をしばらく見つめ、視線を戻した。


「それから――」


 アルジマールはその先の言葉を、区切り、そして自らの中に収めた。


「まあ、いい。とにかく僕が整うまで、君達はナジャルを引き付けて戦い続けてもらう。よろしくね」










 高く広く、丸い天蓋の東から、濃紺一色だった空を白白とした朝の光が染めていく。

 このところサランセリア地方では晴天が続いていたが、今日も良く晴れそうだった。


「プラド」


 ティエラは丘の上に立つプラドに声をかけ、いつもながら振り返らないことにほんの少し唇を尖らせ、彼に近寄った。

 プラドが見据える先、なだらかに連なる丘をおよそ十も挟んだ向こうに、黒々とした帯に見える一団がある。


 そこから先はグレンデル平原――帯のような一団は、昨日集結し布陣した、アレウス国正規軍の本陣だ。


「やっぱりもう一度、この地を選んだのね」


 西海との戦いならば戦場になるのはこの地だろうと見越し、プラドとティエラはアルケサスからこのサランセラム丘陵へ移動していた。


 ティエラはしばらくゆるく吹く風に黒い髪を遊ばせていたが、両手でそれを一度、括るように背中へ流した。風はすぐにまた、髪を散らす。


「まだ、レオアリスを氏族へ迎えようと考えてる?」


 ちらりと視線が向き、戻される。


「長の指示は変わっていないだろう」

「こんなに離れていたら、確かめようがないけどね」


 氏族へ連れて帰るようにと、それがベンダバールの長の明確な、ただ一つの指示だ。

 ベンダバールもまた、さほど大きい氏族ではない。

 今は三十名ほど――この国を出て以来およそ四百年と少し、その間に六名が失われ、そして新たに誕生した者はティエラ一人だった。


「納得してくれるかしら。そもそもジンとアリアが生きていたら、ベンダバールに戻れなんて勝手なこと、承知するとは思えないし。まだ十八年とはいえ生まれ育った国を離れるのは誰だって躊躇うでしょう」

「慣れる。俺達はそういう氏族だ」

「慣れるって――」


 柔らかな印象の眉をそっと寄せる。

 ティエラ自身は少し迷っている。この国でたった一人いるのであれば氏族へ迎えたいと思ったが、ティエラが目にしたレオアリスはこの国にしっかりと足場を持っていた。


「どうしても、レオアリスを氏族へ迎えようと考えてるなら、レオアリスはナジャルと戦うんだから、連れて帰りたいならただ見てるだけじゃ意味がないんじゃないの? 死んでしまうかもしれないわ。この間だって」


 ティエラは自分の腕を見た。

 アルケサスで、風竜の息を全身に浴び倒れていたレオアリスを抱え起こした。


 ティエラは生まれて百年と少し、氏族の誰かが死ぬところをまだ見たことがないけれど、あの時のレオアリスの負った傷はそれを考えさせた。


「その前に連れ帰る」


 端的すぎる言葉に肩をすくめ、プラドの視線の先へ、自分も視線を投げる。

 グレンデル平原とサランセラム丘陵との境に置いた、五万を超える大軍の黒い筋。


「あなたはどう見る?」

「布陣が、という意味ならここからでは何とも言えない。あの場所が狙い通り戦場となるかどうか、それがまず第一だろう。あくまで想定での布陣だ。西海はそれに合わせる必要はないからな」


 西海軍の動きが見えていない段階での布陣。

 いかに流動的に動かせるかが鍵になる。


「一度勝利した地という意味であの場に拘っているのなら、危うい」

「そうね」


 それにしても戦いのことに関しては――関して『しか』、多弁にならないのね、とティエラは心の中で小さくため息をついた。




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