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第8章『輝く青2』(2)


 北から、風が音を立てて草原を吹き抜ける。


 かつては緑の草がどこまでも靡いていた草原は、今はあちこちで土が覗き、枯れかけた草と合わせてまだらな模様を作り上げていた。

 王都から延々と続いてきた街道の石敷きが、この一帯では土にほとんどが埋もれてしまっている。浮き上がってめくれ、或いはばらけて沈んだ基礎石と煉瓦がここに街道があったことを伝えてくるが、道として辿ることは今は困難だ。


 その先、半年前まで街道沿いに建っていた一軒の白い瀟洒な館も、今は傾きその半ばまで土に埋もれている。

 館を過ぎたところに街道を挟むように立てられていた、二つの石の(しるべ)も。




 半年前、西海の侵攻が始まり、そして西海は進軍の為にこの地一帯を泥地化した。

 泥地化は水都バージェスから進行し、短時間でこの場所まで埋め尽くした。


 その時のことを――そしてこの一里の館における一連の出来事を、ワッツは忘れようと思っても忘れられないだろう。

 忘れたいとも思わないが。


「一里の館――」


 既に大地そのものは乾いているが、土を踏み締めると泥地化の名残で地面は柔らかく、砂埃を微かに舞い上げ軍靴の踵まで沈む。

 ばらけた街道の石敷きを辿って歩き、斜めに埋まった一里の館を過ぎて、ワッツは左右二つの石の前に立ち止まった。


 半ばまで沈み、傾いだそれは、かつてはこの先が西海との不可侵条約締結の地であることを示す指標石として、この先へ行こうとする者に警告していた。

 白っぽい表面に、古い文字が刻まれているのが辛うじて読める。


『ここより先、バルバドスとの条約を示す地』、と。


 一里先の水都バージェスを半円に囲むように、百間ごとに設置された指標石だ。それらも今は全て虚しく沈んでいるのだろう。


「ワッツ大将殿。館の中に入れます。進むのはかなり厳しいですが――」


 元西方第六大隊中将コンサーロが駆け寄り、ワッツへそう報告した。今回の西方軍再編で第六大隊が第七大隊に編成され、ワッツは大将として彼等を掌握することとなった。


()()の露台から入れます」


 ワッツはコンサーロを振り返って頷き、それから緑の双眸を一里の館へ向けた。

 一里の館の前には、旧第七大隊からの部下、スクード達二十名の姿がある。

 彼等は粛然と館に向かい合って立ち、館を見上げていた。俯き、黙祷を捧げている者も多い。


(二階――)


 泥地化によって斜めに沈んだ館は、一階は人が立ち入れる余地はないが、コンサーロの言ったとおり二階の広い露台から部屋に入ることができそうだった。

 館も、その露台も、ワッツは良く覚えている。


 館の前には西方第七大隊千五百名が一里の控えの任務を負い、王を迎える為、戻りを待つ為に待機していたこと。

 一里先のバージェスの街に狼煙が上がり、西海との不可侵条約際締結が破棄されたと知ったこと。

 バージェスからの撤退。

 そして、この一里の館前での布陣、戦闘。


 地面から斜めに突き出している露台の手摺りに手を置き、乾いた泥が僅かに残るざらついたその感触を確かめる。

 この露台に、彼等の、西方軍第七大隊大将ウィンスターが立ち、彼等を指揮したこと。


 今は斜めに傾ぐかつての床で身体を支えながら、ワッツは露台の奥の部屋に入った。軍靴が落ちた石や土を踏み、音を(にじ)らせる。


 陽光が僅かに差し込み、広かった部屋をぼんやりと照らしている。

 この部屋に王の用いた転位陣があった。

 同じくその転位陣を用いて、法術士と近衛師団の飛竜が、西海との戦闘の為にこの館に現われた。


(ボルドーの野郎がいたな。相変わらずいけ好かなかったが、法術の腕は確かだった)


 そして――


 ワッツはそこを見つめた。転位陣のあった床を。


 あの日、ウィンスターはワッツへボードヴィルへの退却を命じ、自らはごく少数の兵、そしてボルドーと共に、館に残った。王都と繋がる転位陣を西海軍に奪われないよう、破棄する為だ。

 そしてそのまま、ここで最期まで課せられた任務を全うした。


 薄暗く白ちゃけたかつての床の上には、激しい戦闘の名残も、転位陣の名残も、彼等の意志の名残もない。


 それでも、ワッツは鮮明に憶えている。

 忘れるつもりはない。


「ウィンスター殿。あんたにはいつも、全ての責任を背負ってもらいました。何の因果か、俺はどうもあんたの後をくっついて回ってる。今度は俺が、あんたが負っていたものを負い、果たす番です」


 答えが返ることは決してないが、ウィンスターがここにいたならば、ワッツへ命じることはわかる。




『お前が判断しろ』



 かつて、西のカトゥシュ森林で黒竜との戦いを前に、ワッツへそう命じたように。



『そう思うのならな』




 ワッツは踵を鳴らして両足を揃え、右腕を胸に当てた。

 束の間瞳を伏せ、この場に、ボードヴィルに、そして、西のカトゥシュ森林に在ったウィンスターの姿を想う。

 この地に散った兵士達の姿を。


 ややあって、ワッツは身を返した。

 部屋と露台の境で、同じように敬礼を捧げているスクード達へ視線を送る。


「戻るぞ。夕五刻には王太子殿下がこの地にお見えになる。その前に第七大隊の布陣を完成させなきゃな」


 一里の館の手前に待機させていた飛竜達が翼を広げ、ワッツ達を運ぶのを待っている。

 最終戦の地として選んだ、グレンデル平原の『壁』へ。










 整然と列を成した五万五千名もの正規軍兵士、近衛師団隊士、法術院の術師達が、一心にその眼差しを『壁』の上へと向けている。

 騎馬の嘶き、飛竜達が時折、その翼を広げる音。

 軍旗と王家の旗が風に靡く音。


 西陽が背後から落ちかかる夕刻、五刻。

 壁の上に設けられた転位陣が、淡く黄金色に染まった大気に静かな光を投げかけていた。

 転位陣が灯らせた光は次第に広がり、兵士達の目の前で一際強く輝いた後、大気に溶けるように消える。


 光が消えた後、そこに彼等の王太子、ファルシオンの姿があった。

 大気が途方もなく大きな手で押したかのように揺れる。

 それはファルシオンの姿を目にした兵士達の高揚が生み出したうねりだ。

 誰ともなく、ファルシオンの名を呼ばわる声が上がり、夕暮れの中に瞬く間に膨れ上がった。


 国王代理たる王太子が、自分達と共に戦場にある高揚。

 僅か五歳と幼い王子を、自分達が必ず守るという意志。

 この戦いの勝利への信念。


 ファルシオンの存在だけではなく、彼等の誇る『炎帝公』アスタロトが炎を取り戻し、ここにいること。法術院長アルジマールの存在。

 そして今までの戦いとは完全に異なり、王の剣士であるレオアリスが戦場にいることも、彼等の高揚と意志と信念を一層支え、高めていた。


 タウゼンが口にしたように、この戦いの出口――勝利への道が、目の前に確実にあるように思えた。







 遠く、西の地平へと太陽が降りていく。

 その先にある、まだ目にしたことのない、不可侵条約再締結の地バージェスと、浮上したという西海の皇都イス。


 ファルシオンは降りていく太陽の黄金の輝きを見つめ、束の間呼吸を抑えた。


(父上――)


 迫り上がった悲しみが、全身を飲み込みそうになる。

 身体を揺さぶるその感情を懸命に堪え、ファルシオンは瞳を見開き、前を見つめた。


 整然と並んだ兵士達――ここで、この国のために共に戦う彼等を。

 ファルシオンの後ろには、タウゼン、ハイマンス、そしてアスタロト、アルジマール、レオアリスが控えている。

 一歩、前へ出る。


 西から流れ、壁を吹き上がる風がファルシオンの纏う服をはためかせ、銀色の髪を散らす。


「ここに――西海との戦いのために集まってくれたみなに、改めて礼をいう」


 ()()()()を、口にすることは、心を強く握られることでもあった。

 けれど、ファルシオンの心に暖かい火を灯してくれるものでもある。


「半年前――父上は、わたしたちにおっしゃった。ひとの心には、平穏への強い願いがあるのだと」


 瞳を伏せ、父王の言葉を思い起こす。

 それはずっと、この半年間、ファルシオンの心の中に(うず)もれていた。父王を思い起こすことは、深い悲しみを伴った。


 今、その言葉を一つ一つ噛み締める。




『人の心には、平穏への強い希求があり、己の信念や理想があり、困難を乗り越えてそれを成す力がある』



『意志や希求に限りはない。実体もなく触れ得ぬが、触れ得ぬが故に如何なる力も意志や希求を消し去る事はできず、如何なる状況、如何なる暗闇に於いても、我等の目は光を探すからだ。そして光は意志に力を与える』



『望み、求め、それを成す。その力が全ての、一人一人の中にある。私はそなたら一人一人が、それを成す事を望む』




 黄金の瞳を持ち上げ、兵士達へ向ける。


「わたしは、みなと共に必ずそれを成し遂げる。わたしと共に戦ってほしい」


 タウゼン、ハイマンス、アスタロト、アルジマール、レオアリスがファルシオンの背後で膝をつく。


 耳を打つ僅かな静寂ののち、兵達の間から歓声が膨れ上がり、夕刻の黄金の光に包まれた辺りを揺らした。





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