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第6章『空と汀(みぎわ)』(24)

 

 アスタロトの姿がルシファーと共に消え、王都軍本陣は一瞬、凍りついたように静まり返った。


 間近に見ていたのは本陣にいたタウゼン達直近の部下と、アルジマールと法術士団、そして、ワッツだ。

 愕然とする正規軍の中で、アルジマールが誰より早く反応した。


 指先で素早く、複雑な術式を宙に描く。アルジマールを閉じ込める白い光球の中に、虹色の小さな法陣円が現れる。

 法陣が発光する。


「院――」


 アルジマールの姿が光球の中から消えたと思うと、次の瞬間にはタウゼンのすぐ横にその姿があった。

 秋枯れの下草に両足を下ろし――小柄な身体はぐらりと傾いだ。


「アルジマール院長!」


 タウゼンは手を伸ばし、アルジマールの背を支えた。アルジマールは下草に膝を落とし、青白い額で息を吐きながらも、虹色の双眸を上げた。


「すぐに追う。タウゼン殿」

「お……追う――しかし、どのように」


 タウゼンの口調はまだ夢現つにあるようだ。滅多に見ることのないその狼狽えた様子に、アスタロトがルシファーと共に消えたという状況の深刻さが浮き上がっている。

 一切、正規軍も法術士団もアスタロトの補佐ができないまま、アスタロトは戦うことになる。


「公――炎を取り戻されたとは言え……まだ……」

「タウゼン殿!」


 鋭く叩く声に、タウゼンははっとしてアルジマールを見た。


「余計な時間はない。アスタロト公を追うのは僕がやる。僕に任せていい。貴方はこの部隊が混乱する前に制しなくてはいけない」

「しかし貴方も」


 風竜の転位に相当の力を使ったはずだ。

 だがもうアルジマールはタウゼンから目を離し、膝をついたまま初めに敷いていた法陣円に触れた。掌を法陣円の一角に当て、やや長い術式を口ずさむ。


 七重の法陣円が再び七つの光を立ち上げ、その光は外周の円から内側の円へ、光を移しながらその都度色を重ねて行く。中心の円に光が重なり七色に輝くと、それはアルジマールの掌に集まり、吸い込まれるように消えた。

 アルジマールの瞳が虹色の光を増す。


「補えた」


 アルジマールが何をしたのかタウゼンには明確には汲み取れないが、それでもアスタロトを追えるだろうとは解る。

 タウゼンは両眼を見開き、一呼吸後、身を返した。


「――陣形を立て直せ! 我々はボードヴィルに集中する!」


 離れた場所にいたワッツはタウゼンの指示を背に、再び自らの持ち場へ丘を駆け下った。








 空を見上げていた老齢の兵士は、手にしていた剣を取り落とた。

 石組みの足元で立った硬い音で、夢から醒めたように目を瞬かせる。ボードヴィルの城壁の上に彼はいた。そこが持ち場だからだ。


 彼の視線の先に、空に在った白い骸の竜の姿はない。

 風の王の姿も。

 残っているのは自分達と、そしてサランセラムの丘の王都軍。二千弱と、対する二万弱。その差はあまりにも明らかだ。


「――俺は」


 ぽつりと零す。


「俺はもう、嫌だ」


 周囲の兵が疲れた顔を向ける。彼等は昨晩から一睡もできていなかった。


「俺は、投降する」

「な、何を言ってるんですか。まだ」


 狼狽た声が上がる。年老いた兵はその若い兵を睨み、空を指さした。


「見ろ、空に何もいない! もう誰も守ってくれんぞ!」

「でも、上級大将閣下は、まだ王都を説得できるって」

「そんなの無理に決まってるだろう! 上級大将だろうと王太子だろうともう終わりだ! もう意味がない!」

「そ、そんな事を、口にしたら、」


 ガシャリと、剣が石の上に落ちる。すぐ斜め前の兵だ。

 それをきっかけに、次々と武具が石畳に落ちる音が続く。兵達はみな項垂れ、両手を垂らし、あるいは空を見上げている。

 年老いた兵は若い同僚を力の抜けた顔で見つめ、諭すような、疲れ切った口調で呟いた。


「将校の姿も無い。誰も戦う気なんてないんだ。お前にもわかるだろう」

「で、でも――」


 若い兵士は周りを見回し、彼等から返る眼差しを受け止めきれず、目を反らした。俯き、束の間黙り込み、それから剣を握っていた手をゆるゆると開く。

 剣は彼の足元に落ちた。







 砦城二階から細い窓の外の中庭を見下ろし、少将ソローは若い面を引き締めた。兵士等が持ち場を離れ辺りを窺いながら、身を寄せるようにして中庭を抜けて行く。


 彼等が投降しようとしているのはすぐに判った。けれどソローは投降を止める気力はもうすっかり失っている。始めから――昨日、ワッツの投降勧告を聞いた時から、そのつもりは無かったとさえ言っていい。

 それよりも、彼自身にやらなければならないことがあった。


 今この廊下にいるのは准将以上の将校が合わせて九名のみだ。彼等はみな自らが、投降しても一兵卒のように責任を免れることはできない立場だと理解していた。

 そして、これから自分達がしようとしていることが、己の誇りに反することだとも。


 けれどそれしかもう道は無い。

 ここでただ投降し、逆賊として死罪となれば、それこそ自分達は何の為に死ぬのか。死ななければならないのか。


(いつから、見えなくなったんだ――?)


 自分達の目的が。

 騙されていたのかと自分に問えば、始めはそうではなかったと、そう思い返す。

 ヒースウッドの言葉を、自らの理想として掲げることを誇りに感じた時期は確かにあった。

 そう顧みられる分、ソローは自らに正直だと言えるかもしれない。


 ソローは傍らの少将ドレンとカマルの顔をちらりと読み取る。彼等の表情はそれぞれだ。それから、部下の准将達。


(ヒースウッド殿だけか)


 この場にいないのは。

 徹頭徹尾、己を貫こうとしているのは。

 どこかうらやましさを覚えた。


「ソロー!」


 神経質な声が押し殺し、しかし弾くようにソローを呼ぶ。

 ソローは意を決し、葛藤を両拳に握り込むと廊下の先に立つもう一人の将校に歩み寄った。


「エメル中将」

「報告しろ。状況はどうなった。貴族どもは」

「貴族達は明け方までに全て拘束を終えました。彼等の警備隊は投降するに任せます」


 十月末に捕らえたメヘナは既に獄中にあり、もう二人の子爵、レングスとドミトリも捕らえた。エブソン、シュトレン、ジェットの三人の男爵も捕らえ、室内に押し込めてある。

 彼等を王都へ突き出す。

 彼等と――、もう一人。


「ふん。ヒースウッドはどうした」

「先ほど、塔へ向かわれたのを確認しました」

「呆れた奴だ、こんな時まで女に尻尾を振りに行くとは。時節も見れん愚か者め」


 エメルはせせら笑い、そして剣の柄を掴んだ。

 前方へ弧を描くように、やや芝居じみてゆっくりと抜き放つ。


「行くぞ。ミオスティリヤ――王太子を僭称する不届き者を捕え、我等の王都への忠誠の証とするのだ」








「どうする」


 エメルやソロー達将校が歩き出した廊下を後方から覗き込み、三人の兵士が顔を見合わせた。

 ウォルターとダンリー、オーリ。三人はワッツと共にサランセラム戦役から生きて戻り、ワッツがボードヴィルを脱出する際にその脱出を助けた部下達だ。

 三人とも二十代中間、一里の控えに共に出て、バージェスからの撤退戦も経験している。


「俺達もさっさと投降しねぇと、城内に踏み込まれてから捕らえられたら、抵抗の意思ありと見なされて否応無しに処罰されるぞ」


 けど、とオーリが肩を竦める。


「だからこの状況を見て、放っておくってのも」

「俺もだ。王都軍にはワッツ中将がいる、俺達のことは何とかなるさ」

「そりゃそうか。なら、ワッツ中将ならこの状況でどうするかってとこだな」


 三人はまた顔を見合わせた。互いの意見はもうまとまっている。


「よし、ダンリー、お前は投降しに行け。そんでワッツ中将に状況を話して、できるならこっちに来てもらうよう伝えるんだ」

「お前等は」

「奴等の後ろをくっついていって、やばそうだったら考える」

「判った」


 ダンリーは頷き、その場を素早く離れた。








「ワッツ中将! 街門が開きます!」


 丘を駆け回りようやく布陣を整え終えたところへ兵の声が飛び込み、ワッツは馬体を返してボードヴィルの方向へ進めた。

 丘をやや降る位置に立ち、見下ろした先、確かに街門が開こうとしている。サランセラムへ向かって、三つ。街の正面と左右。


 ボードヴィルの街門は通常の街のように両開き二枚ではなく、破城槌などで破壊されにくいよう格子と鉄板を組み合わせ、滑車で上げ下ろすものだ。

 今、貝の殻が開くように扉が街の外へと引き上げられていく。滑車と鎖の音が微かに届く。


 ワッツは右後方の丘に騎馬を置く北方第七大隊大将マイヨールを振り返った。まだ後方の布陣は整いきっていないが、ワッツの視線に気付いたマイヨールの手が上がる。

 行動しろという合図だ。

 ワッツは短く息を吐いた。


「良し。第一陣前衛二千揃ったな? ボードヴィルへ前進しろ」


 街門から出てくるのが戦闘を目的とする兵列ならば、それを迎え撃つ為。投降兵ならば、そしてまたそこに混乱があれば――追手と投降兵に分かれているのならば、投降兵を保護する為だ。

 王都軍前衛は蹄の音を鳴らし、ボードヴィルとの間に横たわる平地へ、丘を降って行く。その間にも、三つの街門は上がりきった。


 ワッツは注意深く街門に視線を注ぎ、片手を上げた。

 進軍が止まる。正面の街門まではあと二十間(約60m)の距離がある。


「さて、どう出る――」

「中将、あれを!」


 最初に、街門上に定間隔に掲げられ棚引いていた二つの旗――正規西方軍第七大隊の軍旗と勿忘草(ミオスティリヤ)をあしらった王太子旗――その二つの旗が下されていくのが見えた。

 そして代わりにするすると上がっていくのは、降伏を示す白い旗だ。


 王都軍の陣営から、呻きに似た声が広がる。

 ボードヴィルの兵達が意図通り投降するかは、対峙する王都軍の兵達一人一人もまだ半信半疑だった。白旗を目にして、抑えながらも勝利へ向けた安堵を滲ませる。


 ただ、街門から出てくる兵士の姿は見えない。そして全ての旗が下ろされた訳ではなく、特に砦城には未だ王太子旗が多く翻っていた。

 ワッツは首の後ろを二度、手のひらで擦った。


(こっちの様子をまだ窺ってるか。最後の一押しが必要だな)


「ゼン」


 隣接する左翼陣に騎馬を置いていた少将ゼンを呼びよせる。

 ゼンはワッツがボードヴィルを脱出した時に追手となり、その後ボードヴィルを離脱し正規軍へと戻っていた、第七大隊中軍の少将だ。


「お前が前進して、呼びかけろ。投降を認め、命の保証をする。武器を置いて街門を出て来いと」

「はっ」


 ゼンが号令し、三個小隊で方陣を組んだ左翼の陣を進めていく。

 それを見届け、ワッツは巌のような面の双眸を細め、改めてボードヴィル全体を見渡した。

 意外な思いはある。


(ヒースウッドはそれなりに抵抗すると思ったが――その気配はねぇな)


 ゼンの左翼がボードヴィルの中央街門至近に到達し、声を張り呼び掛ける言葉がワッツの耳にも途切れ途切れに聴こえてくる。

 それを聞きながら、ワッツは街の奥にそびえる砦城を見透かした。


 ボードヴィル内部の状況を端的に示しているのが、おそらくあのまだらに上がった白旗だ。それとも所どころ残された王太子旗が、というべきか。

 街門に動く影を捉え、視線を戻す。


(良し)


 街門から数名の兵士が、恐る恐るだが踏み出している。

 ゼン達が彼等を検め、淡々と収容し――それが口火を切ったように、次々と兵達が街門から駆け出した。水が流れ出す様に似ている。

 ワッツは後方へ手を高く上げた。


「第一陣後衛二千、剣収め、前進! 投降兵を収容、街門を確保しつつ、まず中隊一つでボードヴィルに入る!」


 ワッツの号令に伝令兵が騎馬を走らせる。王都軍兵士は金属音を鳴らして剣を鞘に収め、槍を肩へ倒した。再びボードヴィルへと、ゆっくりと進んで行く。

 ボードヴィルから出てくる兵士達は皆、武器は持たず降伏の意思を示して両手を上げている。おずおずと、ただこの半年間という複雑で長い期間からの解放の故か、彼等は疲労の中にも一様にほっとした表情を見せていた。


「何人出てきてる」

「ざっと数えておそらく、七百近いかと。総員は二千弱、まだ砦城に配置されていた者達もこれから出てくる様子があります」


 全員降伏するのも時間の問題だろう。もう彼等が縛られるものはボードヴィルには無い。

 ただ、一つ引っかかることがありワッツは投降する兵達の上へ、目を細めた。


「将兵の姿が無ぇな」


 ボードヴィルに四人残っていた少将、ソロー達や、右軍中将エメル。そしてヒースウッド。

 兵達と共に出てこないのは理由があるだろう。それもワッツには理解できる。

 彼等の取る道は多くはない。


 ミオスティリヤだ。


(今何もしなければ最悪ここで命を落とすかも知れん)


 ワッツはすぐ心を決めた。


「投降兵は武器を没収してひと処にまとめとけ」

「中将は」

「俺は城に向かう。中隊、街に入って接収を進めろ。残り、北方第七のマイヨール殿の指揮下で動け」


 そう言い置いて、まだ兵達が流れ出てくる街門を潜り、ワッツはボードヴィルの街に入った。






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