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第5章『地平の燎火』(20)

 

「失礼致します、エアリディアル様」


 視線を向けた時計の針は、正午を幾分過ぎている。

 朝から扉が開いたのは、まだ二度目だった。


 朝とは異なる、年配の女官が深く礼をして部屋に入る。昨日、母と引き離されてから毎回、それぞれ違う女官が入り、着替えや食事など必要な手助けだけをするとすぐに部屋を出て行った。

 今までは部屋付きの侍従が五人いたのだが、彼女達がどこにいるのか――母に付いたままでいてくれるのか、尋ねてもよく訓練された古参の女官達は無表情に目を伏せるだけだ。


 今回も同じなのだろうか、と顔を向け、エアリディアルは驚いて瞳を見開いた。

 女官だけではなく、数人の従僕達が大小の様々な箱や衣装箱などを次々部屋に運び込んでいる。

 腰かけていた椅子から立ち上がり、エアリディアルは運び込まれてくるものを見回した。


「それは――? 何の為のものですか?」


 女官や荷運びの従僕達はやはり言葉を返さずただ顔を伏せたが、それだけではなかった。

 四人の衣装官が、人型に着せ付けた裾を長く引く美しい衣装を、静かに運び入れる。

 最後に初めて見る青年が一人、部屋に入ると扉の前でエアリディアルへ深々と一礼した。


「御前、失礼致します、王女殿下。私はブラフォード様の秘書官、コンラッドと申します」


 これは、と問う前に、コンラッドはまた顔を伏せた。


「此度の御婚礼の為に、主のご用意した品をお届けに上がりました」


 そう言うと、コンラッドは運び入れた品全てを、手元の目録と照らし合わせていく。

 手慣れた様子で一通り確認を終え、壁際に控えていた女官達を全て退がらせると、コンラッドは改めてエアリディアルの前に膝をついた。


「王女殿下。どうぞ我が主の心尽くしをお受け取り頂けますよう」


 エアリディアルは頬を強張らせ、コンラッドを見つめた。


「そのようなものを、ご用意いただく必要はありません。このまま、全てお引き取りください」

「それは致しかねます。ブラフォード様にとっても必要な体裁でございます、十分なご用意は叶いませんが、お納め頂かなければ我が主の面目が立ちません。どうか」


 コンラッドは半身で振り返り、背後の品を示した。


 淡い藤色と淡い金の薄く艶やかな絹布を幾重にも重ね、繊細な金糸の刺繍を施した、長い裾を引く婚礼衣装。

 大小幾つものの衣装箱、装具品箱、宝石箱、美しい装丁の書物が収められた低い書棚や、絵画、楽器、銀の鳥籠の中で涼やかな囀りを響かせる金糸雀(かなりあ)、玻璃や陶磁器の食器や杯、葡萄酒や食事、菓子類に至るまで。


 コンラッドはそれらの品々へ膝を寄せると、宝石箱を一つ持ち上げ、二段ある下の抽斗(ひきだし)から、一振りの短剣を取り出した。

 エアリディアルの視線が短剣に吸い寄せられたのを見て取り、コンラッドは鞘をずらした。


「飾りでございます」


 その刀身は白い牙を加工したもので、色鮮やかな宝石を散りばめてあり、切っ先も丸く、紙を切るにも向かない。


「護り刀とお考えください」


 その丸みを帯びた滑らかな白い刀身は、自害の道などありはしないのだと、改めてそう突き付けているように見える。

 コンラッドは刀身を鞘に納めると、懐から取り出した布で短剣の全体を丁寧に拭い、先程の引き出しに再び戻した。


「御身の清めを。御婚礼までの二日間、私どもは必要最低限を除いて入室を憚りましょう」


 婚礼までの間に身を清める行為は婚儀までの一環としてあるが、今コンラッドが求めるそれは、(てい)のいい幽閉だ。

 二日後――狩月の二日が、ブラフォードの示した期日だった。

 それまで、この部屋から一歩も外に出る必要が無い、と。


「二日間、充分とは申せませんが、清めに御不自由の無い程度にとは考えております」


 コンラッドは表情の揺らぎを見せず、身を低く伏せた。











 今日で十月が終わりを告げ、明日にはもう十一月、狩月を迎えようとしていた。


 今現在、明日の正午を目処に、正規軍兵およそ四万が各方面からヴィルヘルミナへ移動している。

 王都でも正規軍や近衛師団の兵舎、士官棟のある王城第一層のみならず、王都外周の演習場でも兵達が軍馬の準備や武具の手入れに急がしく立ち働いていた。





「本隊は明日――、十一月一日の午前七刻、転位陣を用いて王都を出立する」


 議場の広い横長の卓の上にはヴィルへリア地方の地図とヴィルヘルミナの街の地図が二つ、広げられている。

 午後四刻、アスタロトは正面中央に立ち、指先を地図に落とした。

 王都から東へと指先を進める。


「まずは転位で東方軍の本隊が駐屯しているベンゲルに、これと合流する。ヴィルヘルミナを挟んで隊を配置してる東のレランツァへは、南方軍を始めとして各隊が明日の午前十一刻を目指して参集しているところだ。全軍が揃うのを待ち、二方面から同時に東の基幹街道を進む」


 指先を、ぴたりと止めた。そこが目的地だ。

 ヴィルヘルミナ。


「ここまで、八割交戦は無い――その読みでいいな?」


 ハイマンスが頷く。


「数の上で不利な状態にある以上、ベルゼビアが街から兵を出したとしても、我々はこれを包囲し無力化するだけです。それはベルゼビアも解っているはず」


 近衛師団のクーゲルもハイマンスに同意した。


「新たな国を樹立しようというのに、その最大の利点である農地を自ら踏み荒らす事はしないでしょう」


 この最終の軍議の場にいるのは、正規軍はアスタロト、タウゼン、参謀総長ハイマンス、ミラー、ケストナー。近衛師団は総将代理グランスレイ、参謀長クーゲル、そしてレオアリスとクライフ。


「そうだ。とは言え、自暴自棄にならないとも限らない」


 アスタロトはそう言い、再びヴィルヘルミナの街を示した。


「その前に、可能な限り無傷で陥落させたい」


 今回の戦いは、ベルゼビアにとってはもはや引き返しようの無いものだが、王都にとってもこれは、内戦という国土に(くさび)を打ち込む行為だ。

 最善は、街や周辺の農地、そして人々に被害を及ぼさず、この問題を終息させること――


「王妃殿下と王女殿下の安全を確保すること、それが一番重要だ。お二人を取り戻せば、ベルゼビアはもう諦めざるを得なくなる」


 タウゼンは対面にいる近衛師団の四人へ顔を向けた。


「近衛師団の動きが重要でしょう。作戦は――レオアリス殿」


 頷き、レオアリスはヴィルヘルミナの街の地図に目を落とした。


「昨日、内部で一通り検討しました。まず侵入経路とその手段ですが」


 ヴィルヘルミナの街はヴィルヘリア地方に位置する、王国東部で最も栄華を誇る都市だ。

 王都から馬で十日――およそ三百里、国内最大規模の人口、二万五千人が暮らしている。

 街は水路に囲まれ、北西街門は東の果てミストラ山脈に至る東の基幹街道が横切り、南街門は北東のグレンドル地方からヴィルヘリア地方を南へ抜けフェン・ロー地方へ至る、グレン・ロー街道が交わっている。


 街の前面は平野。背面は深い森。

 その森を背にする形で、小高い丘の上に領主ベルゼビア公爵の城を戴き、北西正面の平野に扇状に街が広がっていた。


「館のあるこの丘は完全に遮蔽物を無くし、防衛面を重視しています。ここをどう抜けるか」


 先ほどのアスタロトと同じように、右の人差し指で城にぐるりと円を描く。

 丘の下から城までの距離はおよそ九十間。通常時に駆け上がっても時計の長針が一つ、盤を刻むほどの時間は要する。見張りの兵に発見されるには十分な時間だ。


「陽動で視線を反らす――侵入にはこの場合、やはりそれが有効だと考えています」

「それでも、失敗した」


 ミラーははっきりとそう言った。

 潜入した東方軍の兵が東方公暗殺に動いたのは、およそ十日前――結果ミラーは部下を失っている。


「前回の失敗は、情報がベルゼビアへ抜けている事に私が気付かなかったからだが」


 潜入した部下からの、王妃とエアリディアルの情報が、ファルシオンへ。

 ファルシオンに近付いた、ベルゼビア派エスティア伯爵から、ベルゼビアへ。


「ただ今回の失敗はお二人のお命を脅かす事にも繋がりかねない。慎重にも慎重を重ねなくてはならないでしょう」

「ご指摘はごもっともです。その上でも、陽動は有効だと考えています」


 レオアリスはミラーの瞳を見た。


 前回の主たる目的はベルゼビアの暗殺だ。

 陽動の最大の目的も、既に潜入している部隊の動きを外で補う為だった。

 戦力差、それから時間。

 内部の動きから目を逸らさせること。


「今回の最大目標は、王妃殿下並びに王女殿下の救出です。その為にはお二人の前にいかに同時に立つかが求められます。そこで救出行動を補強する為に、城内の兵を分散させるせることを陽動の目的とします」


 王妃とエアリディアルを守れる位置に立つこと。


「お二人が同時にひと所にいてくだされば、その時が最も安全で確実ですが」


 ミラーが頷き、腕を組む。


「なるほど……だがやはり難しい作戦には変わりがない。お二人が同時にいる場を、どう成立させるか。前回の情報ではお二人の居室は南棟の三階だったが、今も同じ場所においでかは確証がない」

「部屋は分けてると考えた方がいい」


 アスタロトはそう言った。


「当然ベルゼビアだって、救出されるのを一番避けたいだろうからな。アルジマール、法術で居場所を探すことはできるか?」

「できるよ。でも防御陣に感知されるとその後がめんどくさい。アスタロト公の言うとおり最警戒事項だろうし、ベルゼビアの法術士長オブリースもそこそこの術士だしね」


 アルジマールが被きの下の瞳を細める。


「となると、探知、防御陣無力化、大将殿の転位を同時に、初手でやりたいな」


 瞳に虹色の光が揺れる。


「本当はお二人揃った所に大将殿と僕が行くのが一番だけど、今のところは同時に二点、降りるよう備えるのが現実的だね。大将殿がどちらに行くかを決めてくれ。もうお一人の所には僕とグランスレイ殿が行けばいいよね」

「お願いします。クライフ、一緒に来てくれ」

「任せてください」


 クライフは笑みを刷き、左腕を軽く胸に当てた。

 タウゼンが頷き、視線を上げる。


「であれば、レオアリス殿にはまず、王妃殿下の所へ」

「承知しました」


 目礼するレオアリスを一度見つめ、アスタロトは背筋を張った。


「明日だ。ベルゼビアがお二人を連れ去って半年」


 その場の全員が、それぞれ、卓上の地図へとやや屈めていた身体をアスタロトと同様に起こす。


「必ずお二人をお救いし、ファルシオン殿下のもとにお連れしよう」


 窓の外には早くも、暮れ始めた空が夕照の色をうっすらと漂わせている。











 エアリディアルは唇を結び、顔を伏せた。

 昨夜向かい合ったブラフォードの瞳の中の、昏い色。

 どのような感情がそこにあるのか、汲み取るのは難しかった。


 自分の中に善性を期待しているのかと。


(期待――期待、でしょうか)


 婚礼まで敢えて三日間の期間を設け、こうした品々を運び入れさせ、清めと銘打って周囲との接触すら遠ざける。それらがベルゼビアの意思なのか、ブラフォード自身は何を望んでいるのか――俯いていた面をそっと上げる。


 周りに誰の姿も無く他愛ない言葉を交わすことすら叶わないこの状況では、答えの出ないまま考え続けるしかできることは無い。

 何度となく、繰り返し考えていた。


(この身を利用され、アレウスの――ファルシオンの枷になるのであれば)


 さきほどコンラッドが見せたあの飾りの短剣であっても、命を絶つことはどうにかできるだろう。他の方法でも。

 周りには誰もいない。


(三日間の猶予は、わたくしが選択するための時間なのかもしれない)


 誇りがあるのならば、それを示せと。


 誇り――?

 国のため?


 それとも、ただの逃避だろうか。


(どれでも構わない。わたくし自身にとっては)


 大切なのは、自分の存在が国に何をもたらすのか。


 エアリディアルは宝石箱の抽斗を開け、赤い天鵞絨(びろうど)の内張りの上の短剣を手に取った。

 傍らの銀の鳥籠の中で、金糸雀(かなりあ)が澄んだ歌を奏でる。

 エアリディアルは短剣を手の中に収め、瞳を閉じ、束の間その響きに耳を傾けた。

 金糸雀の軽やかな囀りが、ほんの僅かにも心を慰めてくれる。


 響きに誘われて微かに笑みを浮かべ、エアリディアルは鳥籠に指を差し伸べた。

 金糸雀は止まり木をちょこちょこと歩いて、エアリディアルの指先をその嘴でついばんでくる。


「人に慣れているのね」


 空に放してあげようか、とエアリディアルは鳥籠を見つめた。

 ここにいて、ずっとこの籠の中で暮らすのは可哀想に思える。けれど一方で、籠の中で育ってきたのなら今更空に放されても、餌を取ることもできずに命を落としてしまうかもしれない。


「わたくしと一緒に、ここにいる――?」


 籠をもう少し、覗き込もうと身体を寄せ、ふと、エアリディアルはその向こうに瞳を落とした。

 鳥籠の置かれた長い衣装箱の蓋の合わせに、緋色の布が挟まっている。この品々の丁寧で細部まで気を配った仕立て方にしては、そんなところに布が挟まっているのはとても中途半端だ。

 鳥籠をそっと床に下ろし、エアリディアルは蓋に手をかけ、それを開いた。


 緋色が目に一面、飛び込んだ。

 思わず競り上がった悲鳴を、半ばで堪える。

 人――

 女が一人、横たわっている。


 衣装箱の大きさのせいで、やや窮屈そうに膝を曲げ、長い髪が頭と肩の周りを埋めている。

 その身体を、鮮やかな緋色が染めていた。







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