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第6章『空と汀(みぎわ)』(33)

 

 空を埋める砂塵の中、斜めに断ったはずの風竜の身体が、再び持ち上がる。

 駆け上がる銀翼の飛竜の背から、レオアリスは風竜の姿を見下ろし、右手の中の剣の柄を握り込んだ。


 今の一刀で。

 予想通り――いや、予想以上だ。

 風竜を倒し切るのは困難だと思っていた。倒した後、その復活をどの程度の期間抑えられるのか、と――


「そもそも、そんな段階の話じゃない」


 知らず、噛み締めた奥歯に力が篭る。

 風が唸る。

 レオアリスは自分が目にし、耳に捉えている音に、奥歯を更に噛み締めた。


 白い骨の断面から、樹の枝の裂ける音を立て新たな骨の()が伸び、切断され別たれた互いを繋いでいる。


(再生?)


 だとしたら限界はあるか。再生の限界を導けば。


「なら」


 一振りの鋭利さではなく。


「ハヤテ」


 レオアリスは疾駆するハヤテの首を軽く叩き、その背から離れた。およそ十間(約30m)の高さから地上へと落ちる。ハヤテはそのまま直角に空へと駆け昇った。

 銀色の鱗が太陽の光を反射し、縦の直線を空に描く。


 風竜の首が飛竜を追って伸びかけたそこへ、砂丘に降り立ったレオアリスの足元から砂塵を巻き込み青白い剣光が放たれる。風竜が風を纏い、翼を一つ仰いだ。


 剣光が砕ける。風と舞い上がった砂塵が全身に叩き付ける。

 身を包む盾が光を放つ。砂の一粒一粒が重く、見えない板を押し付けられたかのようだ。足が砂丘に沈む。


「ッ」


 レオアリスは重い足を引き抜き踏み込み、剣を薙いだ。周囲の砂塵が失せ、白い骸の一部が見える。

 息を吸い、短く吐いた。

 更にもう一歩、砂丘を踏む。同時に一閃、縦へ――斬り上げた剣を間髪入れずに切り返し、振り切らず更に次を叩き込む。数度。風竜の腹から胸にかけ、断たれた骨が崩れる。


 右上、一瞬砂塵が晴れる。レオアリスは地面を蹴った。砂塵を貫き現われた風竜の首がレオアリスを掠め、砂丘へ突っ込む。


 その衝撃を利用し、更に跳ぶ。地上に虹のように架かる風竜の長い首を足場に、駆け上がる。

 木琴に似た音色。首が空へ、容赦なく跳ね上がった。

 レオアリスの身体が宙へ弾かれる。


 剣を叩き込んだのは十閃近く、再生の速度を超えて砕くつもりだった。

 だが目に映るのは再び形作られて行く白い骨組み。欠片ひとつ残れば、それを風が引き寄せ、失った部分を再生して行く。


「くそ――ッ!」


 蚊にでもなった気分だ。

 レオアリスは宙空で身を捻り回転し、自分を跳ね上げた長い首を、縦に斬り裂いた。

 亀裂が風竜の首の付け根からその頭――後頭部へ走る。頭を砕けば


「!」


 真横から唸りと共に、白い壁の如く、尾が叩き付けられる。

 咄嗟に剣を立てる。

 途方もない衝撃が立てた剣を突き抜け、全身の骨が軋む。盾が三枚、同時に砕けた。


 砂丘に叩き込まれ、そのままどこまでも後方へ砂丘を滑る。摩擦で生じた熱が盾を通じてさえ皮膚に伝わる。砂地に剣を立て、剣が砂を無為に噛み尚も止まらず、レオアリスは唇を引き結び、全身に青白い陽炎を纏った。

 砂煙が立ち昇る。


 ようやく止まった身体を起こし、途端に喉の奥から迫り上がった熱の塊を吐き出した。鮮血が足元の砂を染める。盾を三枚失い、全身骨が軋み、ひどく重い。

 空から落ちる音楽的な音色。風竜の骨組みの身体が鳴らす音――

 上空へ、剣を跳ね上げる。


 直後、空から風の塊が、地を押し潰すほどになだれかかった。

 頭上に掲げた剣が風を切り裂く。それでも身を包む盾が激しく振動し、更に一枚、四枚目の盾が砕けた。

 五枚目の盾が軋み――


 漸く、吹き下ろす風が失せる。

 レオアリスは息を吐き、軍服の内に収めた護符に一瞬意識を向けた。アルジマールが全ての盾が失われた時の為に用意した、自動発動の盾だ。


(まだ)


 喉に残っていた血を吐き出し、北西へ視線を向ける。盾の補充が必要だ。

 正面の風竜、その横に幾つか、光を捉える。

 砂を蹴り、駆ける。


 四歩目で膝を撓め、跳んだ。風竜の側に浮かぶ光――法術が創り上げた足場へ、跳び乗る。先ほど、ハヤテが空へ直角に駆け上がるのを合図に法術院が創り出したものだ。

 定間隔で空へと階段状に並んだ足場を次々駆け上がる。風竜の身体を囲み、螺旋状に空へ。

 風竜がレオアリスを追って首を巡らせ、その翼が再び広がった。


 頂点へ駆け上がったレオアリスは構わず最後の一枚を蹴った。落下の速度を剣に乗せ、大地へ、斬り下ろす。

 甲高い笛のような音と共に剣が空を斬り、広がりかけた翼ごと、風竜の骸の身体を再び斜めに断った。


 ほんの足止めでしかない。けれど盾を補強する程度の時間は稼げる。

 落下する身体を旋回して戻ったハヤテがその背に掬い、北西に浮かぶ盾の法陣へ疾駆した。浮かんでいるのは三枚、四枚目の法陣は今まさに組まれようとしている。


 ハヤテが二枚目の法陣に突っ込んだ時、背後に唸りを感じた。三枚目の法陣へ入る前にハヤテが向きを変え、更に空へと駆け上がる。

 直後、三枚目と、そして組み上がろうとしていた四枚目の法陣を、風の渦が巻き込み、硝子細工のように砕いた。





「上将――!」

 フレイザーは砕かれた空の法陣と、寸でのところで回避し旋回した銀翼の飛竜とに、息を肺の内に篭めた。


「クライフ、盾の補強はこっちから近付く。援護して」


 クライフは一瞬口ごもりかけ、頷いた。


「ああ」


 フレイザーと近衛師団隊士、二十騎の飛竜が空へ上がる。一騎に一人、法術士を同乗させている。二枚の盾を組み上げる為に、それぞれ十名の術士が連動して術式を唱えて行く。

 クライフは地上の術士達へ視線を流した。残り八十名の術師の内、三十名は再び宙へ法陣を描く術式を唱える。二十名はこの場の防御、三十名は空へ駆け上がった飛竜の防御陣構築へ、複数の術式が同時に流れる。


 風竜が長い首を空へ伸ばし、反らした顎を開いた。

 一瞬、耳をつんざく音が広がり、砂丘に吸い込まれるように消える。

 堪らず耳を押さえたクライフは、眉を顰め辺りを見回した。


「――何だ」


 ただ耳をつんざくだけではない、嫌な感覚。

 それはすぐに形になって目の前に現われた。

 近衛師団二個中隊千名、そして八十名の法術士達が布陣する砂丘の、その周囲が幾つも盛り上がる。クライフは槍を掴んだ。


 盛り上がった砂が流れ落ち、黒い異形が現われる。

 甲殻に覆われ、背の上へと撓んだ長い尾を持つ、馬ほどの大きさもある、蠍だ。

 布陣を囲み、ぐるりと、およそ二十体。


 正面の一体へ、クライフは掴んだ槍を渾身の力と共に投げた。

 槍が蠍の頭部を貫き、黄色い液体を撒き散らしながらもんどり打って砂丘の反対側へ転がり落ちる。


「弓――!」


 大蠍の群れが輪を縮め、弓を構えた近衛師団隊士達へ突進する。

 距離残り五間へと迫った時、円形に光が立ち上がった。防御陣だ。光の壁に阻まれ、大蠍の軋る声、或いは甲殻の立てるそれが辺りを満たす。


「撃て!」


 一斉に放たれた矢は光の壁の影響を受けず、その向こうの大蠍に次々突き立った。二十体近い大蠍が無数の矢を受け、砂丘に倒れる。


「一応……」


 息を吐きかけたクライフの足元が振動する。


「拙いぜ、こりゃ」


 防御陣の内側の砂丘が、先ほどと同じくあちこち盛り上がる。先ほどよりも多く、視界に入った限りでも五十近い。

 砂を溢し、現われた黒い甲殻が陽光を弾いた。





 空へ駆け上がった法術士達の詠唱が身を包む。

 五枚目の盾が戻り――それでも鳩尾の奥底に、(おもり)のような熱を抱え――レオアリスは再びハヤテの翼を風竜へと向けかけた。


 眼下へ、視線を走らせる

 近衛師団二個中隊の布陣を囲った光の壁と、その内側に現われた黒い大蠍の姿。光の壁の外側にも、次々と新たな群れが砂から這い出てくる。


「フレイザー! 上空から隊の援護を!」


 フレイザーは頷き、飛竜を返した。法術士が詠唱を唱え、上空に上がった二十騎の飛竜の周囲に光の矢が浮かぶ。

 光の矢が地上へ放たれ――


 瞬間、風が唸る。吹き付けるのではなく、引き寄せられて行く。西へ。

 レオアリスはぎくりとして西へ――風竜へ視線を戻した。


 風竜の喉が、()()()()()()()()()


「――ハヤテ――」


 銀翼の背で、全身を取り巻いた青白い陽炎が渦を巻く。


「最速で駆け抜けろ」


 ハヤテは翼で大気を打って応え、瞬きの内に最高速に達した。近衛師団の布陣を置き去りにするように離れ、風竜の上空を疾駆する。

 風を集めていた風竜の首が、銀翼を追って動く。

 青い天蓋の、頂点へ――


「そのまま行け!」


 レオアリスはハヤテの背を蹴り、垂直に首を伸ばした風竜へ、落下した。

 身体を取り巻く青白い陽炎が掲げた剣に集まる。

 風竜の(あぎと)が煌々と光を発し、開かれる。


 振り下ろした剣から迸る青い閃光と、竜の最大の武器、その喉から吐き出される暴風の奔流が、空のただなかでぶつかり合った。


 大気が捻れる。

 剣光に別たれた風竜の風が、尚もレオアリスの身をその刃で押し包む。

 たった今張り直したばかりの盾が一瞬で、全て砕けた。


「ッ」


 完全に防御を失った身体へ、暴風が叩き付ける。

 全身が、千刃のような風に曝され――


 軍服の内に収めていた護符が、虹色の光を放ちレオアリスの身体を再度包んだ。

 数呼吸の間、尚も暴風は続き、やがて天蓋へと噴き過ぎた。


 レオアリスの身体がぐらりと傾ぎ、地上へと落下する。

 砂の斜面に落ち、そのまま砂丘の底へ滑り落ちた。

 飛びかけた意識が、数瞬後、浮き上がる。


 辛うじて開いた瞳が、まだ、自分の手に握られたままの剣を見た。

 両手をついて身を起こしかけ


「――ッ、ア」


 全身に鳴り響くような激痛に、苦鳴の代わりに喉から大量の血を吐き出す。

 腕も脚も胸も背も、全身、風が切り裂いた無数の傷から血が流れている。


 ぎりぎりで保っている意識の向こうで、風竜の長い首が再び、自分へと向けられるのが感じ取れる。

 立ち上がろうとした手足には、思うように力が入らなかった。










 脚を蝕む激痛。

 意識を飲み込んでいく闇。


 レイラジェは自らの長剣を床に突き立て――だが、為す術もなく自分が闇に溶けていこうとしているのを感じていた。

 ナジャルが、他者を取り込み、喰らう、その感覚が、これかと。


(ファロス、ファレナに……)


 戻らなくては。

 部下は――

 住民達は

 掴みかけている、新たな世界への道標は


(ここで――倒れる、訳には)


 かつて何も為し得ず。

 三百年、何も為し得ず。

 漸く、旗を掲げる為に自らの手を動かした。


 まだ何も為し得ず。


 闇が、足元から這い上がり、悍しく凍る手で意識を掴む。


(……まだ)


 握る力の失せかけていた右手が、もう一度剣を掴む。


(まだ――)



「そう。まだ、あなたには成すべきことがある」


 この悍しい闇に、まるで相応しくない声が耳を捉えた。



 風が吹き込む。海中で感じるはずのない、それ。

 ファロスファレナが浮上した折、束の間肌に感じていたその流れ。



 視界が戻る。

 レイラジェの周囲に闇は無かった。


『これは、これは――』


 嗤いを含んだナジャルの声が耳に届く。

 それを追って、レイラジェは自分とナジャルとの間に立つ、見覚えのある姿を捉えた。

 海中にあって、その周りを光にも似た風が取り巻いている。


 レイラジェは迫り上がる激痛すら束の間忘れ、呟きを落とした。


『――御方――』



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