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第4章『空の玉座』(17)

 

 倒しても、倒しても、死者達は起き上がってくる。

 腕を失い、首を失っても、身を起こせる限りは何度も起き上がった。起き上がる事が叶わないものは、地面の上で蠢いている。


「何なんだ……ちくしょう」

「俺達もここで死んだら、ああなるのか」

「嫌だ――」


 悍ましさと恐怖に呑まれ、兵達が一人、また一人と後退する。

 兵列は歪み、気付けばアスタロトの前にはもう方陣の一部隊しかなかった。

 第五大隊大将カッツェは強張った面持ちでアスタロトへ騎馬を寄せた。


「アスタロト様、お退きください。これ以上は」

「私は――」


 アスタロトは唇を噛んだ。

 本当ならばこんな時にこそ、アスタロトが兵達を守るべきなのだ。

 けれど、手のひらに揺らぐ炎を思い描く事さえ、今のアスタロトには難しい。


 以前は容易く、呼吸をするようにできていた事だ。炎を創り出し、自分の意志をその揺らめきに載せる事に、何の疑問も感じなかった。

 今は何も無い。


(でも私は)


 右手に硬い鱗を握りしめる。


 『窮地を一度だけ救うだろう』と、カラヴィアスは言った。


(私は)


 瞳を固く閉じ――、それを開く。


 一度だけなら、ここでなくてどこで使うのだ。

 もし、炎が戻らなくても――、ここで兵達を守れるのならば、それがこの一度でいい。


 アスタロトは駆け出した。


「公!? いけない、お戻りください!」


 カッツエが追いかけて来るのが判る。だからアスタロトは、もっと強く、兵達の間を擦り抜け地面を蹴った。


 手の中の鱗が、とても熱い。

 そして、懐かしい。

 アスタロトの手のひらが解け、そこから赤い陽炎が立ち昇る。


 かと思った瞬間に、それは、一つの姿を形造った。


 夜へ広がる紅く輝く翼。

 ゆっくりと(もた)げられた長い首。

 それらは全て、揺らぐ炎でできている。


 石榴(ざくろ)の輝きの、連なる鱗。


 驚きの声が兵達の中に広がる。

 現われたのは、小屋ほどの体躯の竜だった。


「――竜……」


 アスタロトは驚きに瞳を見開き、目の前のそれを見つめた。

 ゆらりと透ける。


 はっとして、アスタロトは辺りへ首を巡らせ、叫んだ。


「みんな、退け――! ランドリー! 退け!」


 竜の姿に呑まれていたランドリーは、その声に我に返り、手綱を引いた。

 一度迷い、地面でもがいているヴァン・グレッグだった身体を見据え、馬体を返す。

 片手を上げ、撤退を示す。


 炎の竜はその喉から、紅蓮の炎を吐き出した。

 迸る炎は圧倒的な熱を放ち、夜の中、血と腐臭の入り混じる丘を磨り硝子でできた灯火のように、紅く淡く美しく照らし出した。


 そこに停滞していたものを、全てのみ込み、清め、浄化するように。

 彼等の死の苦痛、死して尚縛られる彼等の無念、同僚と剣を交える苦悩、そうしたもう決して表出する事の無い彼等の想いを、夜の中に浮かび上がらせ――拭い去る。

 苛烈に焼き尽くす炎でありながら、やさしく穏やかな光にも見えた。


 浄化の炎。


 アスタロトの真紅の瞳に輝く炎が映る。




 炎が消え去った時には、丘の上に死者達の姿は無かった。






「ようやく逝けたか――ヴァン・グレッグ」


 ランドリーは一人、口の中で呟き、辺りへ視線を巡らせた。

 アスタロトを称える歓声が丘に響いている。


「公――」




 アスタロトは炎の竜が消えた跡をじっと見つめていた。

 丘を震わせている兵達の歓声。それはアスタロト自身が放った炎だと思い違いをした歓喜だったが、アスタロトはそれが解っていても、不思議と苦痛ではなかった。


 美しい炎だったと、心底思う。

 とても、美しい。


(そうだ)


 炎は、とても美しい。

 アスタロトはその炎が、とても好きだった。

 自分に常に寄り添っていた炎。


 手のひらを見る。

 あれほど硬かった鱗は手の中で砕けていた。

 念じてもまだそこに炎は生まれなかったが、取り戻したいと、素直にそう思った。









 予定していた部隊全ての転位が完了したとファルシオンの元に報告があったのは、半刻ほど前の事だ。

 法陣の光は夕闇にゆっくりと消えて行った。


 どれだけの兵士が帰ってきてくれるのか――、ファルシオンは椅子に身を預け、それを考えていた。

 スランザールが黙ってファルシオンの向かいに座っている。

 スランザールはファルシオンと話すためにいてくれるのだろうと、わかっていた。


 何か話をしたい。けれど何を話すのか。

 自分が今、何ができるのかを――

 何度もその話をしてきているけれど、見つかっていない。


「――スランザール……」


 当てもなく絞り出したファルシオンの声に、廊下を駆けて近付く足音が重なった。


「何事じゃ」


 スランザールは眉を寄せ、扉へ向き直った。扉の横に控えていたセルファンも厳しい眼差しに変わる。

 扉を忙しく叩く音、開いた戸口で近衛師団隊士が膝をついた。


「セルファン大将。正規軍タウゼン副将軍閣下から、急報が入りました」


 隊士の面は青ざめ、強張っている。

 嫌な予感というべきものが室内を占める。


「お、王都周辺に……、西海軍が出現したと――」


 ファルシオンは息を飲んで凍りつき、それから窓の外を振り返った。


「――!」


 鼓動が急激に高まり、胸を叩く。

 夕闇に包まれた王都の、南――

 暗く沈んだシメノスの河面から、尚黒々とした塊が溢れ出し、零した墨のように王都の街壁へと広がっている。


 街壁の上の篝火が慌ただしく揺れていた。








 黒い帯のように景色の中に沈んで行くシメノスは、その川面から次々と西海の使隷と西海軍兵士を溢れさせた。


 三の鉾、第二序列ガウスはシメノスの水面に立ち、正面に小山のごとく聳える巨大な街の影を、銀色の(まなこ)を細めて見上げた。


(三百年――いいや)


 この場に、アル・ディ・シウムに兵を率いたのは、かつての大戦も含めて数百年の間、ガウスが初めてではないか。

 アレウス国の喉元まで迫ったのは。

 海皇でも、ナジャルでもなく。


(この、私だ――)


 ガウスは湧き上がるどす黒い歓喜を、じっとりと舐めた。


『アレウスは主力を吐き出した。もはやこの王都を守る軍すら、満足に無い状況だ』


 ガウスが率いた兵は三万。

 サランセリアに展開する本隊とは別動部隊であり、三の鉾直属の精鋭部隊だ。

 ガウスの口元にせせら笑いを浮かぶ。

 全て上手くいった。アレウス軍を西の辺境に引き付ける今回の作戦は。


『王都にまで現れると思っていなかったか? これほどまでに腑抜けているとは、いっそ哀れを催すな。――レイモア、プーケール』


 水面から現われたのは、ガウスの前に三の鉾第二序列に就いていたレイモアだ。

 そしてプーケール。サランセリアから二千の兵を率いている。

 レイモアは幽鬼のように生命の無い双眸を、ガウスへ向けている。


『貴様らは運河から内部へ侵入し、王都を破壊しろ。そしてファルシオンを捕え、我が前に引き立てよ』









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