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第6章『空と汀(みぎわ)』(35)

 

 アルジマールは伏せていた虹色の瞳を上げた。空はまだ太陽が中天に昇り切るには早く、水色に澄んで明るい光に満ち、ゆるく風を吹き渡らせている。


「追跡が、できなくなった」

「え?」


 瞳を瞬かせたアスタロトへ、アルジマールはいったん言葉を探し、言い換えた。けれどその言葉を改めて聞くまでもなく、アルジマールが誰を追っていたか、その意味が何を示しているか、アスタロトには理解できていた。


「ルシファーの気配が消えたよ」


 そう言う前に。

 鼓動が胸の中で重い。

 見失ったわけではなく――消えた。


 束の間、湧き起こった色を定め難い感情が心を揺さぶる。

 消えてしまった。


 激しい後悔と、悲しみと、自分の選択と行動の結果だという想いと。

 そして、彼女が望む通りに終わることができただろうか、という願いと――


「どこで……」

「イスの、どこかだ。正確には判らないけど、でも」


 もう気配は無い。

 アルジマールは足元に敷いていた法陣円の光を消した。枯れ草の上に染み込むように消えていくその光を追いかけながら、アスタロトは叩き続ける鼓動の奥から、声を押し出した。


「なら……なら、レオアリスの助けを――風竜と、戦ってるはずだ」

「君は治癒を受けなくちゃ」

「でも」


 アルジマールは静かに、だが断固として首を振った。アスタロト自身の身体を指で示す。


「君はほとんど傷が癒えていない。そんなにもボロボロになって、今だって痛みが治っていないはずだよ」

「でも!」

「彼は大丈夫」


 言い切った、その言葉は適当に出されたものとは思えない。その理由を尋ねようとした時、歩み寄ってきたタウゼンがアスタロト達の前で踵を鳴らし敬礼した。


「公」


 厳しく、だが慎重な面持ちだ。


「ワッツが戻りました。それから」


 アスタロトはその言葉を聞き、アルケサスへと向きたがる意識を抑え、タウゼンが示した方へ向き直った。


()を伴っております。投降したと」

「――」


 初めて見る。

 ミオスティリヤ――ボードヴィルに王太子旗を掲げた、その。


(シーリィア妃殿下の……)


 王都は認めていないが、それは真実なのだと、アスタロトはもう知っていた。

 丘を登って来たワッツが足を止めた後も、彼の横を過ぎ、そしてアスタロトのやや手前で立ち止まった。大柄なワッツの斜め後ろを歩いていたせいで小柄に見えていたが、身長は五尺ちょっとのアスタロトよりも頭半分ほど高い。

 歳は確か十九歳、アスタロト達より一つ歳上だ。

 こうして向き合うと、その面差しがよくわかる。


「――イリヤ・ハインツと申します。ボードヴィルにおいてはミオスティリヤを名乗り、そして王家――国へ、掲げるべきではない旗を掲げました。それについては王都で裁きを受ける所存です」


 白に近い淡い銀の髪、二つの瞳は右が金、左は温かな春を思わせる緑。

 穏やかなその面差しは確かに、アスタロトが間近に目にしていた存在と似ていた。或いは、彼等が王都に護るあの幼い面差しと。


「ですが今は、我が投降をお受け頂き、ボードヴィルの兵と人々について深慮を頂けるようお願い致します。これもまた、私が口にすべきではないのかもしれませんが」


 控え目なその口調は王のそれには似ていない。

 けれど。


(レオアリスは――)


 そう思った。

 どう、思うのだろう。イリヤを見て。

 そこに残る王の面影を見て。


 イリヤは真っ直ぐに立ち、アスタロトの言葉を待っている。


「――貴方の想いは、承知した。民と兵はまず私が預かる」


 吐き出す息と共にそう言った。


「王都で、王太子ファルシオン殿下の召命により、十四侯の協議が行われる。貴方の処遇はそこで決まるだろう。今は身体を憩められるといい」








 寂寞とした空に、低く深く、大気を鳴らして響く。

 嘆きの声。


「上将!」


 ようやく身を起こしたレオアリスの横へ、飛竜が降りる。フレイザーが飛竜の背から滑り降り、砂に足を取られながらもレオアリスへ駆け寄った。


「ご無事ですか! ああ――」


 軍服に刻まれた裂傷に、呟きを口の中に押し込む。


「治癒を――! それから、盾も」


 まだ飛竜の上にいる法術士へそう声をかけ、フレイザーはレオアリスの傍へ膝をついた。背に当てようとした手は、軍服に走る裂傷とこびり付いた血の跡に握り込まれる。


「動けますか」

「大丈夫だ。見た目ほどじゃない。法術院の盾と、それから、院長の護符に助けられた」


 そう返す間にもレオアリスの身体を法術士の施す治癒の光が覆っている。

 レオアリスは風竜を見上げ、フレイザーの前へ腕を伸べた。フレイザーもまた顔を上げる。

 長い尾を引いていた風竜の咆哮が、空へ静かに吸い込まれて行く。


 レオアリスは剣を握る手に力を込めた。

 骸の竜の、空に刻まれた彫像のような姿と、落ちた静寂――

 全身を、戦慄が掴む。


「フレイザー、後衛まで退け」


 砂の落ちかかる砂丘に足をかける。


「――それよりも」

「上将?」

「アルケサスから、師団と法術士を退避させる」


 フレイザーはできないと、即座に首を振った。


「盾が必要です」

()()()。フレイザー」


 尚もフレイザーは違を唱えようとレオアリスの横顔を見つめ、その視線が風竜へ、片時も逸らさず据えられているのを見て、唇を引き結んだ。

 命令だと、レオアリスがその言葉を使ったことはこれまでにない。

 左腕を胸に当て、同時に踵を返して乗騎へと駆け戻る。


 空へフレイザーの乗騎が上がるのを確認し、レオアリスは先ほどから足元の砂を通して伝わる微かな振動に、注意を向けた。

 空の風竜との共鳴。


 それから。


 風竜が天空へ伸べていた長い首を戻す。


『――我が養い子は、消えてしまった』


(アスタロト――?)


 アスタロトが、ルシファーと対峙した結果か。

 だがそれよりも、意識は風竜へ吸い寄せられる。その骸の身体を包む、大気。


『終らない生を煩わしいと思っていながら、有限の死がこうも悲しいとは――』


 踏み出しかけた足が止まる。

 強烈な風が叩きつけた為だ。

 風竜の周囲に砂塵が湧き、そのまま複数の竜巻が砂丘から空へと立ち上がる。

 空に、巨大な雲が湧き上がり、

 渦を巻き、地上のものを吸い上げ始める。


 砂の上に数十もの瘤が盛り上がり、砂を溢し黒い塊に変わる。

 大蠍の群れ。ざっと五十匹が目に映る。

 一斉に、レオアリスへと砂の上を突進した。


 レオアリスは右足を踏み込み、同時に剣を薙いだ。

 砂塵が吹き上がり、突進した右半面の大蠍、およそ二十匹が、瞬時に断たれ砂に塗れて倒れる。

 踏み込んだ右足を軸に身を返し、左半面の大蠍の群れへ剣を薙ぎ、断つ。


 更にもう一閃、右膝を撓めて反動を作り、薙いだ剣を砂丘に引き摺るように、後方の風竜へ、跳ね上げた。

 剣光が奔る。

 同時に吹き下ろした風竜の風とぶつかり、大気を唸らせ、互いに拡散した。


 迫り上がる鳩尾の痛みを噛み殺し、レオアリスは跳ね上げた剣を、振り下ろした。

 迸った剣光が風竜の喉を断つ。

 狙いは頭蓋だった。


 風の唸りと共に、視界の外から尾の先端が叩き付ける。

 再び踏み込み、叩き付ける尾へ剣を薙いだ。

 剣と尾が互いを弾く。


 尾が砕け、だがレオアリスの身体は数十間後方へ飛ばされた。

 体勢を立て直し、砂丘に降りる。


「ハヤテ――」


 飛竜を呼ぼうとして、ギクリと息を呑んだ。

 風竜の喉が、再び細い枝を伸ばし再生しながら――光を帯びている。

 レオアリスの後方には、近衛師団と、法術士の陣がある。まだ大蠍の群れと交戦し、転位陣らしき光陣が光を発し始めたところだ。


 風竜の喉から白い光が膨れ上がる。


「転位を――」


 間に合わない。

 レオアリスは風竜に向き直った。

 剣へ意識を集中し、全身を巡らせる。爪先から、鳩尾、そして剣を握る両手の指先まで、全て。


 鳩尾の痛みが共に神経へ流れてくるようだ。

 けれど全て掻き集めなくては、風竜の息を殺せない。

 あの奔流を受ければ、近衛師団千名、そして百名の術師達は、風に切り裂かれる。


 レオアリスの身体が青白い陽炎を纏い、噴き上がる。

 奥歯を噛み締め、一歩踏み込み、右下から斜めに、剣を跳ね上げた。


 風竜の喉から迸った白光が大気を揺らし、迸る。

 レオアリスの剣光が先に距離を制した。風竜の顎から迸る白光とぶつかり、鬩ぎ合う。大気が激しい風を受けた硝子戸のように震えた。







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