第4章『空の玉座』(24)
レオアリスが自分の前にいて、膝をついている。
ファルシオンは束の間、呼吸を忘れその姿を見つめていた。
とても、静かな時間に思えた。
戦いの傷痕は広場にくっきりと刻まれている。
正規軍兵や近衛師団隊士、飛竜、そして無数の西海兵達の亡骸。
ガウスの鉾が広場とそれを囲む建物を破壊し、ファルシオンの足元も石畳が削り取られ、瓦礫が散っていた。
その中に落ちた束の間の静寂は、だからこそ夢の中にいるようだった。
いくつもの想いが胸の内に浮かんでくる。
半年前のあの日のこと。
幾度も地下への階段を降り、その扉の前に立ったこと。
伏せた面は、どんな表情をしているのだろう。
あの夜、居城の庭園でファルシオンの前に膝をついていた姿が瞳の奥で重なる。
自分はここに相応しくないと、そう呟いた――
苦しみを呑み込んだその独白は、まだファルシオンの耳に残っている。
二つの手のひらに、握った指先が食い込む。
その言葉を言うのは、怖かった。
「――面を、上げよ」
鼓動がとても早い。
あの時、ファルシオンの言葉にレオアリスは顔を上げなかった。
翌朝の謁見の間でも。
レオアリスの肩が揺れる。
それからゆっくりと、身体を起こした。
「――」
瞳の色。
目を覚ましたのだ。
その一言が心を占めた。
本当に。
目を覚まして、そして、
目の前にいる。
不安の中から喜びが、胸の奥に溢れるように湧き上がった。
一歩近寄りかけたファルシオンの足を、けれどレオアリスのやや掠れた声が留めた。
「王太子殿下――」
その声を搔き消し、ふいに空に歓声が広がった。
見上げれば飛竜達が広場の上を旋回し、兵士達が上げる歓声が広場へと振るように響いている。
「上将が――王の剣士が戻ったぜ!」
クライフは飛竜を旋回させながら、その背で何度目か、喜びに腕を突き上げた。
周囲の隊士や兵達がそれに倣う。
「あとは掃除だ! 街中の西海兵を一掃してやれ! リム!」
少将リムが乗騎を寄せる。
「部隊を展開しろ。指揮官がいない今、誘導も容易い。さっさと終わらせて、それから上将のとこに行こうぜ!」
「上将ってもう言うなって、」
「あ?!」
飛竜の羽ばたきの向こうでクライフが問い返す。
「いえ! 承知しました!」
喜びと苦笑を同時に浮かべつつ、リムは左腕を胸に打ち当て敬礼し、飛竜の手綱を繰って騎首を西へ向けた。
王都の各地区に侵入した残兵を排除して、ようやく、完全に退けたと言える。
クライフは自身もリムを追って広場上空を離脱する前に、グランスレイと、その傍らのロットバルトの乗騎へ飛竜を寄せた。
「代理、上将をお願いします。終わったらすぐ行きますんで! 絶対! フレイザーも!」
「ああ」
短く、だがはっきりと頷くグランスレイの横を抜け、次にロットバルトの乗騎に近付く。
「ロットバルト!」
話をするほど時間が無い。だがその口の端に微かに刻まれた笑みを見て、クライフはまあいいかと片手を上げた。
駈け抜けざま、ちらりとそこに飛竜を滞空させた顔触れを確認する。
正規軍タウゼン、近衛師団グランスレイ、法術院ブレゼルマ。
タウゼンは伝令兵を集め、指示を出している。
「大公閣下、それから地政院ランゲ侯爵へ一報を。状況が整ったら合図を送ると」
ロットバルトが提示した策では、それぞれの動きを合わせる事、すなわち五者の緻密な連携が最大の要となる。
「各隊は予定通り残兵を運河へ追い込め。追い込んだら合図を」
法術院副院長ブレゼルマを見る。
「ブレゼルマ殿、法術を展開し、住民と街への被害を最小限に抑えて頂きたい」
「お任せください。全て整ったのを確認後、上空へ光陣を敷きます」
ファルシオンは頭を反らし、金色の瞳を見開いて上空を見つめていた。
正規軍と近衛師団の飛竜達が、旋回しながら広場上空から四方へと散開して行く。
この場は収まったが、街中には西海の兵が数多く侵入したままで、その対処に向かうのだ。
けれど王城の謁見の間での会話を思い出し、きっともう大丈夫だと、そう思う。
明日の朝はまた、王都を朝日が照らす。
飛竜の姿を見送り、ファルシオンはレオアリスへと顔を戻した。
まだそこにいることにほっとして――レオアリスが先ほど言いかけた言葉を聞かなかったことに、なんとなくほっとして――、それからレオアリスの肩の抑えた呼吸に気付き、ぎゅっと胸を掴まれた。
半年前の負傷は、まだ完全に癒えていないのだ。
「レオアリス、休んだ方が――」
「そこで一旦、足を止めてもらいたい」
やや緊張を帯びた声が耳に届き、ファルシオンは何事かと声の方へ視線を上げた。
ファルシオン達の少し手前にグランスレイが飛竜を降ろしていて、広場を近付いてくる男へ、立ちはだかるように身体を置いている。
ファルシオンは緊張に金色の瞳をやや開いた。
あの剣士の男だ。
レオアリスが立ち上がって振り返り――、一度、その身体がぐらりと揺れる。
「レオアリス」
咄嗟に手を伸ばしたが、レオアリスはもう背筋を伸ばし、一歩、ファルシオンの前に出た。
ファルシオンは近付いてくる男よりも、レオアリスの背中を見つめた。呼吸を抑えた背中は、その内にまだ苦痛があることを伝えてくるようだ。
男は構わず歩み寄り、ただグランスレイの斜め前で足を止めた。ファルシオン達からは、二間ほどの間がある。
上空から更に数騎、近衛師団の黒鱗の飛竜が広場へ、ファルシオンの周囲へ降りる。
男の視線が真っ直ぐに、グランスレイでも、ファルシオンでもなく、レオアリスへと向けられた。
「――レオアリス」
名前を呼んだその響きは、ファルシオンの知らない何かを含んでいるように思えた。グランスレイは何か問いを発しかけ、だがレオアリスを見てそのまま口を閉ざした。
レオアリスが半歩、右足を前へ出す。
「貴方は――剣士、なのか」
そう問いかけたレオアリスの声も、戸惑いを滲ませている。
(剣士――)
ファルシオンは男を見つめた。
そうだ。
レオアリスと同じ、剣士。
その腕の剣はもう姿を消しているが、剣の苛烈さは目の奥に刻まれ残っている。
けれど、彼がここにいたのは、何故だろう。
男は他には一切目もくれず、同じように右足を半歩踏み出し、レオアリスと向き合った。
「――俺は、ベンダバールのプラドという」
低く、感情を覗かせない声がそう告げた。
ファルシオンの記憶の中に、以前のスランザールの言葉が音を持ち、甦った。
「ベンダバール……」
そう呟いたのはファルシオンだ。プラドとレオアリス、二人がファルシオンにそれぞれの視線を落とす。
ファルシオンは二人の間の瓦礫を見ていた。
自分の脳裏の、スランザールの姿を。
ベンダバール。
かつてこの国にいた、四つの剣士の氏族の一つ。
アルケサスの氏族、『ルベル・カリマ』。
『カミオ』。
レオアリスの氏族である、『ルフト』。
そして、『ベンダバール』。
ベンダバールは失われたと――そう考えられていると、スランザールはあの時言っていた。
レオアリスはファルシオンに落としていた視線を上げ、再びプラドと向き合った。
「助勢を頂いた事に、まず感謝を。ただ、貴方が何の事を言っているのか、良く判らない」
「レオアリス――」
ファルシオンはレオアリスの左手に触れ、ぎゅっと握った。その手が僅かだが握り返してくれた事にほっとする。
プラドと名乗った男は、グランスレイの横を抜け、二人へと、ゆったりと歩いて来る。
グランスレイ、そして隊士達が剣に手を近付ける。
レオアリスはファルシオンの手をそっと離し、その手を身体の脇に落として立った。
「止まってくれ」
「ベンダバールは氏族名。お前のもう一つの氏族――母方の氏族の名だ」
「氏族――?」
そしてそれより、母――と――、その言葉をレオアリスは微かに呟いた。
そして首を振る。
「どういう……一体、何の話をしてるんだ」
「お前の両親は、お前にその事を教える時間も無かったのだったか」
プラドはあと数歩の所まで歩き、そして立ち止まった。
「俺はお前の母、アリアの兄だ」
レオアリスは驚きに呑まれ、瞳を見開いてプラドを見つめている。
ファルシオンは咄嗟に、レオアリスに抱きついた。
プラドがレオアリスへ、左手を伸ばす。
「俺と来い」
その言葉が、ファルシオンを叩き、心をぎゅっと掴む。
「氏族のもとへ連れて行く」
「――だ、だめだ!」
ファルシオンはぱっと駆け出しプラドの前に立ちはだかった。
「殿下!」
レオアリスがすぐにファルシオンを引き戻す。ファルシオンはレオアリスの腕越しに顎をぐっと上げプラドを見据えた。
「レオアリスは――レオアリスは」
「考えるのはレオアリス自身だ、王太子殿下」
プラドの感情を見せない響き。
「もうルフトは無い。であればお前が戻る氏族は、ベンダバールだけだろう」
レオアリスはじっとプラドを見つめ――もしかしたらその意識に、腕の中のファルシオンは無かったかもしれない――首をゆるく振った。
「――ルフトも、ベンダバールも、俺は知らない。戻ると言われたってわからない」
肩が苦しそうに上下している。
ファルシオンはレオアリスを支えたくて、自分を抱える腕をぎゅっと掴んだ。
「――俺はしばらく王都に滞在する。また改めて問おう。良く考えて答えを出せ」
そう言うと、プラドは自身に集まる警戒の視線に目もくれず、踵を返した。
広場の出口にロットバルトが飛竜を降ろしている。ロットバルトは近づいて来るプラドを、視線で追った。
「貴方を歓待する用意をしましょう。王城へ、御同行頂けませんか」
「不要だ」
ロットバルトはそれ以上は言わず、路地へと歩いて行くプラドの後姿を見送った。
ファルシオンの声に振り返る。
「レオ――」
ファルシオンは身を捻り、両腕を伸ばした。
レオアリスの身体がぐらりと傾ぐ。
駆け寄ったグランスレイの腕が、その身体を支えた。




