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第7章『輝く青』(7)

 

 ロットバルトは証人台に立ち、騒めく法廷を見回した。

 双眸を一瞬、二階の一角へと投げる。


 結局は、『ミオスティリヤ』の名誉と生命を救うのであれば、初めに王が取った選択が最も穏当だったのだ。

 イリヤ自身が決して表舞台には立たず、存在しなかった存在として。


(今――陛下がこの場においでなら、何をお考えになったのか)


 もう流れは異なる方向へ動き出した。彼自身の意思にはまるで関わり無く、引き返しようの無い表舞台にミオスティリヤという存在を引き出した。

 この状況下では、明確に、『第二王妃の遺児ミオスティリヤ』の存在を否定した上で舞台から降ろさなければ、幕引きそのものが歪む。


「さて――、やや迂遠な事項からご説明することを、お許しください」


 それまで残っていた僅かな騒めきが、吸い込まれるように消えて行く。

 ヴェルナー侯爵が語る次の言葉を待ち、百名以上が詰める法廷内はたった一人しか存在していないように、静まり返った。


「七か月前――正確には四月二十三日、当家所轄領であるイルファレス近郊のロカという街で、一つの事件が起きました。当家、ヴェルナー家に深く関わることです」


 何の話を始めたのか、法廷を埋める人々は互いに顔を見合わせ、再び衣擦れの音が束の間流れた。

 ただ、財務院長官としてではなく、また筆頭侯爵家の立場でもなく、領主の立場である『イルファレス侯』として証人席に立ったのだということは、語り出した内容からも、裁判長の呼んだその敬称からも示されている。


「ロカは小さな街です。住民達は素朴で大らかな人柄であり、ひと組の若い夫妻が他者に余計な詮索をされずに暮らすには、十分な土地柄でしょう。その出生の経緯がどうであれ、そしてまた、彼と彼の縁者との間にどのような軋轢があれ。つまり、彼等を保護し、かつヴェルナー侯爵家の体面を保つに適した街であったと言えます」

「裁判長」


 主席司法官はやや気遅れを見せながらも、裁判官席へ手を挙げた。


「失礼ながら、ヴェルナー侯爵の証言が、本法廷の審理案件に沿っているようには思えません」

「ヴェルナー侯爵」


 ロットバルトは僅かに、詫びるような笑みを刷いた。


「結論から申し上げれば、イリヤ・ハインツは――」


 その笑みを傍らに控えるルスウェントへと向ける。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、この場で証言する為に、この話をしております」


 どよめきが上がる。

 レオアリスは絶え間なく疼く痛みを忘れ、手すりに手をかけた。


「何を、言って――」


 言葉の意味を呑み込むにつれ、広い法廷は今度こそ、水を打った様に静まった。

 告発側の司法官も、証人席も、傍聴席の者達も――イリヤさえ。

 驚愕に目を見開き、或いは身動ぎも忘れ見つめている視線の先で、ロットバルト一人が悠然と落ち着き払い、整った面を揺るがず上げている。


 息苦しいほどの静寂が、身動ぎと、そして身動ぎに誘われた呟きで破られる。


「縁戚――? ヴェルナー侯爵家の?」

「イリヤ・ハインツが……?」


 レオアリスのいる場所まで、微かな恐れと驚きと、そして一種の興味を含んだ囁き声が届く。

 しかし()()では、今回の謀反の罪はヴェルナーに及ぶということになるのではないか――と。

 レオアリスは手すりを掴んで身を起こしかけ、


「――」


 冷ややかな石の感触を掴んでいた指から、意識して力を抜いた。

 ロットバルトのやることだ。レオアリスが感じた危惧など承知の上で始めているだろう。


(ルスウェント伯爵も同席してる)


 ルスウェントがロットバルトとヴェルナーにとって、不利となることを是とするはずがない。

 そう思っても、これは余りにも危険な、ヴェルナーの根幹を揺るがし崩壊させかねない主張だった。

 裁判長の問う声もまた、慎重さを帯びる。


「どのような縁戚関係にあるのか、ご説明願います」

「前当主の従兄弟――私からすれば従叔父にあたる者の非嫡出子が、イリヤ・ハインツの母に当たります」

「その証明は」

「ここに。地籍を証拠として提出させて頂きます」


 控えていたルスウェントが四冊の厚紙の表紙で綴った簿冊を卓上に置き、法廷事務官がそれを引き取る。

 ロットバルトはその簿冊へ右手を向けた。


「ヴェルナー家とイリヤ・ハインツ、二つのものです。そのうち一つ、イリヤ・ハインツの最新の地籍簿は昨年、この事実が発覚してから整えたものであることを申し添えます。非嫡出子故に地籍上、系譜は途切れておりますが、この四冊で読み解くことは可能です」


 裁判官席に運ばれた四冊の地籍簿に目を通し、裁判官達は顔を見合わせた。

 地籍に記すのは簡潔な事項だ。家族構成、個々の名、出生に関する事項、父母の名、婚姻や死亡など除籍に関する事項。編纂された日。


「侯爵の仰る通り――」


 裁判官長が頷く。


「この四つの地籍簿から先ほどの侯爵の証言を読み取ることができます。イリヤ・ハインツの現在の地籍が編纂されたのは昨年末。間の二つを繋げなければヴェルナー侯爵家とイリヤ・ハインツの地籍の繋がりは見出せないようになっている」


 法廷内の騒めきが大きくなる。


「では、本当にヴェルナー侯爵家の……?」

「しかし」


 それをこの場で公言することに、何の益がヴェルナーにあるのか、と――

 レオアリスは鳩尾の痛みに邪魔されかける意識を、法廷へ集中させた。


(ロットバルト)


 ロットバルトがここでヴェルナーとの繋がりを公言するのは、イリヤが王の子ではないことを示す為だとは理解できる。






『貴方も考えている通り』


 ロットバルトは昨夜、そう言った。

『イリヤ・ハインツはイリヤ・ハインツのまま法廷に立つことになります』


 室内には夜の、青みがかった光が窓から滲み、王城内の密やかな騒めきが空気を静かに伝わって来る。

 そんな静けさの中ではこの話は、閉ざされた室内とはいえ大胆すぎるものに思えた。近衛師団の士官棟で話をしていた以前とは、レオアリスにとっては感覚がやはり違うからだろう。そんな事を頭の片隅で思っていた。


『そこは変えられない。判ってる。でもそれなら、イリヤへの判決はミオスティリヤの場合とは変わって来るんじゃないのか?』

『それもまたお考えの通りです。ミオスティリヤの立場であれば死罪は免れません。存在が白日の元にさらされれば、次こそ『ミオスティリヤ』は必ず、公式に断罪され、国民の目の前で死ななければならない』


 ロットバルトが敢えて選んだ言葉はずしりと重い。


『けれどイリヤ・ハインツという、王家とは無関係のただ祭り上げられただけの立場であれば、判決の判断の土台は一段降りるでしょう。死罪の判決を覆せる可能性がある。その為に、課題を一つ一つ切り崩して行く必要があります』


 それを明日、法廷の場で進めるのだと。






 そう言ったとおり、イリヤの死罪を回避する方向に、ロットバルトは自ら法廷に立つことで導こうとしている。


 けれどこのままでは、ボードヴィルの(とが)がヴェルナーにまで及ぶのは明らかではないのか。

 法廷内は驚きだけではなくこの証言の行先への動揺すらあるが、ロットバルトの表情は変わらず穏やかだ。


「イリヤ・ハインツの出生については先ほども触れましたが、ヴェルナーの醜聞に関わることです。その為縁戚であることは伏せ、ただ、切り捨てるには先代も珍しく良心の呵責を感じたのでしょう、ロカにおいて密かに生活を支援しておりました。その全般を取り計らっていたのが私です」

「しかし――今回のボードヴィルでの件について、どう関わってくるのか……」


 裁判長の視線は一度イリヤを見て、再びロットバルトへ戻された。背後の二階に座すだろうファルシオンへ、意識が向けられたかもしれない。


「ロカで暮らしていたイリヤ・ハインツが、今回のボードヴィルの騒乱に関わった経緯や、目的、その関連を、お話しいただけるのでしょうか」

「私の把握しているところをお話し、判断材料として頂きたいと考えております」


 ロットバルトはそう言い、五人の裁判官が座る裁判官席を見渡した。


「その為に幾人かの話をお聞き頂きたいのです。関連する者を私と同様の証言者として、この場において発言をお許し頂きたいのですが、よろしいでしょうか」

「その者は、どなたですか」

「まずは、ロカの街の住人でもあるセイモア医師と、そしてロカのカスパール領事を」


 新たな名に、列席者達の視線が関係者席へ、それらしき人物を探して流れる。


「許可します」


 裁判長の許可を受け、すり鉢状の関係人席の一番上にいたワッツが立ち上がる。ワッツは関係者席へは降りず、すぐ後ろの扉を開いた。

 開いた扉から廊下を満たす陽光が一瞬差し込み、それに押されるように二人――壮年の男が法廷に入る。廊下で控えていたのだろう。

 ワッツは二人を法廷に入れると、一度廊下へ何事か声をかけてから扉を閉じた。


 正規軍のワッツがその役を担ったことをどう思ったのか、再び法廷内が木々の梢を揺らしたようにさざめいた。

 入廷した二人はさざめきの中、緊張気味に関係者席の間の狭い階段を降り、法廷の最下段に立つと、広い法廷内を見回した。


 ロットバルトは裁判長へ視線を向けた。裁判長は二人へ、机の向こうから証人席へ入るよう促す。


「この場で嘘偽りなく証言すると宣誓していただけるのであれば、まず宣誓と、そしてお名前を」


 二人は顔を見交わし、右側に立っていた男がロットバルトと入れ違うように、証人台へ立った。

 穏やかで理知的な面差しは五十代後半だろう。白髪まじりの灰色の髪を清潔感を保って整えている。


「真実を述べることを宣誓します。私は、ロカの街で診療所を営むジュード・セイモアと申します」

「ではセイモア医師、証言をお願いします」


 セイモアは緊張の面持ちで、一度喉の奥に唾を飲み込んだ。イリヤへ向けた目が合い、「無事で――」と一言呟き、口を噤んだ。

 その穏やかな面に複雑な表情を浮かべる。


「――私は、イリヤ・ハインツの妻、ラナエ・ハインツを診察しておりました。もちろん、イリヤ・ハインツ――彼とも何度も話をしております。彼の妻ラナエは、身重でしたので」


 イリヤをじっと見つめた瞳には、悲しそうな色が浮かぶ。


「ですが私が彼女を診察できたのは、三月まで――まだお腹の子が五か月に満たない頃まででした」

「その後、診察できなかったのは何故ですか?」


 裁判長の右隣の裁判官が尋ねる。セイモア医師はやや口籠った。


「月に一度診察をしていたのですが、その彼女が――いえ、二人が、ロカの街の近郊にあった果樹園から、姿を消してしまったからです。その、彼等は林檎園を営み暮らしていました。営みと言っても、市場に出荷するほどではない、小さなものなのですが、とても穏やかで二人の人柄を映し出していたようで」

「裁判長、姿を消した(くだり)を、もう少し詳しくお聞きしたい」


 質問の許可を求めて手を挙げた主席司法官を、裁判長は首を振って止めた。


「まずは証人の話をもう少し伺う」


 主席司法官が手を下ろし、椅子の上で姿勢を直す。


「セイモア医師、続けてください」

「ええ、ええその――」セイモアは息を吐いた。

「その、二人はとても慎ましく暮らしていました。ラナエは定期的に私のところへ来ていて、ただ果樹園から街までは歩いて二刻の距離があったものですから、馬や馬車などの振動もお腹の子に差し障る頃合いでしたので、街へ越してきてはどうかと、そう言っていたのです。その、彼等が街では暮らさないと、ヴェルナー侯爵様と約束していたのは、知らなかったもので」


 そういう約束があったのかを裁判長がロットバルトへ尋ね、ロットバルトが頷く。

 セイモアが促され、続ける。


「三月の中旬に診察をした折にもそう言いました。家が心配なら家は夫に任せ、彼女一人でも街で暮らしてはどうかと。ただ、やはり彼女は、夫のそばにいたいからと言って――それで、私は必要が有れば往診に行くと言いました」

「往診には行ったのですか? 貴方は彼等の果樹園を実際見たことがありましたか?」

「いえ、果樹園に行ったことはありませんでした」

「裁判長、発言を許可願います」

「許可します」


 主席司法官は立ち上がり、セイモアへ鋭く視線を向けた。


「セイモア医師は先ほど、果樹園が夫妻の人柄を映し出していたようだと仰いましたが、一度も果樹園には行っていないというのならば、印象に基づく思い込みに近い内容であると考えます」

「私は――」


 セイモアは初め怯んだが、それでも明瞭な口調で続けた。


「バーチから……友人から聞いていたのです。バーチは領事館に勤めていて、ハインツ夫妻の世話をしていました。彼が良くそう話していました」


 ロットバルトが証人席で軽く手を上げる。


「裁判長、発言の許可を求めます」


 許可する、という承認を受け、ロットバルトは証人台のセイモアと傍らのカスパールを見た。


「セイモア医師、また、カスパール領事もですが、彼等は尋問を受けるためにここへ立って頂いたのではありません。あくまで彼等が見知っていることを語って頂く為に、ヴェルナーが依頼し王都へお越し頂きました。その言葉の中に感覚的な話が混じることも認めて頂きたいのです。その上で、証言内容の求め方については法廷に委ねたいと考えます」


 証言がやや冗長になっているのは確かで、それは聞いている方も感じているだろう。

 裁判長は、「証人の発言は、本法廷審理案件の趣旨に沿っている限り、一定の自由を認めます」と宣言し、再び証言台のセイモアへ顔を向けた。


「私から質問を。先ほど貴方は夫妻が果樹園から姿を消したと仰いましたが、それについて簡潔に説明して頂けますか」


 セイモアは姿勢を改めた。


「失踪したのです」


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