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第6章『空と汀(みぎわ)』(32)

 

 途方もなく巨大な岩石仕立ての鯨の頭部に、八本の触腕が絡み付く。

 鯨は自らの体長の四分の一ほどの塊の重さに、頭部をやや下に向け僅かずつ、陽光の届かない暗がりの方へ、沈み始めた。


 ギヨールから太く重い音が一斉に湧き起こる。それはまるでギヨールそのものが生命を持ち、唸り声を上げたかのようだった。

 音と共に触腕の上に、銀色の鎧を纏った兵達が続々と現われ、並んだ。ギヨールの主力兵、第一軍精鋭部隊二千。

 その全てが全身を銀色に輝く魚鱗で鎧い、菱形に近い魚鱗の盾を構え、触腕の上を進み始めた。武器は長い柄の先に斧を有する長戦斧だ。


 ギヨール指揮官、第二軍大将エルハイルはギヨール正面部の指揮官室からファロスファレナを見下ろし、水に声を響かせた。


『進め! 密着すればファロスファレナの水流など恐るるに足らぬ。二万の兵だろうが、我等ギヨールが喰い散らすのみ――』





 八本の触腕の一つを囲むように布陣し、第一隊中将ビレイは兵達へ鼓舞の声を張り上げた。


『来るぞ――移乗手前で食い止めろ!』


 ファロスファレナ軍、第一隊と第二隊は、接着したギヨールの触腕前にそれぞれ二個ずつの方陣形を敷いた。各方陣は百名を六列重ねる横長の形を取り、全十六個、兵数はおよそ一万。触腕排除のため、外周からギヨールを包囲にかかる第三、第四隊が一万。

 数では圧倒的に(まさ)っている。


『ギヨールごとき押し返せ!』


 ビレイは触腕正面に立ち、矛を唸らせ、なだれ来る正面のギヨール兵の首を一つ刎ね飛ばした。その回転で左から切り掛かってきたギヨール兵の腹へ、矛の石突を突き出す。

 ギヨール兵は後方の仲間の兵の間に倒れ込んだが、突いた手応えに腕の痺れを覚え、ビレイは眉をしかめた。


『流石に硬い』


 魚鱗の鎧は高い硬度を誇り、並の刃を通さない。精鋭二千の兵、その全てがこの鎧を纏っているのが厄介だ。


『首を狙え!』


 振り下ろされた長斧を躱し、ビレイは大声で指示しつつ再び矛を走らせた。切っ先は敵兵の肩に当たり、弾かれる。戦斧が足元を砕き、更に跳ね上がり、ビレイの鼻先ギリギリを掠める。ビレイが一人ギヨール兵を相手にしている間にも、周囲でその倍の部下が倒れて行く。


 不意に石が撃ち合うような音が前方で幾つも鳴った。

 触腕の根本より向こう、本体である楕円に膨らんだ()の外壁に三列、小さな穴――射出口が開いていた。

 そこから銛が次々射出され、方陣形の中に降り注ぐ。


『くそ――!』


 僅かずつ、だが早くも第二軍の前線は押され始めた。





 ミュイルは前方の戦場と、そしてギヨールの触腕と本体、その向こうの海を見た。

 ファロスファレナを包む正面の光量は、ごく僅かずつだが落ち始めている。先ほど航行していた輝く青い色から、重く淀んだ暗がりへ。

 頭を取られ、その重量で沈んでいる。


 この下には深い海溝がある。


『――』


 束の間考えを巡らせる。進路を変えるべきか、それとも。

 ミュイルの耳に物見兵の声が飛び込む。


『ギヨール、更に兵を展開!』


 物見兵が示したのはギヨールの周囲だ。触腕の排除に向かったファロスファレナ第三、第四隊と、ギヨール本体との間に、黒い線のようなものが見える。

 ギヨール精鋭部隊二千とはまた別の、ほとんどが魚頭や無数の触手を揺らす海月(くらげ)、軟体生物などの海魔で構成された部隊だ。


『混成部隊、およそ三千! 第三、第四隊と交戦!』

『海底側、第二隊ゲイラ大将より伝令、触腕四本中一つ優勢、残りは膠着』

『第一隊ビレイ中将より伝令、ギヨール兵及び射撃により戦線やや後退――』


 次々と伝令が飛び込む。大将が指揮する第二隊より、ミュイルがこの場にいる第一隊は系統だった指揮が薄い為か、押されている現状にミュイルは奥歯を鳴らした。

 レイラジェが戻れば――


(閣下はいつ)


 その考えを振り払い、正面、第一隊の布陣を睨む。


『陣形を変える。触腕左右に展開、すり鉢状を取り、各触腕を分断、押し包め!』


 ミュイルの号令を受け伝令兵が取って帰り、そこへ物見兵から新たな声が落ちる。


『ギヨールの触腕、四本が、開きます!』


 それは目視でも確認できた。ファロスファレナ頭部を捕らえていた触腕の内四本が広がっていく。

 残った四本は更に絡み付く力を増し、頭部を鈍い音で軋ませた。






『闇雲に鎧を叩くな! 首か接合部を落ち着いて狙え!』


 第一隊中将ビレイは何度目か数えるのも忘れたほど、同じ言葉を叫んだ。

 敵味方入り交じる混戦で、正確に首や鎧の接合部を狙うのは困難だ。対するギヨール兵の鋭い長斧の一閃はこちらの兵を二、三人まとめて薙ぎ倒していく。


『おのれ!』


 目の前で二人部下が首を失い胴を断たれ、ビレイは歯噛みと共に自らの矛を繰り出した。ギヨール兵の喉を横から貫く。


『押されるな! 陣形を保て! 一歩前へ――!』

『中将!』


 誰かの切迫した声、手繰り寄せようとした矛がギヨール兵の首の骨に引っ掛かり、体勢を崩す。斧が頭上から振り下ろされるのが見えた。


『ビレイ中将――ッ』


 斧の柄が弾き上がり、銀色の筋がギヨール兵の喉を切り裂く。

 ビレイは背中から倒れたギヨール兵と、その前に立つまだ見慣れない姿――、ヴィルトールの姿を見つけ、息を吐いた。


「地上ノ」


 はっとして彼の、ヴィルトールの背後を示す。


「後ロヲ!」


 ギヨール兵の戦斧が海水を切り裂き、迫る。ビレイが取り戻した矛を投げようとした、その前にヴィルトールは身を沈めて戦斧を躱し、一息に踏み込んで手にした剣をギヨール兵の左脇の下に突き立てた。


 ビレイは素早く立ち上がり、右から突き出された斧を払い、突き返す。二人の周囲で三人目のギヨール兵が崩れ落ちた。


「礼――助カッタ」


 片言のアレウス語にヴィルトールは剣を持ち上げ、それから自分に苦笑した。西海の言葉を短期間で覚えることができなかったのは仕方がないが、この状況で剣を振るうしか役に立たないとは。


「仕方ない。私が今役に立つのは、クライフの槍との手合わせの経験くらいだ」


 それと、レオアリスの戦い方の。

 振り下ろされた長斧の柄を剣の腹で受け止め、柄に沿って懐に滑り込み、喉を切り上げる。

 足元にギヨール兵が倒れた時、その足元がぐらりと揺れた。揺れが続く。


 ビレイが辺りを見回し、声を上げる。

 言葉は分からないが、何が起こっているのかは頭上の光景で一目で判った。

 右隣の触腕が、剥がれ、広がって行く。左の、一つ隣の触腕もだ。


 見上げた視線の先で、触腕の内側に、一つ一つがひと抱えもある円形の突起――吸盤が見えた。その内側に繊毛のようなものがびっしりと生え、蠢いている。

 その周囲の海水が小刻みに揺れているのが分かった。





 ミュイルは一歩脚を踏み出し、唸った。

 四本の触腕が何の為に広がっているのか、その理由は明らかだ。


『振動波――』


 この至近で。

 兵が出ている以上、ファロスファレナが水流を発生させる訳にはいかない。


『くそ!』


 密着状態で更に、ギヨールは四本の触腕を振動させた。

 海水が、激しく揺れる。小刻みのその振動が、身体と、そして脳を揺さぶる。

 巨大なファロスファレナの全体が、びりびりと揺れ、軋んだ。





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