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第7章『輝く青』(23)

 

「上将は?」


 クライフは執務室に入り、レオアリスの席を見てそう尋ねた。

 フレイザーが顔を上げる。


「ファルシオン殿下からお呼びがあって、ついさっき居城へ行かれたのよ」

「殿下からか、久々だな」

「久々? 全然お会いしてなかったのかい?」


 書類に向かっていたヴィルトールが顔を上げ二人を見る。フレイザーは思案顔で頷いた。


「そうよ。殿下がお呼びになって居城でお会いになるのは、ひと月振りかしら」

「へえ。それは随分間が空いたね」


 ファルシオン守護の任務があったころは毎日のようにファルシオンの傍らにいて、それでなくともファルシオンはレオアリスをしょっちゅう居城へ呼んでいた。

 今、レオアリスは王太子守護の任からは外れており、ファルシオンには国王代理という立場がある。


「しゃーねぇとは言え、物足りねぇな」

「そうだね。けど、西海との戦いが終われば、また立場は変わってくるよ」

「でも」


 フレイザーは考え込むように窓の外に目を向けた。淡い日差しの中に霧雨が降り始めている。


「上将はファルシオン殿下にお会いして、直接お話をされた方がいいんだと思うわ。今の状態が、少し変わるんじゃないかって――失った剣を戻そうとして、行き詰まってしまってるけど、それは」


 口を噤む。

 そのことを言葉として出すのは、レオアリス自身がここにいなくても、どうしても躊躇われた。


 失ったものの為には、剣は戻らないのではないか、と――そう口に出してしまうのは。


 ただ、ファルシオンと話し、その輝きに触れることで、レオアリスが自然とそのことに気付けば――


(――やっぱり、言えないわね、そんなこと)


 そもそも、そういう問題かどうかも分からない。

 そっと微かな溜息を落とした。


 クライフはちらりと時計を見て、そわそわした。あと一刻もすれば一日の仕事も終わりの時間だ。

 執務机に向かったはいいが、何度も机の上の書類をめくっては戻し、まためくる。

 そのまま時計の長針が五回くらい回転した。

 そわそわと息を吐き、そわそわしながら小首を傾けフレイザーを上目遣いに見る。ヴィルトールが一連の動作に白い目を向けている。


 クライフは大きく、肺から息を吐き出した。

 明日、クライフの中軍もレオアリスについて西へ発つ。


「あー、あのさ、フ、フレイザー……きょきょ今日、この後メシ行かないか? ふふふ二人で」

「いいわよ。どこに行くか決まってるの?」


 あっさりとフレイザー頷いて、諦めかけていたクライフは二度見した。


「そうか――えっ、えっいいの? えっ、じゃあ」


 おや、とヴィルトールは二人のやりとりを眺めた。半年前まではクライフが食事に誘って、一回で了解されたことはほとんどなかったのだが。


(嫌われてたって訳じゃなかったけど、フレイザーは副将が夕飯をどうするのかとかばかり気にしてたからねぇ)


 ヴィルトールは二人の中の半年分の蓄積を想い、それらがどうも進展しているようだとそっと笑みを浮かべた。


「えっ、えっ……どこ行こう。いつもの――いや、ちょっと待ってくれ、考えるから! 品のいいとこ! めっちゃ洒落たとこ考えるからちょっとだけ待って!」

「別にいつもの酒場でいいわよ」

「いや、もう少し……せっかくのフレイザーとの食事だぞ、あんなガラっぱちのとこじゃなくてもう少し落ち着いて雰囲気のいい……」

「クライフの行動範囲内にそういうお店あるの?」

「うう……ぐうう……」


(――こっちが準備できてなかったか)


「はいはい、」とヴィルトールは立ち上がってクライフの傍に行き、頭を抱えているその肩を叩いた。

「今日はいいじゃないか、いつもの場所で、ゆっくりできればさ。後日改めて雰囲気のいい美味しい店をしっかり選んで行っておいで。ねえ、フレイザー、それで良くないかい」

「いいわよ、全然」


 再びあっさりと返った答えにクライフは驚きと喜びを一緒くたにした顔をした。

 ヴィルトールの腕をがっつり掴む。


「ヴィルトール、今度店教えてくれ! くそ、こんな時ロットバルトがいりゃ」

「頼めば今だって店まで用意してくれるかもしれないけどね」

「そ、そうか――いやっ。あいつの用意する店じゃ俺が浮く。あ、でもフレイザーがそういうとこが良けりゃ」

「うーん。私も遠慮するかな。気楽なところがいいし。クライフらしいところでいいじゃない」


 フレイザーが笑ってそう言い、クライフは心底安心した顔でへへ、とにやけた。








「レオアリス――」


 ファルシオンはレオアリスの姿を見るなり、座っていた椅子から飛び降り、レオアリスへと駆け寄った。

 外は静かに雨が降り、十一月も半ばを過ぎた大気は雨で一層冷え込んでいる。

 膝をついたレオアリスの前で、ファルシオンは足を止めた。


「ひさしぶりだ」


 息を飲み込むようにそう言う。

 こうして居城で会うのは、ほんとうに久しぶりだ。この場にレオアリスがいるのを見ると、以前に戻ったような気持ちになる。

 ほんの少しだけ。


「はい」


 頷き、レオアリスは膝をついたまま背筋を伸ばした。「今日は如何されましたか、王太子殿下」

 傍らで見つめていたハンプトンは、ファルシオンが一瞬ひどく寂しそうな顔をしたのに気づき、胸の痛みを覚えた。


 レオアリスがファルシオンの護衛の役目を任じられファルシオンの側に控えていた半年前と、今は状況が違う。自らの立場を踏まえた振る舞い方が、一般的には当然好ましい。

 レオアリス自身――そしてファルシオンもそれを理解していて、そして二人の想いが今は重なっていないことが、ハンプトンにはもどかしい。


(せめて、殿下の護衛を、また――)


 それが簡単ではないことは、ハンプトンにも解っている。

 半年前のあの一件による官位剥奪後、再び近衛師団大将位を認められたこと自体が異例ではあるのだ。

 余計な批判があれば、レオアリスが大将位に復帰したことも見直さなければならなくなってくる可能性もある。


(ファルシオン殿下が、ご自身が最も望むようにできれば、どんなにか)


 そうできない、王太子――国王代理という立場を、それでもファルシオンは甘んじて受け入れている。

 そして、明日は。

 不安を飲み込み、ハンプトンは努めて明るく微笑んで、両手を胸の前で合わせた。


「ファルシオン様、立ったままではゆっくりお話もなされません。隣の温室をご用意しておりますので、そちらで落ち着いてお話をなさいませ」

「うん。レオアリス、こっち。今日は雨だけど、雨の温室も静かで気持ちが良いのだ」


 ファルシオンは弾む声でレオアリスを招いて、続き部屋になっている小さな温室に入ると、窓際に置かれた椅子に腰掛けた。

 斜めに向かい合って置かれた椅子に座るよう促す。


「レオアリスは、体調はもう良いのか」


 座るのを待ってファルシオンは真っ先にそう尋ねた。

 細い霧のような雨が硝子張りの天井や壁に音もなく降り込め、集まった水滴が時折表面を流れていく。まだ淡い陽が温室の周囲を染めていた。


「はい。お陰様で、今は」

「無理はしてないな?」


 レオアリスが眼差しを返す。

 ファルシオンはその瞳をじっと見つめた。


「レオアリスは無理をしすぎる。それが心配だ」


 レオアリスはやや苦笑を滲ませたようだ。


「無理をしすぎるのは私ではなく、殿下でしょう。先月も、たったお一人で西海軍が侵入している街へ出てしまわれた――夢中だったのでしょうが、もうあのような無茶なことをなさってはいけません」


 王都が襲撃された時のことは、もう繰り返し何度も言われている。ファルシオンは柔らかな頬をもどかしそうに膨らませた。


「わかっている――」

「大切な御身です。御自身の為だけではなく、臣下や、国の為にも殿下は御自身を大切になさらなければ」

「気をつける。だいじょうぶだ。私が自分勝手に動いたら、困るのはまわりのもの達なのだから。レオアリスだって――レオアリスはあの時、私のところにきてくれたけど」


 ファルシオンは両手を胸に当てた。

 あの時のことを、もし、と考えると、怖くなる。


「もし、あの時、レオアリスが戦えないのに私がむりに呼んでしまっていたら」

「――殿下がそのような心配をなさることはありません。現に私は戦うことができました。それまで半年もの間御前を空け、近衛師団として御身を守るべき役割を果たしてきませんでした。あの時、殿下を守ることができたことは」


 レオアリスはほんの僅か、言葉の中にある色を変えた。


「それができて良かったと、心から思っています。あの場に立つことができて、良かった――」


 それはどこか隔たりを感じていた先ほどまでとは違う響きがあり、ファルシオンは黄金の瞳をほんの少し、見開いた。

 懐かしい――半年前、まだ、イスで何も起こっていなかった頃の響きだ。


 兄のように想うファルシオンの気持ちを、兄ではないのだとそう言いながらも、受け止めてくれていたころの。


「ですから殿下は、心配なさることは一つもありません。無理などではありませんから」


 嬉しい反面、複雑な気持ちが胸の内に漂う。

 あの頃に戻れたような想い。

 心配しなくてもいいと言われるのを淋しく、物足りなく感じる想い。

 自分の為に無理をして欲しくないのにという想い。


「――レオアリス」


 呼ぶとレオアリスは瞳をファルシオンの瞳に合わせた。


「――」


 ここにいる。

 ファルシオンは胸に当てている手を、ぎゅっと握った。


 明日、西海との最後の戦いに、出兵する。

 ファルシオンは総大将として、兵士達を戦場に送り出す。

 五万八千名もの兵士達だ。五万八千もの命。


 誰一人死んで欲しくない。生きて帰って来て欲しい。

 けれど戦いである以上、それは叶わないことは判っている。

 そして、レオアリスやアスタロト、アルジマールが戦うのはナジャルだ。


 王城の謁見の間に現われたナジャルの存在を思い出し、ファルシオンは一度身を震わせた。

 胸に当てた手に、一層力を込める。その手の下に押さえたもの――それを感じると、勇気が湧いてくる。


「レオアリス。明日、私もみなと共に行く」


 ファルシオンの言葉の意味を飲み込み、レオアリスが腰を浮かせた。


「殿下、それは」


 面が厳しく引き締まる。


「危険です。万が一があったら――いえ、戦場では万が一では終わりません。殿下が戦場に行かれるのは、反対です」


 そう言われるのは分かっていた。

 ベールやスランザールからも、初めはそう言われた。

 総大将の役割を果たしたいと言ったファルシオンに対し、ファルシオンが王太子として、そして国王代理として、総大将の名を冠しているだけでも十分なのだ、と。


 それでも、ファルシオンは引かず、彼等に訴えた。

 今、レオアリスの瞳を見つめる。


「私は総大将だ。私がみなに、戦場へ行けとめいじた。生きて帰ってほしいっていいながら、私は、万が一が万が一ではないところに、みなに行けとめいじているのだ」

「しかし、それが王太子殿下として、当然の」

「自分だけ王都にいて――そんなの、総大将なんかじゃない。みなの力になれないのだ。私は、みなの力になりたい」


 レオアリスが瞳を軋むように細める。

 息を吐き、首を振った。


「――反対です」

「もう決めたのだ。行く」

「殿下」


 意識してか無意識にか、レオアリスは左手を鳩尾に当てた。


「お考え直しください。殿下まで、もし――」


 束の間、目眩を堪えるように俯いた身体が、揺らぐ。

 ファルシオンはぱっと立ち上がり、ほんの僅かな距離を駆け寄って、その肩を支えた。

 レオアリスは気付いてファルシオンの手を外しかけ――ほんの僅か、肩に当てられた手を見つめ――、そっと外した。


 ファルシオンの前に片膝をつく。そうするとどうしても少し距離は離れ、ファルシオンはその距離を詰めるように膝がふれるぎりぎりに立った。


「レオアリスは、レオアリスだってナジャルと戦うだろう」

「それは、殿下が戦場にお出になることとは違います」

「違わない」


 レオアリスの前にしっかりと立ち、その瞳を見つめる。


「私は、そなた達と共に行く。それが私の願いで、誇りなのだ」


 黄金の瞳が内側から光を滲ませる。


「私を認めてほしい」


 自分が幼いことは理解している。

 まだ何の力もないことも。

 それでも意志は、明瞭だ。


 雨がほんの少し強まり、温室全体は雨が硝子に触れる微かな音の膜に包まれたように、濃厚な静けさで満たされた。

 それほど、長い沈黙ではなかった。


「――」


 レオアリスは自分の目線よりやや高い位置にあるファルシオンの面を見上げ、一度、その視線を落とした。


「御身の守護は、近衛師団が――?」

「セルファンと、それから隊士たちが守ってくれる。だからってけっして無茶はしない。みなにめいわくをかけてしまうから」


 レオアリスは束の間言葉を探していたが、ややあってゆっくりと、息を吐いた。


「――何を置いても無事に、この王城にお帰りください」

「わかっている。でも私が帰るのは、みなと一緒にだ。それから、レオアリスと」


 レオアリスが瞳を上げる。

 先ほどまでの強い反対の色は薄れている。


 ファルシオンは胸に当てていた両手を開き、そして襟元から首に掛けていた細い鎖を引き出した。

 一度握り締めたそれを、差し出す。


「これを、レオアリスに返さなきゃと思っていたんだ」


 小さな手のひらに乗っているのは、青い石の飾りだ。

 レオアリスはほんの僅か驚いた顔をして、自分の懐を確認するように右手を喉元に当てた。


「ずっと持っていて、ごめんなさい」


 半年間ずっと、ファルシオンが持っていた。レオアリスの剣が砕けてしまった、あの日から。

 ずっとくすんでいた色は、今は澄んだ青い色を取り戻している。


「――」


 レオアリスは手を伸ばしてファルシオンの手のひらの上の石に触れ、それを手に取った。

 温室の硝子の向こうで流れる雨の滴が、雨の日の淡い陽の光を滲ませ、石の表面がその微かな光の変化を写し取っている。


 レオアリスは束の間その光を見つめていたが、ファルシオンの手のひらにもう一度、青い石をそっと置いた。


「これは、殿下が持っていてください。もし、お嫌でなければ」

「――いいの?」


 ファルシオンは頬に熱が上がるのを感じながら、手のひらの石と、レオアリスとを見比べた。


「これは私の氏族のものです。何度かこれに助けられて来たように感じています。この間、殿下のお側に立てたのも。また殿下が持っていてくださったら、離れていてもきっと俺は殿下を守ることができる。そう思えば安心できます」

「――」


 ファルシオンは両手で石を包み込み、こくりと頷いた。


「うん。――ありがとう」


 手のひらから温もりが広がっていくように思える。


「万が一、危険なことが迫った場合は私をお呼びください。先日のように。必ず――」


 漆黒の双眸が、ファルシオンに据えられる。


「殿下のお側に参ります。今度は」

「――うん」


 部屋への硝子戸がそっと鳴る。

 ハンプトンが硝子戸を開け、ファルシオンへお辞儀して告げた。


「ファルシオン殿下、王女殿下がお越しです」

「姉上が!」


 ファルシオンはぱっと顔を輝かせ、レオアリスを振り返った。


「今日は、姉上と母上を、ここでお食事にお誘いしたのだ」


 明日、出兵をするから。

 母も姉もとても心配したけれど、最後には賛成してくれた。

 レオアリスが膝をついたまま一礼する。


「では、私はこれで退出させていただきます」

「――レオアリスも一緒に、食事をしていくことはできないか?」


 そういうことはしきたり上難しいのだともう分かってはいたが、ファルシオンはそれでも期待を込めて尋ねた。

 ただやはり、レオアリスは首を振った。


「王妃殿下、王女殿下とのお席に、私が着くものではありません。それも今日のようなお席に」

「……残念だ――」


 つい唇を尖らせてしまいファルシオンは自分を子供っぽく思ったが、それを見たレオアリスが笑ったのを見て、嬉しくなった。


「明日、一緒に王都を発つぞ」


 レオアリスはもう一度深く頭を下げ、立ち上がった。




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