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第6章『空と汀(みぎわ)』(41)


 クライフはぼんやりと明るくなった視界に、二、三度瞬きを重ねた。

 最初に頭に浮かんだのは、戦場に音が無いということだった。吹き荒れる風、隊士達の声や叫び、法術士達の詠唱。大蠍との戦いの中の、剣が甲殻を叩き、肉を裂く音。


(そう、言えば――)


 周囲を囲んだ、大蠍の群れ――あれを、不意に現われた数人が、大半を斬った。

 その姿は鮮烈だった。特に、背の高い一人の女。女はただ歩いているだけ、まるでその周りの大蠍が自ら崩れて行くのだと、そんな錯覚さえ覚えるほど流れるような自然な動作で、切り裂く。

 右腕の剣が、やや赤い光を帯びていた。


(剣士……)


 そう、剣士だ。

 それから、背後で光が瞬いた。

 風竜が吐く風の白い光と、その風を斬り裂く青白い、剣の光。

 レオアリスの剣光。


 一瞬後、(つぶて)のような風が叩き付けた。

 はっとして身を起こす。


「――フレイザー!」


 辺りを見回し、瞬きの間、自分が今どこにいるか迷い、すぐに認識した。近衛師団士官棟東棟の医務室だ。寝台が三つ、横並びに並んでいてクライフは一番右端に寝ていた。

 扉がバタンと閉まり、誰か――多分医務官が飛び出して行ったかと思うと、それほどの間も無く中庭の回廊を駆けてくる足音が聞こえた。


 再び扉が、閉まった時よりも勢いよく開く。

 飛び込んで来たフレイザーは扉口で一度立ち止まり、それから張り詰めていた面が、氷が溶けるように緩んだ。


「目が、覚めて――」


 そう言って唇を結び、クライフの寝ている寝台へ近寄る。

 寝台の傍らに立ったフレイザーの姿を見て、クライフは詰めていた息を吐いた。負傷の跡はあちこちに見えるが、それでも無事だ。


「フレイザー、無事か……良かった――いってえ!」


 フレイザーが右の耳たぶを摘んだからだ。


「ちょ」


 フレイザーはぐいと顔を突きつけ、それから呼吸を抑えた。叱責を抑えたのだ、たぶん。


(ひええ、俺また何かやったか――? やっちゃった?!)


 でも、フレイザーの顔がすぐ目の前にあるのはどぎまぎする。いや、それよりもやっぱりフレイザーが無事なのが嬉しい。ついでに、耳たぶとか摘まれるのも、何というか……


「へへ……いてて!」

「無事かじゃないわよ、何をへらへらと。無事で良かったは貴方の方でしょ! 法術を受けなかったら全治一か月だって状態よ」


 そう言って、どことなく気まずそうにクライフから視線を逸らした。耳たぶを摘んでいた手も離し、その両手をさするように組む。


「私を庇う前にやることがあるでしょ、私達には。隊の指揮が優先なんだから」

「悪ィ、つい」

「ついじゃ――」


 フレイザーは口をつぐみ、一度息を吸って、深々と吐いた。


「貴方、治癒を受けても丸一日眠ってたのよ。本当に、目が覚めて良かった」


 丸一日という言葉にクライフは目を丸くしたが、肩といい背中といい、腕や足といい、あちこちに包帯が巻かれ、動かすとあちこち痛い。


「一日か。じゃ、今日は十……」

「十一日」


 まじか、と言ってからクライフは跳ねるように身体を起こした。途端に全身を痛みが覆い、寝台の上で呻く。フレイザーが呆れた様子で背中を撫でてくれた。嬉しい。


「何やってるの、もう」

「悪ィ……、上将は?」

「まだ眠ってらっしゃるわ」

「まだ? って、でももう」


 あれから丸一日経っていると言ったじゃないかと、驚きを隠せない。今も眠っているなんて、それほど酷い怪我を負ったのか。


「今、どこに」

「王城よ」

「王城――えっ」


 まさかまたあの王城の地下ではと考え、それはほんの少し不安を覚えさせた。フレイザーも同じ考えがあったのだろう、すぐ首を振った。


「地下じゃなくて、ロットバルトの――ヴェルナー侯爵家のところ。ファルシオン殿下が居城でと仰ったけど、それはでいくら何でもできないし。アルジマールが法術院でって主張したみたいだけど副将が断固反対されて、ヴェルナーでって」

「すげぇ見える」


 その時のやり取りが。アルジマールの発言辺りでグランスレイの顔が強張りロットバルトが眉根を押さえる様が見える。


「まあ、ロットバルトんとこなら安心だな」


 対アルジマール的に。

 いや、治療的に。

 それでもフレイザーが浮かない顔をした。遠慮がちに呟く。


「上将は、あれ以来回復力が落ちてる気がする」


 フレイザーが言っているのは半年間の眠りのことだ。半年前片方の剣が砕け、それ以来確かに、クライフの目から見てもレオアリスは本調子にはやはり見えない。


「……心配しすぎんなよ、剣が戻りゃ体調だって良くなるって」


 あえて明るくそう言うと、フレイザーも気を取り直して笑ってくれた。


「そうね。ザインさんから剣を戻すための薬は貰ってるみたいだし。剣が戻れば元どおりよね」


 頷き、やや身を屈めクライフの肩に手を置く。


「クライフもあと一日くらいしっかり休んで。今は王城も一段落してるし」

「そうする」


 肩に置かれた手に、手を重ねたりなんかしてもいいものかどうか激しく葛藤しているクライフの心中をよそに、フレイザーは身体を起こした。


「あっ」

「明日、また十四侯の正式な協議があるわ。そこでファルシオン殿下とルベル・カリマの長、カラヴィアス殿との会談も予定されてる――どうかした?」

「や、何でも」

「そう? じゃ私は戻るわ。貴方はゆっくり身体をやすめて。そばにいてあげたいけど、今、副将が上将のところに行かれてるから、第一大隊も人がいないし」


 そう言うと、フレイザーは翡翠の瞳を一度彷徨わせ、右手を胸の下辺りで左手で包んだ。

 中庭への扉へ歩き、足を止める。

 ほんの僅かな間、まだ胸の下に包んでいた両手に視線を落とし、それから振り返った。


「クライフ。さっきはああ言ったけど、でも本当は、すごく感謝してる」

「――いやぁ! 気にすんなって、あ、当たり前のことしただけだし……!」

「だから、あれが当たり前じゃ駄目だって言って――」


 一度口をつぐみ、その口元を綻ばせる。


「ありがとう」


 そう言うと、さっと頬を赤らめ、中庭への回廊へ出た。


「――」


 閉じた扉を未練がましく見ている内にも、じわりと、頬が緩んでくる。


「へへ……」


 嬉しさの余り手足を投げ出すようにして寝台に寝転がり、途端に全身に響いた痛みに暫く悶絶した。








「ファルシオン殿下」


 ファルシオンは握りしめていた手を、そっと解いた。窓の外は夜の帳がすっかりと落ち、室内はろうそくの揺らめく明かりに揺れている。後ろに控えていたハンプトンが一歩近寄り、もう居城に戻る時間だと、そう告げている。


「わかった」


 もう一度、ファルシオンは寝台に横たわっているレオアリスを見つめた。

 まだ血の気がないが、アルジマールの見立てだと今は回復のために深く眠っているだけの状態のようだ。明日、目が覚めれば十四侯の協議の場には出られるだろうと。


(むりは、しなくていいんだ)


 でも目が覚めれば嬉しい。安心できる。一時の事だと。


(しなくてもいいのに)


「殿下――」


 もう一度ハンプトンに促され、ファルシオンは寝台の傍に置かれていた椅子から滑り降りた。四半刻もない面会に、ハンプトンは憂い顔だが、それでも余り長く留まるのは他の兵や将校達のことを考えても、いいことではない。それはファルシオンも判っている。


 ハンプトンは寝室の扉を開き、ファルシオンを隣室へと(いざな)った。隣室は居間で、この部屋の主であるロットバルトが目を落としていた書類を置いて立ち上がり、ハンプトンへと視線を向けた。

 心得て頷き、ハンプトンは壁際に立った。

 ロットバルトがファルシオンに近付き、片膝をつく。


「殿下。明日の協議の場で、西海穏健派の件と、ボードヴィルの件、もう一歩踏み込んで動かす必要があります」


 こくりと、ファルシオンは頷いた。

 ファルシオンがこの王城のヴェルナーの部屋を訪ねる理由が、レオアリスの見舞いという誰の目にも納得できるものであることは、もう一つの表立たせることのできない理由を隠してもくれる。

 それでも、兄上は、とそう言おうとして、この場ですらファルシオンはその言葉を飲み込んだ。


「大公も、そして老公も同じ方向でお考えです。ご安心ください」

「うん」


 もう一度頷き、それからファルシオンは小さく首を傾けた。


「レオアリスを、よろしくね。目が覚めたら教えてね」


 それは明確に口にできる。

 ロットバルトもいつも通りの笑みをファルシオンへ返した。




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