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第7章『輝く青』(11)

 

 熱を持った額にひやりと心地よく冷えた何かが触れ、レオアリスはその温度に呼び起こされるように目を開けた。

 暗い視界に人影がある。


「――」


 時計を見なくてもどうせ深夜を回っているのだろう。この部屋に厄介になってから、それ以外の時間にここにいるのをほとんど見ていない。

 寝台の上に身を起こす。

 時計を確認したらやはり深夜一刻に近かった。


(こんな時間まで――)


「おかえり」


 取り敢えずそう声をかけ、言ってみて、自分に少々呆れも覚えた。


(何だろうな……俺。こんな時間までとかいいつつ、自分はさっさと寝てるとかな……)


 いや、気持ち良く寝ていた訳では決して無いのだが。

 重りをくくり付けたような感覚と、それから間断的な痛みは昨夜からずっと変わらず身に張り付いている。

 ただ、これは――


 声に立ち止まって振り返った部屋の主――ロットバルトは、どことなく驚いていると言うか、戸惑った様子を見せた。


「どうかしたか?」

「いえ――すみません」


 やや苦笑を含んだ声が返る。


「この場合どう返事をすべきか、適切な言葉が出てこなかったもので」

「適切って、そんなのただいまとかでいいんじゃ……ああ――そうか」


(想像付かない)


 ではなく。

 貴族の館などでは確かに、帰宅時に「おかえり」という砕けた言葉はかけられないだろう。「ただいま」もなさそうだ。

 でもアスタロトなどは「ただいま」と言いながら屋敷に駆け込んでいるだろうから、ヴェルナーが特にそうなのかもしれないが。


「俺も王都じゃ、支給された館に帰っても誰も迎えてくれなから言ってなかったけど、最近フレイザーとかしょっちゅう『おかえり』って言ってくれるんだよな。何か嬉しい」

「ああ、確かに――あの場所は」


 ロットバルトは頷き、窓辺に寄り掛かった。

 窓の外には月の明かりもなく、壁に掛けられた蝋燭の明かりによって、室内が薄らと硝子に映っている。


「それに貴方は随分長い間眠っていた。フレイザー中将の心情は分かりますよ。目覚めた後も状態は安定しない、瀕死の重傷を負う――今までに無かったことだ」


 心配しているのだろうと。


「もう少し、気を付けた方がいいでしょう」

「判ってる」


 自分でもいい流れではないと判っていた。

 戦い方を考えろと、カラヴィアスからも言われたばかりだ。

 ただ、反論はある。


「俺のことを言うが、ロットバルトだってそうだろう。昼の裁判は正直言って驚いた。驚いたって言うより、肝が冷えた、か――」


 イリヤの王家との関わりを否定する為とは言え、ヴェルナーの縁戚だと公言するとは考えてもいなかった。


「もう俺はお前の上官じゃないから口出す筋合いじゃないし、当然お前は承知の上だろうが、下手すればヴェルナーに――お前自身に累が及んだだろう」


 ただ、イリヤの為に発言しようとすれば、その発言には納得できる理由、背景となるものが必要だった。

 ヴェルナーが自らに何の利害もなくイリヤを擁護しても、逆にその意図を疑われるだけだっただろう。そうしようとした者がヴェルナーではなかったとしてもそれは同じことだ。


「まあ丁度良かったんです。昨年末の一件の際、ハインツの地籍簿は新たに編纂していた。ラナエ・ハインツもキーファー子爵家との繋がりは消していましたし、説明がしやすかった」

「まあ、それは理解できるけどな。でも――いや」


 ロットバルトは珍しく、やや言葉を探したようで、一旦窓に視線を向け、それから寝台のレオアリスへ戻した。


「私自身、思うところはあるんです」

「思うところ?」


 ロットバルトは笑い、窓際に置かれていた椅子に腰を降ろした。昨日ワッツには繊細すぎた椅子は、本来の使用者を相応しく迎える。


「近衛師団に在籍していた頃の記憶がまだ新しいのでね、どうにも……自分がどこまでこの事態に貢献できているのか、今の職分だと実感し難いところがある、というのが正しいでしょうね」

「実感し難いか? ヴェルナーも財務院も、国を支える重要な基盤だ。近衛師団にいる時よりも背負ってるものは大きいだろう」

「ただし命は晒さない場所にいる」


 レオアリスは眉を寄せた。


「――それは、そうだ。軍務と政務、役割分担ってのはそういうものじゃないか。安定した内政があるからこそ、軍の機能も維持できる。そうでなければ国は成り立たない。お前の思考はもともと後者だろ?」


 レオアリスが今口にした考えも、ロットバルトに学んだところは大きい。


「まあそうです。しかしこうも頻繁に命を晒した状態の相手を見せられると、考えざるを得ない訳ですよ。戦場に身を置くということを知っているだけに、安全な王城の奥にいたままでいいのかどうか」


 命を晒した状態の、という辺りで視線を向けられ、レオアリスは視線を逸らした。


「俺は、別に――」


 頻繁に命を晒しているつもりはないのだが。


「でもあれを良くルスウェント伯爵が同意したな――どう説得したんだ、一体」

「ラナエ・ハインツをイルファレスで秘密裏に保護していることを、ブロウズから聞き出したようなので。どうせ自ら毒を舐めたなら丸々飲み干した方がいいと、そう言っただけです」


 ロットバルトはさらりと笑った。


「法廷にボードヴィルの件が上がれば、イリヤ・ハインツとラナエ・ハインツの関係はいずれ明らかになる。ラナエ・ハインツを誰がどこで保護しているかも。ならば第三者に指摘される前に、ヴェルナーは図らずも関わったのだということを自ら公言し、公式記録として明文化した方がいいでしょう。それには法廷は最適の場です。そう言ったら頷いてくれました」

「胃の痛い思いをしただろうな……」


 やや同情気味に呟く。


「あれぐらいは当然でしょう。ひとに当主の役割を押し付けた分、相応の責任は負って頂かなければ」


 レオアリスは苦笑し、それからいつかの会話を思い出した。

 あの会話をしていたのは、僅か半年ほど前でしかない。

 ロットバルトはヴェルナーを継ぐつもりは一切無いと明言し、近衛師団に身を置き続けることを望んでいた。


 望み通りにはならないものだ。


「お前が近衛師団にいないのは痛いし、正直言えば――いや、まあいいや。けどだからこそ助かってる面も大きい。俺は今も感謝してる」


 それにロットバルトが今の立場だからこそ、今日の法廷であの手法が取れた。


「イリヤへの判決は、どうなるかな」

「まだ安心はできないでしょうね」


 レオアリス自身そう思ってはいたが、あれを仕掛けたロットバルトがそう考えているのは意外に感じられた。


「できる手は打ったんだろう」

「そうです。ですが国家騒乱罪と王家への謀反となれば、例え王家と無関係であっても、厳しい判決は余儀なくされるでしょう。それがまずは死罪とはならないよう、できる限りのことをしたつもりです。あともう一つ、加えるべき要素がありますが――」

「要素? 今日証言したこと以外に?」


 そう問うと頷く。


「重要な要素ですが、ただ初めにそれを出してしまっては、事は上手く流れず荒れるばかりでしょう。明日――いえ」


 そう言って一旦言葉を切り、次には全く異なることを問いかけた。


「剣は戻りそうですか」


 レオアリスはその切り替えに首を傾げつつも、頷いた。


「戻る――と思う」


 ロットバルトの視線を受け止める。

 疑わしそうだ。

 理由を付け加える。


「いつなのか、それがはっきりしない。ザインさんやカラヴィアスさんの話じゃ相当苦しむみたいだったが、そんな事がなくて、そこが気になる」


 その先を眼差しが問う。

 レオアリスは疑問を表す言葉を探し、口にした。


「特段長く眠りもしないし、痛みも間断的にあるが、耐え難いほどでもない。何だか燻ってるみたいな感じ、っていうのか」

「燻っている――」


 蒼い瞳に懸念が浮かぶのを見て、レオアリスは「気にするほど大したことじゃない」と笑った。ロットバルトは表情を崩さない。


「大したことではないかどうかも判らないのでしょう」

「そりゃ――まあ、これまで経験がないから正直良くわからないんだけどな。個人差はあるだろうし。でも西海との戦いがいつまた始まるか分からない。明日ってことはなくても、半年後でもないだろう。そして次に始まれば、互いの現有兵力を考えれば最終戦になる。そこには必ず」


 ナジャルが出てくる。

 今までの戯れのような在り方ではなく、西海軍の中心にあの力が置かれるだろう。


「早く剣を戻したい」


 レオアリスは視線を落とし、鳩尾に右手を当てた。

 未だにまるで感じられない、右の剣。


 立ち上がる気配に視線を戻す。


「剣を戻すのは、万全な状態で臨む為――そうでしょう」

「……そうだ」


 蝋燭の灯を映す窓と寝台との半ばほどに立ち、ロットバルトは腕を組んだ。


「決して、戦場で無謀な戦い方ができるようにする為ではない」

「何だよ、改めて――」


 口籠もったのはロットバルトが何を指摘しているのか、自分でも理解しているからだ。


「明確に言質を取らないと、貴方はそれを重視しようとしないからです。カラヴィアス殿も仰ったように、その傾向は戦い方に現われている。それだけれはなく、現に風竜戦では命を落としかけている」

「単に俺が未熟なだけだ。無謀な戦いを敢えてしようとは思ってないし、第一、ナジャル相手に明確な約束なんてできない」

「ではどのような条件下ならばできますか」

「どのようなって――」


 そんな条件を考えるのがそもそも無謀だと思ったが、ロットバルトは無理な提案をしているという様子もない。


「戦力差――この場合単純に戦力差と評して良いものとも異なりますが、戦いにおける戦力差を埋める為のものとして戦略があります。戦術として貴方をナジャル戦の中心に置くとすれば、可能な限り戦況を優位に進められる状況、条件を整える必要があるでしょう。無謀な戦いに全てを賭けるのは国家の取る手段ではありません」


 組んでいた腕を解く。


「この状況であれば命を落とさずナジャルを倒せると、その条件を示して頂ければ整えましょう」

「そんな簡単に」


 いや、簡単にではないのだろう。

 簡単なことではなくてもロットバルトの言うとおり、戦略は必要だ。


 レオアリスは一旦口を閉ざし、言葉を探した。

 考えて来なかったわけではない。


「――ナジャルの本体は王都に現れた人の姿じゃなく、大海蛇の方だろう。本体を倒さなきゃ終わりが来ない。とは言え海の中で満足に戦えるとも思えないし、その仕掛けだけでも法術院全部の術士が掛かったって困難だ。だから戦場を地上にする必要がある。それから、ナジャルに抗する為の戦力の集中」

「戦場と戦力。戦場は風竜戦と同様、周辺への被害を最小限に止める点でもアルケサスが最も適し、かつ我々に有利でしょう。それ故に西海軍、或いはナジャル単体でもそこへ引き込むことは困難でしょうね。直接的な戦力としては、幾つかの方面で考えられます。今回はボードヴィルのように戦力を分散する必要はない。アスタロト公、法術院――」


 一度言葉を切り、視線を扉へ向ける。


「ルベル・カリマ」


 レオアリスも同じように扉へ視線を投げ、それから自分の両手に落とした。


「話をしてみる」


 自分の手に余る。

 それをカラヴィアスが――ルベル・カリマがどう受け止めるか、判らないが。


「それから」


 言いかけて、レオアリスはその先を飲み込んだ。

 一度、既に提案を退けられている。


「いや――。もう少し考える」


 ロットバルトは束の間レオアリスへ視線を置いていたが、深夜に込み入った話をしたことを詫びた。


「まずは一日も早く剣が戻るよう、身体を休めてください。明日は」

「判決まで聞きたい」


 言いたいことはあったようだが、ロットバルトはそれを(とど)めた。




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