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第6章『空と汀(みぎわ)』(34)

 


『御方――』


 思いがけない姿にレイラジェは膝下を失った脚の激痛すら忘れ、風を身に纏うその存在を見つめた。

 何故今ここにいるのか――いや、それよりも、その姿が。


 衣は大量の血が染み込み、それが水に洗われた跡が見える。背に覗く無惨な傷跡はちょうど左胸の位置だ。白い肌は更に血の気が失せ、透き通るように色を失っている。


『一体、その傷は』

『私の心配をしている状況? 思考すべきことを間違えてはいけない』


 白い頬を斜めに覗かせ、淡い、色の失せかけた暁の瞳が蹲るレイラジェに落ちる。


『あなたは、あなたの居るべき場所に戻り、成すべきことをなさい』

『御――』

『今更、邪魔をするのかね』


 ナジャルの声が忍び入り、レイラジェの意識に苦痛が戻る。

 ルシファーの白い面はナジャルへ向けられ、レイラジェからは見えなくなった。


『そうよ』


 細い手が持ち上がり、そこに風を纏わせる。手のひらが、レイラジェへと動いた。


『待――』


 レイラジェが手を伸ばした先には、既にルシファーの姿も、ナジャルの姿も無かった。


『御方!』


 失った左脚も構わず躙り、突き上がる苦痛に全身が痺れる。


『御……ッ』

『閣下!?』


 耳を捉えたのは良く知った部下の声だ。振り返った双眸が駆け寄って来るミュイルを捉える。



 ――あなたは、あなたの居るべき場所に戻って――



『ミュイル』


 今レイラジェがいるのはファロスファレナだ。イスではない。既に。

 感情を噛み殺す。

 ミュイルの肩越しに見える、傷付いたファロスファレナと絡み付くギヨールの姿。漂う瓦礫と兵達の亡骸。


『閣下、一体――そのお身体は!』


 傍らに膝をつき、ミュイルはレイラジェの左脚に顔を歪めた。


『大事無い』


 片手を上げて応え、レイラジェはほんの瞬きの間イスのあるだろう東の彼方へと想いを巡らせ――、自らの忸怩たる想いを喉の奥に押し戻した。


(何と、私は、愚かなのか)


 かつて皇太子の理念を支えることもできず、今、その想い人を守ることもできず。

 自らの存在は何と小さいことか。


 ならば、今できることを為す。



 ――あなたの成すべきことを



 息を吐き視線を戻す。

 周囲の状況を視界に収め、レイラジェは身を起こした。


 フォルカロルが宣言した通り、ファロスファレナは第一軍の攻撃を受けている。そこかしこに攻撃の爪痕が刻まれ、今もギヨールを押し返さんと戦いが続いていた。だが、明らかに劣勢だ。


『ミュイル、現状を報告せよ』

『――はっ!』


 手早く、端的な報告に耳を傾けながら、レイラジェはその視線を、今度はギヨールの更に向こうを見透かすように向けた。進行方向に広がる濃い、闇に近い青。

 この海域の下に海溝が横たわり、ファロスファレナはごく緩やかにではあるが、そこへ向かって沈み始めている。


『損害の程度はどうだ』

『兵同士の戦いはほぼ拮抗、しかし振動波を二度喰らっています。一度は密着状態からであり、これが外殻の二割に損傷を及ぼしました。あと二度――あるいは一度、振動波を喰らえば航行に問題が生じかねません。そうなればここで海溝に沈む事になります』


 この下の海溝はおよそ最深部で四海里(約8Km)の深さを持つ。

 ファロスファレナが潜航できる深度はおよそ三海里まで、それ以上は水圧により外郭に亀裂を生じ、航行は不可能となる。そうなれば更に海溝の底に沈み、いずれ水圧に押し潰される。

 その想定もあくまで、ファロスファレナが通常の状態を保っている前提でのものだ。


『ギヨールは我らを沈めることを躊躇わないでしょう』


 ミュイルのそれは問い掛けだ。

 レイラジェは左脚の膝下を失った状態のまま、海水に身をもたせかけるように立ち上がった。ミュイルが手を伸ばしかけ、戻す。


『ギヨールを引き剥がす。潜航させよ。海溝へ入る』


 ミュイルはレイラジェを一旦見つめ、レイラジェの指示を予期していた上で、覚悟を定め、頷いた。


『は』


 水圧への耐久力を考えれば、ギヨールの四倍近い大きさのファロスファレナが有利だ。水深三海里まで潜る前にギヨールは水圧に耐え切れず、触腕を離す。

 だが、振動波によって受けた亀裂がどう影響するか。


 ミュイルの指示が各方面へ走り、喧騒が一瞬、ぴんと張り詰めた。それから慌ただしく動き始める。


『住民達の避難を確認!』

『第三、第四隊は上海域に待機、展開、ギヨールの退路遮断に努めよ』

『第一、第二隊は移乗を防御しつつ、順次内部へ退避。多少ギヨール兵を連れ込んでも構わん』




 足元が何度目か揺れ、ヴィルトールは繰り出される槍を躱して斬り上げ、それから周囲を見回した。

 ファロスファレナの進行方向の闇が濃くなっている。


「何が」

「ヴィルトール殿! 戻れ!」


 掛けられた声にヴィルトールは足元を蹴って海中を跳び、初めにいた場所――ミュイルのいる場所へ戻った。

 すぐにレイラジェの姿に気付く。


「レイラジェ将軍」

「ヴィルトール殿、協力に感謝する」


 その脚は、と問いかけ、ヴィルトールは言葉を飲み込んだ。


「何が始まるのですか」

「潜航してあの鬱陶しい触腕を剥がす。貴殿は中へ。外殻上での戦闘はもう程なく困難になる」

「――」


 前方へ広がる濃い闇へ、ヴィルトールは視線を落とした。ミュイルがヴィルトールの肩を叩く。


「心配は無い。水圧が掛かるが、面積がでかい我々が有利だ。ギヨールが先に根を上げる」


 ただし、とミュイルは肩を竦めた。


「二度振動波を喰らってるファロスファレナの外郭が、どこまで保ってくれるか――賭けだがな」





 未だ八本の触腕が締め付け、外殻上での戦いが続く中、第三、第四隊が次第に距離を取り上海域に展開していく。

 ファロスファレナは長大な身で緩やかに、だが確実に速度を上げ、下に横たわる海溝へと沈み始めた。


 レイラジェは失った左脚の手当てを終え、ギヨールの触腕が捕らえる自らの軍都をゆっくりと見回した。

 あとは運次第――いや、運を掴む。

 この海で、あの理念を成す為に。



 一つだけ、悔やむ事がある。


(あの方が万全ならば、唯一――)


 その力はナジャルに抗し得ただろう、と。









 手を伸べた先の空白を、束の間見つめる。

 忍び寄る嗤いを含んだ声へ、色の失せかけている暁の瞳を向けた。

 ナジャルの銀の双眸が血の色を湛え笑っている。


『今更、何を考えているのかね? そのようなことをしても、そなたにはもう何の利もないであろうに』


 ルシファーは手を下ろし、ゆっくりと身体の向きを変えた。

 貫かれた胸も焼けた肌も、痛みすらもはや感じていない。身体がどこにも無いような、そんな感覚だ。


『――別に。ただ、最後まで嘘だけで終わるのも、哀れだと思っただけ』


 彼に伝えた正義、彼の掲げた正義を、最後くらい真実にするのもいいだろう。

 そして自分が――自分こそが、これまで何も為して来なかった。そのことが。


『フォルカロル。あなたは何を選ぶの?』


 思い掛けず視線を向けられ、フォルカロルはもう身体一つ分、じりじりと尻を滑らせ後退った。その目はルシファーだけではなくナジャルも気にしている。


『な、何をとは』


 声を出すことを恐れるように、喉に引っかからせながら押し出す。ルシファーは首をやや傾けた。その行為も感覚を伴わない。


『海皇はただの傀儡でしかない。今玉座に座っているのはそこの大蛇が喰らって吐き出しただけの、虚ろな人形――あなた達は半年間、傀儡に膝をついてきたのよ』

『な――』


 フォルカロルの(まなこ)が落ち着く場所を探して忙しく彷徨い、だが決してナジャルと海皇へは向けられなかった。


『何を言っている、貴様、ふ、不敬な――貴様の言など』


 ルシファーは口元に憐憫を含んだ笑みを刷いた。


『知っていたのね。いつから?』

『戯言だ! わ、私は』

『あなたがそれでも従うのは、そのほうが都合がいいからでしょうね。でも、あなたの思惑などナジャルは慮ったりしないわ。いずれあなたも喰らう』


 フォルカロルがびくりと身体を揺らす。


『気が向き、ほんの少し腹が空いたら』

『酷い言い様だ』


 ナジャルが笑う。

 ルシファーは視線をナジャルへ据えた。


『その姿。悪趣味ね、ナジャル。あなたは一つひとつ、全てが悪趣味だわ』


 ナジャルの姿は今、三つに揺らいでいる。

 普段よく取る人の形。

 玉座に座る海皇と同じ形。

 もう一つ――


 いや、その二つは、ほとんど同じ()()――、同じ髪、同じ瞳、同じ顔。

 海皇と、ルシファーの良く知る、王と。


 ナジャルがゆったりと、その両手を広げて見せる。


『初めはどちらも同じだったのだ。もう一度一つになれば良い。この方が争うことなく国を統治できよう?

 海皇は地上の統治を望んでいたのだからな』


 白い、透ける白い頬に微かに血の気が差す。


『――悪趣味ね』


 もう一度そう言う。


『そなたほどではないよ。自らを断罪させるために、国一つ巻き込んだそなたほどではな』

『――』

『そして結局は、アレウスの王はそなたを一顧だにしなかった。何と無情なことか。同情を禁じ得ぬ。地上の王として、そしてそなたを拾い上げた者として、責任があったというのになぁ』

『――そう、思っていたわ』


 地と海を隔てた王として、彼の意志を是としてほしかった。彼の生と意志に意味を与えて欲しかった。王にはそれができたのだから。

 それがもう叶わないのならば、道を外した自分を、断罪して欲しかった。


『責任?』


 唇が笑みを浮かべる。

 自分と向き合った、少女の顔が思い出される。まっすぐに自分を見つめる瞳。美しく踊る炎。


『そんなものは無いのよ』


 そう、王にルシファーに対する責任など、そんなものは無い。自分が勝手に求め、負わせ、自分自身から逃げていただけ。

 自分が成すべきで、為さなかっただけだ。


『自らの無知を知ることは良いことだ――』


 ナジャルは薄く、凍る刃のように笑った。


『もう一つ、そなたも知らなかったことを教えてやろう』


 這い寄る囁き。

 ナジャルの姿が揺らぐ。それまで纏っていた輪郭が代わり、別の姿を(かたど)る。


 銀の髪。穏やかな、理知的な面差し。

 親愛の込められた眼差しと微笑み。


 ルシファーは暁の瞳を見開き、凍り付かせた。


「あ……」


 四百年――記憶の彼方に隠れ、喪ったその姿。

 唇を震わせ、ルシファーは数歩、そこに現れた青年へ、よろめき進んだ。


「――」


 微かな音が、その名を綴る。


『皇太子の亡骸も我が喰らった』


 伸ばそうとした両手が半ばで止まる。

 青年の姿は既になく、そこにナジャルが闇を纏った身体を揺らすだけだ。


 闇の口元が裂け、血の如き三日月を浮かべる。


『喜ぶがいい。そなたら二人、我が腹の中で、再び巡り会えるやも知れん』


 白い手が微かに震えて持ち上がり、喉元を掴む。


「――吐き気がするわ」


 ナジャルの笑みが闇の色に染まる。

 身を揺すり、輪郭がじわりと周囲の海水に溶ける。変容する。

 本来の、途方もない蛇身へと――


 その動きが、ぴたりと止まった。

 闇が滲んだまま、人の形を保ったまま。


 白い手がナジャルへと伸びている。


『お前は私を嘲り、ただ喰らわれるだけの哀れな泡沫だと思っているかもしれないけれど』


 滲んだ闇は再び人の姿に固まった。ナジャルが自らの周囲を見回す。


『これは――』


 身を揺する。その動きは瓶の中に押し込められているかのようだ。


『今の私でもこのくらいはできるのよ』


 ナジャルの周囲には水は無かった。代わりにあるのは三つの膜。

 重ねられた空気の層、三重の球体。

 血の色の混じった銀色の瞳が、驚きを宿し三重の膜を通して白い姿に向けられる。


 球体内の空気が揺れる。

 無数の風の刃が渦巻き、ナジャルの表皮を一瞬にして切り刻んだ。赤い血が球体内に散り、染める。

 だがそれだけだ。風の刃は表皮を裂きはしても、骨に達するには至らない。


 ナジャルは流れる血も構わず、労わるように笑みを深めた。


『哀れな。もうそなたは力を使い果たしているのだ。これ以上は残る僅かな命が尽きるのを早めるのみ――』

『驚いたでしょう? あなたは』

『――』

『その球体――何の為のものか、あなたは想像し、それを恐れた。そして安堵した――でも、初めの想像通りよ』


 ナジャルの纏う闇が不安定に揺らぐ。


『限り無く――、その二つ目の球体内の、空気を抜き取る。そうすると知っている? 内側の、あなたのいる空間は、どうなるか』

『待て――』


 伸ばしたナジャルの腕の、風の刃に刻まれた全ての傷から血が噴き上がる。()()()()()()()()

 三重の球体の、二つ目の内部が吸い出したナジャルの血で瞬く間に赤く染まり、中心のナジャルの姿を覆い隠した。


 ルシファーはよろめき、だがそれを堪えて伸ばした腕を球体へ、更に掲げた。

 視界が霞む。意識も。


『まだ……もう、一つ――』


 最後の仕事だ。

 ナジャルを包む球体内の、空気を抜く。全て。

 真空になった空間は、謁見の間に満ちる――この海を満たす海水の圧力に、一瞬にして圧し潰される。


『待て――! そなたに、皇太子を返してやろう。喪った時間をこの先は共に生きると良い』


 ぴくりと、白い手が揺れ――、口元が笑みを浮かべる。


『お断りだわ――あなたの、傀儡なんて――』

『待――』


 伸ばした右手が、その指をゆっくりと握り込んでいく。

 ナジャルを包む球体がひしゃげる。



 視界が、霞み、もうナジャルの姿も、謁見の間の形も、見えなかった。

 ただ青い、どこまでも青く広がる世界。

 揺らぎ、拡散していく美しい光。



 もう一度――



 唇が、微かに動く。



 もう一度、その瞳にわたしを映してほしかった。


 声を――






 這い寄る笑いがどこかで響いた。



 ルシファーは手を伸ばしたまま、淡い夜明け色の瞳を、その目蓋の下に隠した。

 細い姿が、揺らぎ、膝を落とす。

 そのまま、床の上にゆっくりと、力を失った身体が倒れた。



 謁見の間には静寂が満ちた。

 生命の一つも、無いように。



 柱に縋るように身を縮め見つめていたフォルカロルは、しばらく息を潜めていたが、やがて乾いた笑いを洩らした。


『は――はは……』


 膝でにじり、それから半腰でよろめきつつ、倒れた細い身体に近寄る。

 見下ろしたそれは、既に生命の欠片すら感じさせない。

 背後の、赤黒くひしゃげた物体を振り返る。


『はは――、何だ、呆気ない――』


 ナジャルはただの血肉の塊になった。

 高慢なこの女は力尽きて死んだ。

 ちらりと玉座へ視線を向ける。

 海皇は、抜け殻の傀儡に過ぎない――


 フォルカロルは次第に喉を反らし、込み上げる笑いを抑えることなく辺りに響かせた。


『私が、西海の王だ――この私が――! この――』


 倒れた身体を踏みつけようとした足と、哄笑が、ぴたりと止まった。

 背後に闇が立っている。


『貴様は触れるに値せぬ』


 フォルカロルは喘ぎ、首を巡らせた。


『――ナ、ジャル……』


 ひしゃげていた球体は失せている。

 ナジャルの身体は血を流していたが、それは既に癒え始めていた。


『残念だ』


 ナジャルの闇が鎌首をもたげ、床を這い伸びて来る。

 フォルカロルは凍り付いた身体を何とか捩り、その拍子に肩から床に倒れ込んだ。

 闇はフォルカロルに一切構わずその横を抜け、倒れているルシファーの身体へ這い寄り、巻き取った。


『残念だ――そなた一人が、我を滅し得る能力を有していた。初めからその力を我に用いていれば、結果は違ったであろうになぁ』


 もはや命の欠片も宿さない身体は、何の抵抗もなく闇に呑まれていく。


『我が腹の中で、想い人と永劫の時を過ごすと良い』


 身体が沈み、白い面が沈み、白く細い腕が沈み、最後の指先が、闇に沈む。


 全ては闇に呑まれ、後には蹲るフォルカロルの押し殺した息遣いのみが、完全な静寂を妨げていた。









 風竜の長い首が、再び自分に向けられるのが分かった。

 レオアリスは力の完全に失せた身体で、尚も、剣を握っている右手に、力を込めた。


(動、け――)


 今、翼の風であろうとその尾であろうと、この状態で食らえば終わりだ。


「動け……ッ」


 鳩尾から全身へ、身を裂くような痛みが走る。

 苦痛の呻きを零し、レオアリスはようやく上げた手を砂につき、身を起こした。手の下の砂が逃げ、身体が沈む。


「ッ」


 だが、追撃が無い。

 滑り落ちかけた身体を支え、僅かずつ回復していく自分の身体を測りながら、レオアリスは空を見上げた。

 風竜の白い骨組みの巨体が、視界を塞ぐように浮かんでいる。けれど。


「――何だ」


 風竜は動きを止め、長い首を一方へ、向けている。

 風がその身体を吹き抜け、物哀しく、寂寞(せきばく)とした空に音色を奏でた。


 長い首が動く。

 レオアリスへではなく、空へ。

 青い天蓋へ。


 開いた(あぎと)が風の奔流の代わりに、深く低く、長々と大気を鳴らし、()いた。





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