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第6章『空と汀(みぎわ)』(22)

 

 風が凶器となってなだれ掛かる。

 メリメリと、生木を剥がすような音と共に、本陣を覆っていた障壁が剥がれるのが分かった。


本陣は辛うじて風を防いでいるが、周囲の丘の陣形が叩き付ける突風の中、木彫り駒のように呆気なく掻き混ぜられ、押し流されて行く。

 その風の猛威は通常の軍隊では風竜に抗することなどできないと、まざまざと見せつけられるようだ。


 瞳を見開き、宙を睨んだアスタロトの耳にタウゼンの声が飛び込む。


「公!」


 アスタロトも理解している。転位陣を覆い隠していた術式は、今の風一つで消えていた。

 気付かれたのだ。


 少し早い。

 アルジマールからの合図はまだた。

 もう少し時間が欲しかった。けれど仕方がない。

 アスタロトは直立のまま身構え、ボードヴィルの大屋根の上で翼を広げる風竜を見据えたまま声を張った。


「アルジマール!」


 すぐに声が返る。


「大丈夫、準備はあらかた整った――」


 ゆっくりと、息と共に吐き出される、やや幼い声。


「今、分断する」


 アルジマールは彼が敷いた法陣円の中央に立ち、そう宣言した。

 彼の足元の草地には既に複雑な模様を描く術式が、七重の円として廻らされ光を放っている。


中心の円が放つ色は暁、次いで夜の空の青、晴れた昼の澄んだ空、萌える若草、輝く黄金、暮れ行く夕照、炎の緋。

 一つ一つの円が太陽の放つ波形のように、それらの色を踊らせている。

 術を行使する術師自身の瞳の織りなす色だ。


 アルジマールが詠唱を開始する。

 初めの一節で中央の法陣円の光が一際高く立ち上がり、外側六つの円も呼応し次々と光を吹き上げた。

 アルジマールの纏う法衣が風を孕んではためく。


 離れて立つアスタロトの髪や服の裾も風に躍る。肌をざらついた手が擦るような、身体を押されるような感覚が全身を捉えた。


(風竜を、跳ばす――)


 身を起こしていた兵士達から恐怖を含んだどよめきが上がり、アスタロトは彼等が見上げ、指差す空を見た。

 息を呑む。

 頭上を、風竜の白い骸が覆っていた。


 声も出ない。

 広げた翼は丘二つを覆うほど広い。視界全体を埋めた、その骨組みの一つひとつ――

 木琴を鳴らすような美しい音が落ちてくる。

 再び、翼が空へと上がる。


(風――!)


 アスタロトは咄嗟に踏み出し、だが、空へ伸ばしかけた手を止めた。

 ()()

 虹が出ている。

 晴れた空の中、視界を覆う風竜の、更に真上に現れた、円盤状の虹。


 七色に移ろい輝くその光は傘のように広がったかと思うと、無音のまま、幕がふわりと落ちかかるように、風竜の白い骸を包み込んだ。

 巨大な身体を、あっさりと。

 完全に球体を作る。

 その中に、まるで硝子の球体に閉じ込めた標本のように、風竜の巨体が収まっている。

 太陽がそこにあるようだ。


「……やった――」


 アスタロトは思わず呟いて瞳を見開き、身を乗り出した。

 風竜を包んだ。成功した。

 後は跳ばすだけだ。アルケサスに用意されている『出口』へ。

 そこにはレオアリスがいる。


(――大丈夫)


「アルジ……」


 振り返った目に飛び込んだ姿に、アスタロトの口元に浮かんでいた安堵の笑みの欠片が掻き失せる。

 アルジマールは七重の法陣円の中で、差し伸べた自分の右手を左手で掴んでいる。丸まりかけた法衣の背を、苦痛を堪え、伸ばそうと上げた顔。

 目深に被った頭巾の下の、強い虹色の光を移ろわせる瞳。


「――ッ」


 頭巾に隠されていない唇が、噛み締められる。

 状況を把握する間もなく、アルジマールの右手に血の筋が走った。

 指先から二の腕、肩へと――裂ける。

 赤い血が吹き出し、法陣円の中を舞った。


「アルジマール!」


 胃の腑が一瞬で冷え、アスタロトは法陣円へ踏み出しかけた。アルジマールの声が足をとどめる。


「問題ない」


 切れ切れに、だが明瞭に。


「皮膚がちょっと裂けた、だけだ。――もう少し」


 血は右腕全体から吹き出し続け、腕と法衣を染め、法陣円へ滴る。

 七つ全ての円の光が油を投じた炎のように跳ね躍る。


 法術士団の補助があって尚、アルジマールが七重もの法陣円を敷いたその理由を、アスタロトはもう理解した。

 それほどの術式を以てしなければ、風竜を跳ばすことは叶わない。


(――これだって……)


 一歩踏み違えば。

 視線を転じた先、虹色の巨大な光球の中で風竜の翼は広がろうとしている。

 アスタロトは唇を噛み締めた。

 周囲で法術士団の詠唱が高まる。

 アルジマールの立つ七重の法陣円の光も。


 風竜の翼は動きを止めることなく、尚も広がり、自らを包む光球を内側から破ろうとしている。軋む音が聞こえるように思えた。

 血を吹き出す右手、それを掴んだ左手と左腕の皮膚も、裂ける。

 アルジマールの周囲は血の霧で覆われた。


 血の匂いがアスタロトの位置まで届く。アスタロトは唇を噛み、手の空いている法術士の姿を探した。


「誰か、せめてアルジマールの手当てを」

「構わない」


 何度目か、短く押し出された声が、しかし明瞭にそう告げる。


「でも」

「血が流れたのは、却って手間が省けたくらいだよ」

「え――」


 アルジマールはいつの間にかすっかり顔を露わにし、虹色の光が移ろう瞳でにこりと笑った。


「僕の血が、触媒だ」


 七重の法陣円が、アルジマール自身の姿さえ掻き消すほどに光を増す。

 空の虹が溶ける。

 いや、それは空の中で更に輝きを増し、見上げる瞳を眩ませたからだ。



 束の間、耳が痛くなるほどの静寂が、サランセラムの丘の上を支配した。



 王都軍の陣営から再びどよめきが漏れる。

 遠く、ボードヴィルからも。

 アスタロトもまた、息を止めたまま瞳を彷徨わせた。



 アスタロトが見上げた空に、風竜の姿は無かった。









「風竜が――」


 塔の下、砦城の中も、そしてボードヴィルの街も、騒然とした声で埋め尽くされた。兵達は皆武具を取り落としたことも気付かず、身を乗り出して空白になった空を見つめている。

 ヒースウッドもまた、塔の窓枠に手をかけ、身を乗り出していた。


「――しゅ、守護竜が……」


 まるで一つの夢を見ていたかのような感覚から、はっと我に帰りヒースウッドは振り返った。凍えた鼓動が跳ねるように音を立てているが、それよりもヒースウッドは一つの姿を追い求めた。


「ルシファー様――!」


 駆け寄ろうとした足がいく先を見失い、一歩で止まる。

 狭い塔の部屋の中に、ルシファーの姿が見当たらない。


「……ルシファー様……?」


 何が起こっているか未だ理解しきれないまま、ヒースウッドは自分一人だけの塔の中で茫然と呟き、それから冷えた胃の腑を掴むようにして駆け出した。





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