第4章『空の玉座』(21)
空に広がった黄金の花が、その花弁を夜に散らす。
ファルシオンの身体を包んでいた金色の光が揺らぎ、消える。
けれど最後にその光は残っていた住民達を包み、彼等を移した。
地上へ、落ちる。
地面に叩きつけられるはずのファルシオンの身体を受け止めたのは、皮肉にも西海の使隷の群れだった。
深い水のように身体が沈む。
痛い。
痛みが熱となって灼いている。
鉾が腹部をくり貫いてしまった――
手が腹部に触れる。
ある。
安堵と、それでも消えない重い痛みの中、黄金の膜が鉾を防いだのだと分かった。
身体が浮かぶ。
水面――使隷の波の、上へ。
「っ」
息を吸い込んだ瞬間、腕に痛みが走り、ファルシオンの身体は宙に吊り上げられた。
目の前に、黒い洞穴のような目がある。
底の無い、ただの闇を湛えたそれ。
鉾を投げたあの死者が、ファルシオンの腕を掴んで吊り上げ、覗き込んでいた。
身体の奥底から痺れが立ち昇る。
逃げなければと思い、けれどその痺れと全身の痛みに、動けなかった。
死者の口元が、メリメリと音を立て、耳と思しき位置まで裂けていく。
裂けた顎には何列にも連なった鋭い歯が、無数に並んでいた。
漂う腐臭とともに、無数の歯はファルシオンに近付いた。
掴まれた左腕の、肩へ。
肩に歯が触れる。無数の尖った石を押し当てられた感覚があった。
肩に、歯が食い込む。
再び黄金の膜がファルシオンの身体を包んだが、それも頼りなく引き攣れ、揺らぐ。
ファルシオンの喉から苦痛の悲鳴が上がった。
自分を包むこの膜が破れれば、この怪物は、自分の肉を喰らうのだろう。
ファルシオンの身体を、ばらばらに裂いて。
喰らう。
――怖い。
悲鳴を上げているのかもわからない。
――助けて
震える右手が胸元を掴んだ。
そこにある、青い石――
(レオ――)
肩の痛みが、全身を捉える。
そのまま、食いちぎられて
『待て』
食い込む力がふいに、失せた。
痛みが一瞬薄れ、それから泉のように再び湧き上がった。
どくどくとうるさく鳴り響く鼓動の向こうで、声がしている。
『ファルシオンを捕らえたら、私の前に連れて来るはずだったぞ、レイモア』
霞む目が映したのは、新たな西海の住人の姿だ。
いびつに突き出した後頭部と、ぬらりとした皮膚。
薄い笑みを浮かべた頬。
「アレウス王国王太子殿下、ファルシオン殿とお見受けする。我が名は三の鉾第二序列、ガウス」
ガウスは青白い頰に笑いを刻み、最大の敬意を表すようにファルシオンの前に一礼した。
レイモアにファルシオンを吊り下げさせたまま。
「これから御身に目通りを願いに行くところであった――。殿下御自らのお出迎え、重畳と存じ上げる」
今までの恐怖と痛みに、視界がぼやけ揺れている。
けれど突き刺さるような悪意は明確に分かった。
ガウスはその視線を空へ上げた。
夜空を叩く飛竜の羽ばたきが耳を打つ。
「迎えの行列も来たようです」
「ファルシオン殿下――!」
クライフは飛竜の手綱を繰り、広場の上を滑空させながら眼下を見下ろした。
八方から通りが集まる広場に、西海兵が目視でおよそ三百。そして使隷。
広場へ続く八本の通りも全て西海兵が埋めている。
広場の中央に金色の光がある。ファルシオンだ。
安堵を覚えたのも束の間だった。
ファルシオンの腕を捕えて吊り下げている影が一つ、その前にもう一人、いびつに突き出した頭を持つ男がこちらを見上げている。
手綱を引き、飛竜を浮揚させる。手綱を握る手には自然、力が篭っていた。男が纏う気配の為だ。
「何だ、あいつは」
「状況を見れば指揮官――将軍位以上か、三の鉾か」
クライフは右隣に飛竜を寄せたロットバルトを見た。
「確かに、前に見たビュルゲルって奴と良く似てやがる。殿下は――」
「通りからの侵入は西海軍の層が厚く、攻める兵力も分散される。面で対せるのはこの上空のみ――夜間では飛竜も展開させにくいが、手としてはそれしかないでしょう」
「お前の策は」
「あれはこの状況には向きません」
グランスレイもまた、乗騎を浮揚させ広場を見下ろした。タウゼンと、そして法術院副院長ブレゼルマが飛竜を寄せる。
「数では押せんな。法術が頼りだが――ブレゼルマ殿、法術は」
「殿下の御身が近すぎます。あれでは対象を捉えようにも、殿下を巻き込んでしまいかねません。まずはやはり殿下をお救いせねば」
広場上空に旋回する飛竜は、目視できるだけでも五十を超える。ファルシオンは腕を吊り上げられた痛みを堪え、彼等を見上げた。
周囲で西海兵と使隷が騒めく。
『どうした。ただ囲んで眺めているだけでは、お前達の国主は救えぬぞ。それともこちらからの奏上が必要か』
飛竜では周囲の建物が邪魔をし、この広場への攻撃は難しい。矢はファルシオンをも傷つけかねない。
手が無いのだ。
ガウスは嘲りの笑みを広げ、手にしていた鉾を、上空へ投げ上げた。
鉾が高速で回転する。
その軌道上にいた飛竜数騎を切り裂き、そのまま一回転ごとに一振り、残像のように分裂した。
ただの影ではなく、実体だ。
中央の鉾が更に回転し、分裂した鉾を回転砲の如き速度で打ち出す。
鉾は空の飛竜を切り裂き、貫き、建物の屋根を、壁を破壊する。
再び鉾が回転する。
次に現れた鉾は十三。
切っ先を下に落下する。
ファルシオンへ――
「殿下――!」
突き立つ寸前で、鉾はびたりと静止した。
切っ先はファルシオンをぐるりと囲んでいる。
あたかも鉾の檻のようだ。
クライフは眼下の光景に奥歯を軋らせ、掴んだ槍を投擲する寸前で辛うじて止めた。槍も矢も、ガウスの鉾に防がれるだろう。そして到達する前に、あの鉾の切っ先がファルシオンの命を奪う。
「殿下――くそ」
ファルシオンを包む黄金の光が、一瞬、誰の眼にも分かるほど薄れた。
「長く保たねぇ」
クライフは槍を掴む腕を再び引き――
不意に、広場の一角が光を発したかと思うと、消し飛んだ。
「何だ! 新手――!?」
飛竜の手綱を繰り、クライフは光を発した場を見据えた。
「じゃねぇ……」
新手では無い。だが、正規軍でも法術でも無い。
南側の路地を塞いでいた使隷と西海兵が、閃光とともに文字通り弾き飛ばされたのだ。
路地の入口に一人、男が歩み出る。
「何だ、あそこの奴――」
その男の姿がやけにはっきりと瞳に捉え、それが彼自身の纏う光の為だと判る。
見覚えがあった。
クライフ達が、常に傍らに目にしていたものと、同じ光だ。
剣光。
男の右腕に顕れている、白刃。
「剣士? まさか」
ファルシオンは鉾の檻の中で、束の間恐ろしさを忘れ、瞳を見開き、男の姿を見つめた。
剣士――レオアリスではない。
けれど、よく似ている。
どくりと鼓動が鳴り、ファルシオンはその胸の位置に手を当てた。
『剣士だと――?』
ガウスの足元に黒い塊が音を立てて落ちる。視線を足元に向け、ガウスは顔を歪めた。
プーケールの首だ。
『役立たずが』
怒りを吐き出し、ガウスは再び鉾を投げ上げた。
回転し、分裂し、その全てが路地から現われた男へと狙いを定める。
男――プラドは広場を埋める西海兵にも、自らに向けられた鉾の数にも、鉾がファルシオンを囲んでいる状況にも構わず、踏み込んだ。
その一歩に、ファルシオンを囲む鉾が切っ先の輪を狭める。
「待て――ッ」
クライフは槍を肩に持ち上げ、その切っ先を、プラドへ据えた。止める為だ。
だがクライフが槍を放つ前に、空を切って飛来した別の槍を、プラドの剣が弾く。
槍を放ったのはタウゼンだ。
「待て、剣士――! 手出しをするな!」
プラドは踏み込む足を止め、飛竜の上のタウゼンを見上げた。
「――無意味だな」
呟きを搔き消し、ガウスの哄笑が広場を揺らす。空気を叩くその響きに、広場を取り囲む建物の窓が震える。
「そう、そうせざるを得まい、王子の命が惜しければな!」
嘲笑が青白くぬらりとした面を彩る。
「貴様等は自らの王も守れず、そして今また、その王子も守れぬのだ」
「黙れ――」
タウゼンは激しい怒りを以って、ガウスを睨み据えた。
「卑怯者が! 王太子殿下を解放せよ!」
「どう言おうと貴様等の王子は既に我が手の内――私がそうしようと思えば、いつでも命を断てる。そして手も足も出ないのが貴様等の立場だ。何とも不甲斐ない事では無いか、さぞ悔しかろう。だからそうして吼えるしかないのだ」
「好き放題言いやがって」
クライフは手の中の槍の柄を握りつぶしそうなほど、拳に怒りを込めた。
だが、手立てがない。
ファルシオンを包む槍の檻を破壊しない限り。その時間をガウスは与えないだろう。
誰もが怒りを嚙み殺し動けずにいる中、プラドだけはもう一歩、踏み出した。
「ま、待てって!」
後ろから肩を掴んだのはベイルだ。
「いや、まずは殿下を助けねぇと意味がないだろ!?」
ベイルを冷めた眼差しが見据える。容赦のないその光にベイルは唾を飲み込んだ。
「動かなくてもお前達の王は殺される。ならば待つ意味こそ無い。むざむざと殺されるのを眺めているよりは、今動け」
プラドの剣が白く光を増す。その光が触れるだけでベイルを容易く切り裂きそうだ。
「で、でもお前さん、殿下と面会すんのが目的なんじゃ――」
「国が残れば国と話をすればいい。国が滅べばその必要も無い」
「そ――」
ベイルの手が空を掴む。
「止まれ!」
クライフはプラドの前方へ、槍を力任せに投げた。
『私が止めてやるぞ』
クライフの槍よりも早く数十条の鉾がプラドへと降り注ぎ、路地の前の石畳を砕く。
沸き起こる土煙りの中、プラドの剣が幾筋かの鉾を切り落とし、だがプラドは一旦後方へ引いた。
回転する鉾が、更に新たな鉾を作り出し、プラドを追って路地へ、次々と降り注ぐ。
ガウスの哄笑が辺りを揺らす。
『さあ、終いだ。貴様等も、王太子も、ここで死ぬ――我等西海が、この地を支配する!』
無数の鉾が上空へ切っ先を向ける。
ファルシオンを囲む鉾もまた、その輪を狭めた。
「殿下――ッ!」
鉾の切っ先に押し込まれ、辛うじて身体を覆っていた黄金の光が明滅する。
ぎりぎりに切っ先を押し止めていた光が、三度の明滅の後――
消えた。
「――!」
それはほんの、刹那の間だっただろう。
ファルシオンの胸元に収めていた銀色の小さな護符が、鎖を微かに鳴らし浮き上がった。
護符を追った黄金の瞳が、震えるように見開かれる。
鼓動が、どくりと、鳴った。
以前、アスタロトから貰った護符だ。護符は二つあった。
ファルシオンはその一つを、眠っているレオアリスに掛けた。
その護符が光っている。
アルジマールがそこに掛けた法術は、転位。
呼ぼうとしている。
「だめだ」
咄嗟に零れたのはその言葉だった。
レオアリスは目覚めていない。
まだ眠っていて――そんな状態でここに、呼び寄せてしまったら――
ファルシオンは護符を両手で掴んだ。
光が増す。
「だめだ――、止まれ――!」
もう一つ。
護符の光を貫き、ファルシオンの胸元で青白い光が輝く。
ファルシオンを押し包み、切り裂こうとしていた十数本の鉾は、刹那の無音の後、全て砕けていた。
静寂が辺りを包む。
言葉も、音も、呼吸すら失われたその一瞬、ファルシオンは瞳を上げ、そこにある光を食い入るように見た。
鼓動が鳴る。
あの夜、居城から庭園に見つけた輝き。
月の光のように、青い。
ずっと――、ずっと見たかった光だ。
「――」
そこに。
レオアリスが、立っていた。




