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第5章『地平の燎火』(14)

 

 クライフが庭園への硝子戸を開く。冷えた夜気が流れ込んで肌を撫でた。

 庭園には所々、灯された灯りが揺れている。その穏やかな色。

 庭園を覆って広がる紺色の空の、下の方は裾野のように広がる城下の街の灯りが僅かに光を添えている。


 ザインは硝子戸を出ると庭園への広い階段を降りる手前で足を止め、レオアリスを振り返った。

 背後で硝子戸が閉じられ、楽の音と騒めきも遠のく。


「何から話すか――いや、お前は何から聞きたい?」

「――」


 レオアリスはザインを見つめた。つい三日前、マリーンの家でプラドと向き合った時のように。

 プラドと比べると、ザインの持つ雰囲気は穏やかだ。

 緩い風が庭園から吹き付け、髪と正式軍装の背から流れる長布を揺らす。


「ベンダバールのことを、知っていますか」


 ザインは眉を上げたが、驚きはしなかった。束の間考えを巡らせる。


「そうだな――俺がルベル・カリマに戻った時の事は聞いたか」

「少し」

「ルベル・カリマの氏族長カラヴィアスは、ベンダバールが戻るかもしれないと、そう言った」


 驚くレオアリスを、ザインが見つめる。


「お前が幽閉された事で、ルベル・カリマはこの国に不信を抱いていた」

「それは、違う」

「解っている。だが物事は直接話さない限り、一面的にしか伝わらないものだ。お前の状況を知ればベンダバールは、お前をこの地に置いておかないだろうと」

「――」


 レオアリスはともし火に視線を流した。


「ザインさんは、プラドという人を知っていましたか」

「いや。俺が生まれたのはベンダバールが去った後だ。だがベンダバールの名は聞いたし、その中にプラドという名があったことも恐らく聞いただろう」


 プラドがジンについて言った事と、同じようにザインは答えた。

 氏族間の繋がりは、そういうものなのだろう。


「母の――」


 レオアリスは一度、息を止めた。


「どうした」

「いえ――、俺の母の、名前は」

「いや、彼女の名前は聞かなかった。三人、残ったとは聞いたが」

「――」

「彼女の名前を聞いたのは大戦後、しばらく経ってからだ」


 瞳を上げたレオアリスへ、ザインが笑う。


「ジンがレガージュへ、俺を訪ねて来てくれた事があった。結婚したってな。俺がお前の母君に会ったのはその一度きりだが、綺麗な人だったぞ」


 何となく、ザインの前にいた二人の姿が見えそうな気がする。

 絵姿で――、夢の中で見た父と、それから、記憶に朧げな、顔の見えない母の影――


「ザインさん、俺」


 自分を包んだ腕の、身体の、温もり――

 どくりと、鼓動が鳴る。


「俺は、母の――」


 目の前がチカチカと、明滅するように眩しくなった。

 鼓動の音。


「もしかしたら」


 膨れ上がった光が。


「レオアリス」


 強く呼ばれ、目を上げる。ザインが覗き込んでいる。


「――どうした」

「いえ……」


 息を吐き、呼吸を整える。鼓動はまだ大きな音を立てていた。


「――お前の母さんといえばな。相当に強かったらしい」


 ザインはレオアリスの背に当てていた左手を離し、口元に笑みを浮かべた。


「それと、俺が会った時はどこからどう見ても想い合っていたが、ジンの話じゃ最初ものすごく嫌われてて、斬られかねない勢いだったらしいぞ、ジンは。すごく嬉しそうに話してくれた」

「へえ……」


 感心とも呆れともつかない相槌を笑い、ザインはレオアリスを見た。


「俺からすると、お前はジンに似ていると思うが、そのプラドって奴にも似てるのかもな。どうだ?」

「一度しか会ってないから、まだわかりません」

「ベンダバールか――」


 ザインは改めてそう呟いた。

 引き締めた面を庭園へ向ける。


「氏族を飛び出した俺がこう言うのも何だが、俺はお前の氏族があって良かったと思うし、氏族と共に生きるのは一つの選択だとも思う。剣士の生は長い。生き方も違う」

「――」

「いずれ周りは、俺達を置いていく」


 ザインの口調はどことなく、今、二人の背後にある夜会のさざめきと、切り離されたところにあった。

 プラドの言葉が耳を(よぎ)る。


「貴方は、後悔した事はあるんですか。ルベル・カリマを出た事を」

「俺か。俺は無い」


 ザインはきっぱりと言い切り、「ああ、そうだ、思い出した」と懐を探った。

 革の袋を掴んで取り出す。紐で縛った袋の口を開き、中から小さな何かを手に取った。


「レオアリス。これを渡しておこう」


 ザインが差し出したのは親指ほどの大きさの小瓶だ。


「これは?」


 手のひらに置かれたそれは、広間からの灯りを受けてゆらりと中の液体を揺らした。


「俺の氏族が用いた薬だ。失った剣を戻すのに役立つ」


 レオアリスは驚いた瞳を上げ、ザインと、手のひらの小瓶と、それからザインの右腕を見た。

 ザインの右腕には、銀色の義手がはめられている。


「まあ失った腕は戻らないが、剣は戻った」


 ザインは笑い、ただし、と続けた。


「負荷はかなりある。俺は数日動けなかったからな」


 口調は冗談めかしているが、レオアリスの視線の先の液体は、鈍く透かす光の中に覚悟を問うているようだ。


「――有難うございます」


 レオアリスが小瓶を握り締めるのを見つめ、ザインは広間の明かりへ首を巡らせた。庭園の宵闇とは対照的に、明るく輝いている。


「そろそろ戻るか。お前と話したがっている者も多いんだろう?」


 苦労するんだろうな、あんな世界にいると、とザインは笑った。

 そのまま広間への硝子戸へ手を掛ける。僅かに開いた隙間からくぐもっていた楽の音が、流れ出る。

 レオアリスはザインの背を、呼び止めた。


「――ザインさん」


 ザインが硝子戸から手を離し、再び音は遠のいた。

 振り向いたザインの面は穏やかだ。


「どうした」


 穏やかな――


「プラドという人は、剣士を、失う者だと言いました」



『己の剣により、他者の剣により、その生により、常に失い続けるのが剣士という種だ。お前は身をもってそれを知ったはずだ』



 ザインもまた、それを知っている。


「貴方は――どうやって、乗り越えたんですか」


 夜の風は冷たく、少しずつ、肌の温度を奪っていく。

 少しずつ。


 ザインはレオアリスを眺め、慈しむように笑った。


「――今でも苦しいよ」


 レオアリスは顔を伏せた。


「すみません……」


 そうだ。

 あの海での激情を、レオアリスはその目で見ていた。


(三百年――)


 ザインの苦悩と激情を目の当たりにして、理解したつもりでいた。

 剣の主を失う苦痛を。

 同じ剣士として、剣の主を持つ者として、それを想像できるつもりでいた。


 でも、本当は、もっと、もっと、もっと――深い。

 深くて、そこにあるのかさえ判らない。


 鳩尾に手を当て、その上の服を掴む。奥歯が音を鳴らす。


「――俺は抱えてきた。レオアリス。でもそれは俺の選択で、執着だ。執念で意地だ。それでユージュを独りにしてしまっていた。俺はユージュを独りにした事だけは絶対的に悔いていて、だが、それでも、未だにフィオリへの想いを手放せないでもいる」


 ザインもまた、そこに過去を見るように、庭園へ視線を投げた。


「プラドという男が剣士を失う者だと言ったのは、その方が楽だと、彼の経験上考えているからかも知れないな」

「――」

「生き方は誰もが違う。お前はお前の生き方を、納得するまで考えて、選べばいい」


 ザインはレオアリスの肩を叩き、そのまま手を当てた。


「別に頼るなって言ってる訳じゃないぞ? 辛ければ周りに頼れ。俺にも。俺の今の答えがお前の答えなんかじゃないからな」






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