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第5章『地平の燎火』(21)

 

 衣装箱に横たわった女の身体を染める、目も覚めるような緋色――

 エアリディアルは息を吐いた。



 布だ。

 血ではなく、一枚の緋色の布が、身体の上に掛けられている。布があたかも血を吸ったかのように見えていたのだ。


 エアリディアルは横たわる首筋に手を当てた。

 息を止め――


「――」


 それを、吐き出す。


「生きて――」


 そう理解した瞬間、全身に張りつめていた力が抜け、エアリディアルは衣装箱の縁に手をついた。その拍子にガタリと衣装箱が揺れる。

 微かな声が耳を捕えた。

 見れば横たわっていた女が小さく息を吐き、目蓋を震わせている。


 はっとして、エアリディアルは辺りを見回した。こんな狭い箱の中ではなく、寝台へ移さなくては。

 けれど室内に人はいない。


「誰か――」


 持ち上げた手を、止める。

 この女性は何故、このような衣装箱の中に入れられていたのか。

 運び入れたコンラッドは知っていたのだろうか。


 ブラフォードは。

 知っていたのだとしたら、何の為に。


「――」


 迷って、横たわる肩へと伸ばした右手首に、先にひやりと手が触れた。

 女が目を薄らと開いている。


「――気が」


 女の手に左手を添えると、女は虚ろな瞳で何度か瞬きを繰り返し、次第にその奥に光が灯った。

 エアリディアルを認め、ゆっくり瞬きを繰り返す。


「気が付いたのですね。気分はどうですか? どこか、苦しいところは――」

 問いながら、つい最近会っていたことを思い出した。

「あなたは」


 ベルゼビアが招いた旅芸人の一座――そう仕立てていた、正規軍東方軍の兵士だ。

 楽の音に合わせ、とても美しく、軽やかに舞っていた。

 わずか十日ほど前のあの夜に、エアリディアルと母を助け出そうとした、彼等の――

 ベルゼビアが捕らえた彼等をどのように処したのか、ブラフォードはエアリディアルに語った。


 生きていたのだ。


「あなたは……」

「王女殿下――」


 女がはっと起き上がる。一度よろめいたものの、止めようとしたエアリディアルの手を丁寧に解いた。

 まだ覚束ない動作で床へ降り、エアリディアルの前に膝をつく。


「王女殿下――私は、正規軍東方第一大隊所属、スキアと申します。このような状態でお目にかかる無礼を、お許しください」

「スキア――」

「貴女様をお助けしに参りました。すぐに――いえ、夜になりましたらできる限り早く、ここを出ましょう」


 スキアは素早く室内を見回した。


「王妃殿下は――いずこに」

「ここには、おりません。昨日の朝、どこか別の部屋に移されました」


 スキアは唇を噛んだ。

 そうしながらも自らの身体が動けるかどうかを確認するように、手を何度も握り込み、脚へ視線を落としている。


「王妃殿下がどこにおいでか、私が探って参ります。王女殿下はここで――」


 顔を上げたスキアが、エアリディアルの斜め後ろに視線を止め、瞳を見張る。

 エアリディアルは振り返り、スキアの視線の先を探した。


金糸雀(かなりあ)?)


 銀色の鳥籠と、その中の金糸雀を見ているようだ。

 エアリディアルはスキアの表情を見つめ、そしてその瞳を見つめた。


「スキア。あなたは何故、あのような場所に?」


 スキアは自分を落ち着かせるように、ゆっくり息を吐いた。


「――私をここへ送ったのは、あのブラフォードでございます」









「我が兄上は明日、ベルゼビアの総大将として兵を率い、王都の軍を迎え討たれる。故に本日は妻子と別れを惜しんでいるのでしょうな」


 ブラフォードは長い卓の斜め向こうに座る父へ、そう言った。長く広い食卓についているのは二人だけだ。


「悪趣味な物言いだ。改めよ」

「失礼――」


 ブラフォードはすんなりと顔を伏せた。給仕が美しく盛り付けた主菜の皿を二人の前に置き、黙礼をして下がる。


「しかしながら父上、貴方が解っておられないはずがありません。ベルゼビアが置かれている状況、そして今回の行動は悪足掻きに過ぎない。そうではありませんか」


 ベルゼビアは眉一筋動かさず、薄い硝子の杯の葡萄酒を口元へ運ぶ。その心情は汲み取れない。

 ただブラフォードの声に、幾分の滋味が篭った。


「尊厳、ですか。貴方が選んだのは」


 取り合わないかと思ったが、珍しく気が向いたのだろう、ベルゼビアはブラフォードへと視線を動かした。


「尊厳か。お前は尊厳をどう考える」

「……当然、自分を折ること、それを厭います」


 視線の先で口角が微かに上がる。


「まあそのようなものだろう」


 父の手元で、硝子の杯の透明な台座が大理石の卓に音を立てる。


「ベルゼビアは始まりの四家の一つ――。王に膝をつくのならばともかく、まだ年端もいかぬ未熟な者を為政者と祭り上げ膝をつくほど、我がベルゼビアは矜持を失ってはいない」


 皿の上の肉を切り分け、口に運ぶ。その所作は洗練され、そして無機質だ。


(ヴェルナー前侯爵も大概だったようだが、あの方はまだ人間味があった)


 ブラフォードはこの父に、人間味を感じたことがあっただろうかと考える。


(四公爵はいずれも、どこぞが歪んでいくのかもしれん)


 永く時を過ごせば、その分。

 長期の安定の代価は摩耗だ。


「国王代理、そしてそれを支える体制――といえば聞こえがいいが、今国を動かしているのは実質、ただ一人に過ぎん」


 その一人は大公ベールを指しているのだろう。


「此度、王が整えた体制は、あくまでも平時を想定してのものだった」


(そうではないと解っておられるだろうに)


 王は今回の事態まで想定して、有事に即応する体制を整えて行ったのだ。


 ()()()()()()、王が戻らないという異常な――この国にとってあまりにも異常な事態にあって、ファルシオンを国王代理と据え内政官房を中心に支える体制は、特段の混乱もなく動いた。

 西方公が離反し、続いて父、東方公が中枢から距離を置いたとしてもその体制は変わらなかった。


(王は、どこまでを想定されておられたのかな)


「王国樹立の際、王のもとに(つど)った四家にそもそも序列は無かった。国の基礎を造り上げて行く中、役割ができただけのこと。北方が国を率いるほど秀でているのなら、此度でそれを示せば良い」

「――」


 ベルゼビアの視線が斜めに動き、ブラフォードを捉える。


「それで? お前が問いたいのはそれだけか」


 今日の父は驚くほど饒舌だ。ブラフォードは向けられた視線を捉え、会話の糸口を探した。


「――もう一つ。西方公もやはり、貴方と同じお考えのもとに離反を選んだのでしょうか」

「西方?」


 僅かな間があり、


「逆だろう」


 そう言って続ける。


「王が国を見捨てた事を恨んだのだろうよ。より正確に言うのならば、自分を」

「自分――西方公自身を?」

「今の西方は二代目だ。初代が没し、王は嫡子ではなく、後継としてあの女を連れて来た」


 もともとたいして興味があった訳でもなく、それ以上は尋ねる事も浮かばない。

 ただ、父が自分にそのような話までした事は意外だった。

 ベルゼビアは熱を窺わせない双眸で、ブラフォードを見据えた。


「三日と条件を付けたが、王女を迎える準備は滞りなく進んでいるのか」


 給仕が食事の最後に、白い陶器の茶器から紅茶を注いで行く。

 ブラフォードは片手を上げてそれを断り、晩餐の席を立った。


「もちろんです。明後日――我が陣営の勝利とともに、華々しく婚儀を祝っていただきましょう」






 自らの部屋に戻ると、控えていたコンラッドが上体を折って迎える。


「ブラフォード様」


 全て指示通りに整えた、と告げる。


「ご苦労。今頃は王女も気付いたことだろう」


 箱の中を見たエアリディアルの驚きは、ブラフォードにとっての余興に過ぎない。

 あの女がどう動くかも。


「私への次の御下命は」

「良い」


 ブラフォードはコンラッドを手招いた。


「ほんの些細な足掛かりに過ぎないが、それを使う自由程度はある」

「――よろしいのですか。本当に。貴方は王女殿下の夫君として、王家に連なることができる――」


 正面に立ったコンラッドの喉元へ指先を伸ばす。


「そんなものは翌朝には(つい)える泡沫(うたかた)だ。それに私も、自分を折るのが好きではなくてな」


 父であるベルゼビアがどう動こうと、自分の好む道でなければ歩む気がしない。


(そういうところはお前に、影を見ていたのかもしれん)


 燭台に灯された炎が、室内に落ちる影を揺らす。


 ブラフォードは視界の隅にその炎を見た。









「ブラフォードの意図は判りません。ですが」


 自分の入れられていた衣装箱を見つめ、微かに眉を寄せる。


「――今はあの男が私を生かし、ここへ送り込んだことに感謝するだけです。この機を無駄にするつもりはございません。ブラフォードに貴女様を害する目論見があったとしても、私共はそれを逆手に取りましょう。必ずや貴女様をお救いし、王妃殿下もまた、お救いする所存でございます」


 金糸雀の鳥籠に手を伸ばし、上部の金輪を取って床に置く。その時になってエアリディアルの足元の床に置かれている短剣に気付き、スキアは眉をひそめた。


「王女殿下、その短剣は――まさか、御身を」


 エアリディアルははっとして、短剣を手に取った。スキアの眼差しに苦笑交じりの微笑みを浮かべる。


「いえ――これは護り刀です。この刃は何かを切ることはできません」


 エアリディアルがその短刀を何に使おうとしていたのか、スキアはそれを理解し、手を伸べた。


「私が、お預かりしてよろしいでしょうか。僭越ながら、貴女様をお守りする為の武器とさせていただければ」

「これは――」


 切れるものではない、ともう一度言いかけ、けれどエアリディアルは素直に短剣をスキアに渡した。


「ええ、あなたに預けます。もう、身勝手な振る舞いは致しませんから」

「有難うございます」


 短剣を手に取り懐にしまいかけ、スキアはふと鞘に瞳を落とした。


「――御前、失礼致します」


 鞘から引き抜く。


「え――?」


 現われた刀身を見て、エアリディアルは瞳を丸くした。

 コンラッドが鞘から抜いた時は確かに、刃は白い牙を加工したものだった。


 けれど今スキアが鞘を払ったそれは、冷たく鋭利な光を弾く、金属の刃だ。


「何故――」


 エアリディアルは柔らかな眉を寄せた。


「あのとき……」


 コンラッドがこれをしまう際、すり替えたのだろうか。


「――」


 スキアは黙って短剣を鞘に戻すと、片膝をついたまま一礼し、腰帯の背に挿し込んだ。

 改めて金糸雀の鳥籠を引き寄せる。美しく繊細な囀りが零れた。


「この金糸雀は、ミラー閣下と私どもを繋いでおりました。今もまだ飛んでくれるでしょう」

「では」

「はい。王都に、救援を求めます」


 白く透けていたエアリディアルの頬に、血の色が差す。


「――王都に……」


 スキアはもう一度力強く頷き、エアリディアルへ、筆記具をお持ちではないか、と尋ねた。

 エアリディアルが文机の上を示すと、「ご無礼致します」と断り、そこに乗せられていた便箋を一枚小さく折り取り、硝子細工の筆と墨壺を用いて細かな文字を書き込んだ。


「金糸雀がミラー閣下へ届けます」


 スキアは自分の耳飾りを外し、その小さな細い筒に今書いた便箋の切れ端を入れる。金糸雀の脚に括りつけるのだ。


「必ず、指示を頂けるでしょう。王妃殿下を共にお救いする方法も、閣下であれば適切な指示を頂けるはずです」


 鳥籠の格子の扉を開く。金糸雀は横に渡した細い枝を伝い、スキアの指先に近付いた。


「王女殿下はなるべくこの部屋からお出になりませんよう。ベルゼビア公爵やブラフォードが何を言ってきても。そう、体調がお悪いと、そのように仰るなど」

「――いいえ」


 エアリディアルがそっとスキアの手に触れる。


「王女殿下?」

「その金糸雀は、どのような手段でミラー将軍のもとと行き来するのですか」

「はい」


 銀色の鳥籠を示す。


「同じ鳥籠がもう一つあり、鳥籠を介して飛ぶのです」

「では、鳥籠のないところへは行けないのですね」


 やや首を傾け、じっと考え込む。


「――けれど、貴女がわたくしの居場所を把握していれば、問題ありませんね?」

「殿下?」

「考えがあるのです」


 エアリディアルは自分の手をスキアの手の上に重ねたまま、淡い藤色の瞳でふわりと微笑んだ。


「その手紙には、こう記してください」







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