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第3章「陰と陽」(4)

 王が口元に刷いた笑みは一瞬の閃きだけで消えた。

 笑った事さえも定かかどうか曖昧に思える。

 ただその笑みは嘲りでも憐れみでも状況を愉しんでいた訳でもなく、もっと別の深い思慮から発露した感情に見えた。

「大戦以前は、思えば平穏と呼ぶに相応しい時代でもあった。小競り合いはあったものの――両国の間で例年慶賀の国使を交わしていた事を考えれば、現在よりも波は穏やかだったと言えただろう。互いに平穏を選び、保っていた時期だ」

 レオアリスはじっと王の表情を見つめた。

 スランザールが先ほど、この場で語る意思が無いと示したのとは全く逆に、王にはその事を伏せるつもりは無いのだと判る。

 最も意思を共有していると言ってもおかしくはないスランザールと王との、その違い。

 決定的な違いだ、と、思った。

 その違いをこそスランザール達は埋めようとしていたのだと、レオアリスはその事を明確には理解していなかった。今、この段階では。

 すぐに、それを理解せざるを得なくなるのだとも。

 スランザールを見れば、白い豊かな眉の下で苦いものを噛み潰すように両眼は閉じられ、その意思は判らない。

 王のあの笑み――、おそらくスランザールへと向けただろうそれは、もう掴もうとしても指先にも触れず、ただ、語る口調は懐かしむような響きを含んでいる。

「皇子は国使として二度、ルシファーも同じく二度、互いの国に赴いている。そのいずれかの時に出逢ったのだとルシファー本人の口から聞いた。そうした流れはさほど特異な事でもあるまい。ケストナー、そなたはルシファーが西海と通じていたのかと口にしたが」

 王の口に名が挙がった瞬間、ケストナーはさっと紙のように青ざめ、面を伏せて敬礼を向けた。

「その類の関わりではない。そして先ほども言ったように、大戦の勃発――皇子の死と共に関わりは消えた」



 ルシファーが西海の皇太子と関わりがあった事。

 アスタロトは初め、単純な驚きと共に王の言葉を聞いていた。

(ファーが……)

 まだ大戦勃発前の国交があった頃の事とは言え、頻繁に小競り合いが繰り返されていた時期だ。その相手国の皇太子との交流は、一言で言えるほど単純ではなかっただろう。

 現にルシファーは、それを公にはしていなかったし、アスタロトにさえ告げていなかった。

 密やかな、交流。

 二人の間だけの。

(――)

 好きだったのだろうか、その人を。

 王はただ二人の間に交流があったと肯定しただけだったが、アスタロトにはそう思えた。

 そうだと、自然と確信していたとも言っていい。

 離反した事の、全ての理由が、そこにあったのだと。

(理、由……)

 いつだったか――ルシファーの言葉に、言いようのない違和感を感じた事があったのを、アスタロトははっきりと思い出した。

(そうだ……私が、ファーのお屋敷を訪ねた時。二月の、伯母上の、園遊会の後で――)

 たった今、向き合って投げかけられたかのように、明確な言葉が蘇る。


『王が認めない?』


 そう言った時のルシファーは、一瞬だけ、普段とは全く違う空気を纏った。

 その時感じた空気も身の回りに甦り、西海の皇太子との交流というただ新鮮な驚きでしかなかった、ほんのりとアスタロトの心を暖めていたものが、急変する。


 今なら判る。

 彼女が抱いていたのは



 憎しみだ。



 冷えた空気を感じる。


『王が』


『認めない?』


 実際には王がアスタロトへそう告げた訳ではなく、ブラフォードがアスタロトに告げた言葉だった。

 ブラフォードは、こう言った。

『王はお前達二人を認めないだろう』

 どうしても納得できなくて、だからアスタロトは、ルシファーに尋ねたのだ。

『王が、認めない』と、その理由を。

 ルシファーはその理由を教えてくれた。

 アスタロトが正規軍将軍で、レオアリスが近衛師団だからだ、と――

 二人の立場がそれを許さないのだと。


 四大公の一人と、西海の皇太子。


『軍事力の一極集中』

『そう考えるものよ。国は』

(国、は)


『貴方が炎帝公じゃあなかったら、全く違ったわ』


 今なら、判る――

(私と同じなんだ)

 ルシファーは、アスタロトの想いを自分と重ねていたのだ。

 彼女自身の記憶に。

 そして。


 二人の関係は、認められなかったのだ。


 心の奥底で何かが蠢いた。

 まだアスタロト自身が、目隠しをしているもの。

(王は――、ファーに何て言ったの?)

 スランザールが表を向けてアスタロト達に見せている、穏やかそうな青年の絵姿。

 西海の皇太子。『西海』というだけで否定的な印象に捉われがちだが、琥珀色の理知的な瞳は争いを好むようには見えない。まだ西海との親交が続いていた時代でもある。

(それでも、認められなかったんだ――西海だから)

 国を揺るがす事になるから。

 どくりと心臓が鳴る。この微かな騒めきに満ちた広間にそれが響いた気がした。

(本当に)

 足元からゆっくりと冷たい血液が身体を巡り、それが指先へ――、やがて心臓へと流れていく。

(本当に、王は、認めなかったんだ)

 頭がガンガンと急激な痛みを訴える。

 ルシファーの言葉には、まだ続きがあった。

(何だっけ――)

 何と言ったのか。

 あの夜、ルシファーの館の蒼い部屋で。

 それから


 ふっと記憶に足元を掬われる。

 眩暈を覚えて、アスタロトは無意識に首を振った。記憶を振り払うように。

(思い出しちゃ、ダメだ)


『王が』

(ダメだってば)



「陛下はその事を、大戦当初、いえ、大戦前からご存知だったと――その上で伏せるというご判断をされたのですね」

 さざ波のような騒めきの中から、そう切り出したのは今度もまたトゥレスだった。ただこの事実を初めて知った者は参列する二十一名中およそ七割で、トゥレスの問いはこの件に対する彼等の大体の疑念を代弁していただろう。

 大戦前、既に王はその事実を知っており、そしてこの四百年間、伏せていた。

 王はその双眸をトゥレスに向け、無言によって肯定を示した。

 王の答えを息を潜め待っていた諸侯の間に、言葉にならない戸惑いが生まれる。

 王は彼等にその事実を伏せたまま、ルシファーを西方公の地位に置いていた――、と。

 その戸惑いに気付いたトゥレスは気まずそうに彼等を見回し、一歩引いた。

「それだけです。失礼致しました」

 傍らのセルファンが、低く押し出した棘のある声をトゥレスに向ける。

「無用な問いだ、浅薄だぞ」

「いや、すまん」

 恥じるように苦笑を浮かべたトゥレスを睨み、セルファンは不快そうに眉を顰めながらも、それ以上は言わずに顔を戻した。

 二人から一歩引いた所に立っていたロットバルトは青い瞳を細め、トゥレスとセルファン、そして居並ぶ諸侯を見渡した。

 スランザールが生じた戸惑いを掬い上げるように口を開く。

「大戦勃発前の事じゃ。二人の関わりは、わしもこの絵を見る今日まで忘れておった。西海の皇太子の肖像画など、わざわざこの国で掲げるものではないからのぅ」

 ゆったりとした学術院の長い衣の中から枯れた腕を出し、白い髭を撫ぜる。

「皆、ルシファーと()の皇太子との関わりが、巡り巡って今回の問題を引き起こしたと考えておろうが、それも考えてみれば四百年も前の事、その間ルシファーが王国の発展に尽してきた事は確かじゃ。その功績の方が大きかろう」

 ロットバルトはトゥレスからスランザールへ視線を移した。

「そもそも皇太子の死は、諍いを仲裁する中でほとんど偶発的に起った事、どちらか一方の責のみ問うものではなかったのじゃ」

(皇太子の件は無関係、か。実際には老公はそう思ってはいないだろう)

 ただ互いの様子を伺っていた諸侯は、スランザールに納得できる要素を提示され、それを容れてそれぞれ密かに安堵の表情を浮かべた。

 この件以外でも今まで、国の根幹に関わる問題に対して王が伏せるべきと決めた事に、彼等は信任してきたのだ。秘匿もまた国の運営に必要な措置と理解している。

(伏せられている事実があったとしても、この面々にすればさほど問題でも特異な事でもないはずだ)

「さて、この件はこれまでだ」

 切り上げたのはベールだ。

「この場でルシファーの過去を探ろうと、これまで積み重ねてきたものも状況も変わらん。これ以上は今は動きようがなく、事態が動いたら対応するまでの事」

 ベールはそう断じ、それぞれの思惑に浮きかけていた思考を退けた。ベールの言葉が続く前に、その先を読み取って参列者達が居住まいを正す。

 今回の召集の目的は、二つあった。

 一つはルシファーへの措置の件。

 そしてもう一つ。

「月末の条約再締結の儀に議題を移す。懸案としていた儀場における我が国の警護体制については」

 そのまま議事を進めるつもりで確認の為に王を見上げたベールに対し、王は制するように左手を上げた。

 ベールは口を噤むと、無言のまま(こうべ)を垂れ、一歩下がる。その時、一度スランザールと瞳を見交わした。

 代わって王の低く静謐に満ちた声が流れる。

「条約再締結の儀において、バルバドスの首都イスへ入る五十名を、この場で決定する」

 既に条約再締結の儀まで十日を切り、儀式の場へと同行する衛士五十名とその周辺の体制について、西海への返答期限は三日後に迫っていた。三日後に再び西海の使者が回答を受けに訪れる。

 注目は王が西海の要請をいれるか否か――

 剣士を五十名の衛士に入れる事は認めないという、一方的な、高圧的な要望だ。

 この場の誰もが、否と考えていた。

 西海との関係は、それを諾々と容れるほど良好でもない。

「正規軍将軍アスタロト、西方将軍ヴァン・グレッグ」

 ずっと俯いていたアスタロトは再び肩をぴくりと震わせ、そしてなぜ自分の名が呼ばれたのか戸惑うように、まじまじと玉座を見つめた。深紅の瞳が揺れる。

「西方軍より二十名を選出し、明日の正午までにその名簿を示せ」

 ヴァン・グレッグはその場にばっと膝を付き、恭順の意として敬礼を向けた。ケストナーが選ばれなかった事に悔しそうな色を浮かべたが、彼にとっても西方軍が当たるのは当然の流れだと理解している。「儀式の場が南海でないのが残念だ」とだけ言った。

 王の声は淀みない。

「近衛師団総将アヴァロン」

 アヴァロンが玉座の傍らで短く(いら)える。

 次だ。

 居並ぶ諸侯の視線が、王の発する名を予測して、三人の近衛師団大将へと向けられる。

 その一番左端に立つ、レオアリスへ。

 王を見上げていたのは、スランザールとベールの二人のみだった。

 沈黙の中に、声が落ちる。

「第三大隊大将、セルファン」

 ざわ、と広間が波打った。

「第三?」

「セルファン殿が――」

 まさか、という声がどこからか漏れる。

 呼ばれたセルファン自身、呆気に取られた表情で王を見つめていたが、すぐに慌てて膝を付いた。トゥレスが肩を竦める。グランスレイは口元を真一文字に引き結び、身体の両脇で拳を握り締めた。ロットバルトが息を吐く。

「何で……」

 アスタロトが今にも異を唱えそうになり、タウゼンに制止される。

 スランザールとベールは、物言いたげな、どこか咎めているとも言える視線を王へ向けた。

 それらの騒めきも姿も、レオアリスは一切、認識していなかった。

(――外れた――)

 随行は、セルファンだ。

 全ての音が遠退き、周囲に立つ者達の姿も遠退いた空間に、レオアリスは茫然と立ち尽くした。

 心臓が重い鼓動を打ち、脳裏全体に響くようだったが、それも自覚していなかった。

 ただ剣の鼓動だけが明確に聞こえる。

 スランザールは王を半ば責める眼差しで見上げた。

「陛」

「セルファン。西方軍と同様に第三大隊より精鋭二十名を選び、明日正午までに報告せよ。また一里の外の控えは正規軍西方第七大隊を以って任ずる。指揮官は大将ウィンスター、及び明後日赴任する中将ワッツを補佐官とする」

「陛下――」

「ファルシオン」

 言いすがるスランザールへは取り合わず、王は傍らに座す幼い王子へと首を巡らせた。

 ファルシオンは広間の驚きや戸惑いを感じ取り、それらを移したような不安げな面を上げ、父王を見つめた。

「そなたには私が不在の間、王都鎮守を命ずる。私の代理ではなく、そなた自身が国主としての職務を遂行するのだ。心して努めよ」

 ファルシオンの瞳の中で、不安と誇りが交じり合う。どちらも同じくらい強く――、そしてファルシオンではまだ言葉にするのは難しい、幾つかの疑問と懸念を抱えながら、王の玉座の足元に降り、膝をついて顔を伏せた。

「承知いたしました」

「内政官房を始め各院はファルシオンを国主と見做し補佐し、滞りなく国務を遂行せよ」

「陛下」

 諸侯が息を呑むほどの鋭さで王を呼び、スランザールが(きざはし)へと、一歩足を向ける。王の双眸はゆっくりと動き、レオアリスの上へ据えられた。

「近衛師団第一大隊大将」

 ざわついていた場内がしんと静まり返った。視線の中心に立つレオアリスは、漆黒の瞳を見開き、一点を見つめている。

「上将」

 グランスレイが素早く囁く。

 レオアリスははっと顔を上げた。

「近衛師団第一大隊大将、レオアリス」

 王が再び名を呼び、ほんの僅かな間の後、レオアリスは跪き、面を伏せた。

「そなたにはファルシオンの守護を命ずる」

「は――」

 剣の脈動が収まらない。それをレオアリスは無理やり押さえつけた。

 条約再締結の場への随行が自分だと、決まっていた訳ではない。レオアリス自身がそう望んでいただけだ。

 西海の要望を王が容れると思っていなかった事と、ここ最近の自らの失態が招いた事と――

 ただそれだけだ。

 条約再締結の儀は、その通り、両国の関係を維持する為の儀礼に過ぎない。互いに随行する衛士五十名も、これまで繰り返されてきた形式の踏襲だ。

(何の問題も無い……)

 剣の脈動。

(問題は無い)

 王が要望を容れる事を、両国間の益になると考えただけの事だろう。

 レオアリスは無意識に、それを何度も自分に言い聞かせていた。

「もう一つ――。そなたはこの王都において、内政官房長官ベールを筆頭とした各院と共に、ファルシオンの為政を補佐せよ」

 静まり返っていた謁見の間が再び騒めく。それはどこか納得の気配が漂っていた。

 レオアリスが任じられたのは、王に対するアヴァロンの役割だ。

 王の言葉を、次期近衛師団総将の指名と捉えた者が、恐らく大半だっただろう。

 なるほど王は、条約再締結だけではなく、その先、いずれ訪れるファルシオンの治世を見越していたのか、と

「陛下、西海の要求をお容れになるとは、わたくしは賛成いたしかねます」

 先を行こうとする諸侯の思考を遮るように、鋭くそう言ったのはスランザールだった。

 スランザールへと視線が集中する。

 ベールもまた、スランザールを擁護するように口を開いた。その口調や瞳の色が普段とは少し違う。

「老公のお言葉通り――私も反対と申し上げます、陛下。西海が示した要望は西海の独自の考えに拠るもの、それに対して我が国が従う義務はございません。敢えて知らしめる為にも、今回は第一大隊大将を伴うべきと考えます」

 スランザールだけではなくベールまでが表立って反論した事で、セルファンやゴドフリーやタウゼン、誰もが――アスタロトでさえ驚いて二人と、王とを見比べている。

 だが王はゆったりと玉座にその身を任せたまま、纏う静謐さを乱す事も無く告げた。

「西海の要望を容れる訳ではない。だがこの状況下で私が国を空ければ、無用な争乱を招く事も考えられよう。その為にもファルシオンは王太子として私の代わりに国を治める責務があり、そのファルシオンの守護も重要な役割の一つ。守護として一番相応しいのがレオアリスだという事だけだ。ただ西海が要望を飲んだと理解する事にまで口を出すつもりはないが」

「陛下」

 スランザールは更に言い募ろうとし、言葉を捜していたが、黄金の瞳に浮かんでいる光を見つめ、ゆっくりと、意図してゆっくりと息を吐き出した。首を微かに振る。

 諸侯が息を潜めて成り行きを見守る中、王はスランザールとベールを――居並ぶ諸侯全員を見渡し、静かに告げた。

「既に、決まっている事だ」




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