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第2章「風姿」(13)

 ルシファーとアルジマールとの間の大気が、ぐにゃりと歪む。

「まずい」

 剣を出そうとして両手が塞がっているのに気付き、レオアリスは二人を預ける為にカイを呼ぼうとした。その前にアルジマールが嬉しそうな声を上げる。

「法陣だ!」

「え」

「辿るよ―― !」

 一言そう言って、アルジマールはルシファーの伸ばした手と合わせるかのように、空間の歪みへと、左手を伸ばした。

 レオアリスの瞳が歪みの中から白く浮かびあがる法陣円を捉える。その向こうに揺らぐ景色に見覚えがある。

(あれは)

 不意に、足元から強烈な気配が沸き起こるのを感じ、レオアリスは下方へ視線を転じた。

 もうすぐそこに迫り三人を飲み込むのを待つ海面――その奥だ。

 何かが陽光を弾いた。腹の底がぐっと重くなる。

 まずい。

「――アルジマール」

「もう飛ぶ」

 アルジマールが法陣に触れた瞬間、法陣は目を眩ます光を放った。




「――」

 海面に爪先が付くぎりぎりの所に浮かび、ルシファーは束の間伸ばした手の先を見つめていたが、やがて息を細く吐き出し、手を下ろした。

 アルジマールの姿も、ユージュの姿も、レオアリスの姿も光に包まれるように消えた。

 後に残ったのは崩落して無惨な断面を晒した岸壁と、すぐ足元で岩や土砂を飲み込みうねる海だけだ。

 激しい怒りは荒れた海が取って代わるかのように薄れていく。

「運のいいこと――。まあいいわ、元々この段階でレオアリスを殺す予定では無かったし」

 うねり盛り上がった波がルシファーの爪先を濡らす。ルシファーは視線を落として海面を眺め、唇に薄く笑みを刷いた。

「騒がせたわね――」

 海面のすぐ下――境界ぎりぎりのそこを、銀色の鱗を持った途方もなく長い何かがずらりと陽光を弾きながら動いていく。

「それとも少し残念だったかしら? ナジャル。ヴェパールを斬った相手だものね」

 それは鱗を閃かせながら、長い身をくねらせ、次第に陽の光の届かない海の奥へと消えていった。

 ルシファーは深い青に隠れていく姿を見送り、顔を上げるとレオアリス達が消えた空間へ視線を戻した。

「絵は、取り戻したかったけど――まああんな物では流れは変わらない」

 ただあの絵が人の目に触れると思うと苛立つだけだ。

 本当はこの館を去った日に、館ごと消し去ってしまうべきだったのだ。それをせず後生大事に残しておいたのは、ただあの時にだけあった感傷からに過ぎない。

 もうほとんどが曖昧な記憶になっている。敢えてそれを取り戻そうとは、この三百年考えて来なかった。

 あの絵。

 どんな顔をしていたのだったか――

 ふっとそんな想いが浮かびかけ、ルシファーはそこから意識を逸らせた。

 まあ不愉快極まりないが、芽を出し始めた花へ、水をやるのだとでも思えばいい。

 あの法陣円の向こうに、一瞬だが、少女の姿が見えた。

「……アスタロト――」

 ルシファーは呟き、そして唇に微かな笑みを刷いた。





 天幕内を染めた光が急速にしぼみ、それと入れ替わるようにして法陣の中央に人影が浮かんだ。

 天幕にいた全員がルシファーの出現を予期して咄嗟に身構え、それから光に眩んでいた視界のを取り戻した瞳を見開いた。

「――上将?!」

「レオアリス……!」

 そこにいたのはルシファーでは無く、レオアリスと、アルジマールだ。天幕内が騒然とする。

 駆け寄ろうとして足を踏み出しかけ、アスタロトは立ち竦んだ。

 レオアリスは上体を支えるようにして床に左手をつき、右腕には誰かを抱えている。全身、肩と言わず腕と言わず、裂傷を負っていた。血が赤い衣装を更に深い赤に染め、半ば乾きかけている。

「上将!」

 レオアリスはやや億劫そうに頭を巡らせ、傍らに膝をついたロットバルトやクライフ達を認めると、全身の空気を吐き出すように息を吐いた。

「――ロットバルト。ここに戻ってきたのか、アルジマール院長」

「危なかったねー」

「危ないどころじゃない。あと一歩遅ければ終わりでしたよ」

「半分は君がルシファーを斬ろうとしないからだろ」

 アルジマールのその言葉に、アスタロトは息を飲んだ。

(ファー)

 斬ろうとしなかった。

 心臓が止まりそうだ。

 アルジマールはきょろきょろと頭を振り向け、老法術士を見つけると破顔した。

「あ、ドーリ、法陣は君か。君の法陣のおかげで助かった、礼を言うよ」

 老法術士はゆっくりと腰を曲げ、頭を深く下ろした。

「アルジマール院長、ご無事で何よりです。しかしまさか私の法陣を利用して戻られるとは、驚きました」

「ほんとギリギリだったんだよー危なかったー。僕はこれで儚く散っちゃうのかと思ってさすがに焦っちゃった」

 レオアリスの傍らに膝をついていたロットバルトは、改めてレオアリスを見た。

「やはり、西方公が?」

「そうだ」

「剣を――」

 レオアリスはロットバルトの視線に含まれたものを受け止め、頷いた。

「だが戻るので精一杯だった」

「それが最善でしょう」

「陛下にご報告が必要だ。アルジマール院長が持ち帰った物も、まず陛下にご覧いただかないと」

「アルジマール院長が――」

 ロットバルトはアルジマールへ視線を向け、彼が抱えている額縁を見た。

 一見してさほど手も込んでいない、言ってしまえば古いということだけでは価値の生まれない、普通の額縁だ。

「承知しました。至急謁見を申し入れます。しかしその怪我は」

「問題無い、もう塞がった。衣装は駄目にしちまったけどな」

「いやホント、ボロッボロじゃないすか。こりゃ作り直さないと駄目だなぁ」

 午後間に合うかな、とクライフが頭を掻きながら溜息をつき、それから改めて頬を引き締めた。

「けど上将が無事お戻りになって、何よりです。衣装なんて縫えば済みますからね」

「悪いついでに、午後は俺抜きでやってくれ。あとロットバルトもか。まあクライフとヴィルトールで代われるだろ」

「えっ、そりゃ無理ではないですけど……けど票が」

「それより中止にしなくても?」

「中止じゃ準備してきた奴等がかわいそうだし」

 安堵を含んで交わされる会話を聞きながら、アスタロトは一人だけ、どこか全く違う冷たい場所にいるような気がしていた。

『半分は君がルシファーを斬ろうとしないからだろ』

 斬ろうとしなかったのは、アスタロトがあんな事を言ってしまったからだ。

(謝らなきゃ――)

 自分が言った事などもう忘れてくれと、そう言わなくては。

「――レオ」

 アスタロトが思い切って近づこうとした時、レオアリスが抱えていた誰かが身体を揺らし、続いてがばっと跳ね起きると床に手を付いてきょろきょろと辺りを見回した。

 アスタロトの位置からは顔が良く見えないが、年齢は同じくらいだろうか。

 それから――

(女の子だ)

「ここ、どこ?!」

「ユージュ」

「――レオアリス!」

 少女はレオアリスの顔を見るなり、飛び付いた。

「無事だぁー ! 良かったぁっ」

 アスタロトは思わず息を詰めた。全身で脈打っているみたいに心臓が速い鼓動を鳴らす。

(ユージュって――だ、誰……?)

 元気そうな、可愛いコだ。アスタロトが初めて見る相手なのに、すごく親しそうだった。

「怪我は?!」

「大丈夫だ、もうほとんど治ってるし、傷もそのうち消える。それより腕を見せてみろ」

「腕」

 ユージュは呟いた直後、さっと青ざめ左手で右腕を確かめるように触った。

 肘や手首を何度も撫ぜるように触れてから、肺に溜まっていた空気を全て吐き出すほど盛大な息を吐き、ほっと肩を落とした。

「だ、大丈夫――そう言えばさっきも振れたし」

 レオアリスはユージュの右腕を取って視線を落とした。

「確かに剣は出せてたし――、問題無さそうだな」

(剣――、剣士?)

 アスタロトはユージュを見つめた。

 剣士、のようだ。――レオアリスと同じ。

「平気だよ」

「なら良かった」

 レオアリスがユージュの頭を撫でると、ユージュは改めて安心したのか、上体を逸らして天幕の天井を眺めるように顎を上げ、黒い瞳を閉じた。

「良かった――、父さんに、もう会えないかと思った……」

 父さん、と聞いてアスタロトはようやく、ユージュという少女が誰だか思い当たった。フィオリ・アル・レガージュの、剣士ザインの娘だ。

 レオアリスが彼女の剣の覚醒に立ち合ったのだと、それはタウゼンから聞いていた。レオアリスからではなく。レオアリスはすぐに謹慎に入っていたし、タウゼンから聞いたのは正規軍としての情報把握の一環なのだから仕方ない。

 けれど何だか胸の奥がもやもやと重苦しい。

「アルジマール院長、後でユージュをレガージュへ送ってください。ただし送るのはもう一度きちんと医者に見てもらって、もし問題があれば治癒を掛けてからです」

「僕の治癒は完璧だよ」

「そう思いますが、念の為……」

 レオアリスは立ち上がり、振り返って――そこで初めてアスタロトを見つけた。

「アスタロト――」

 その面に一瞬、気まずさが浮かび、視線が逸らされる。

「いたのか」

 何か意図があってそう言ったのでは無かったが、アスタロトは頬を強ばらせた。

 冷たく響いたとさすがに気付いて、レオアリスが早口でいい直す。

「いちゃ悪いとかじゃなくて」

「えと、私、舞台を観に来て」

「ああ……、ちょっと、悪かったな、舞台――せっかく来て貰ったのに」

「べ、別に、舞台は最後まで終わったから――皆演出だと思ってたし」

 周りから見てもぎこちない会話で、フレイザーはクライフやヴィルトールと顔を見合わせてから、この場を取り持とうと口を挟んだ。

「上将、公は大体の事態はご存知ですわ。とても心配されておられたんですよ」

「――そうか」

「ねぇねぇ、このヒト誰?」

 ユージュが興味津々な様子で顔見知りのクライフの袖を引く。クライフは慌ててユージュの口を塞ぎ、ユージュを引き寄せてこっそり囁いた。

「アスタロト公爵だ。正規軍将軍だよ。将軍って判るか?」

「将軍? って、炎帝公――すごい!」

「声抑えろっつーの」

「うわぁー、すごいねさすが王都だね。それにすごいキレイな女の子だねぇ。ボクこんなキレイな女の子初めて見た」

「はいはいはいー、ちょっと黙ってような! マジお前中身は十歳児だな」

 クライフとユージュのやり取りのお陰でどこか張り詰めていた空気が少し和らいだように感じられ、レオアリスは自分でも気付かない程度にほっと息を吐き、改めてアスタロトと向き合った。

「まあ、状況を知ってるなら話は早いか。ラクサ丘には護衛で西方第七軍の小隊が出てた。指揮官はヒースウッドっていう中将だ。アルジマール院長が転位させたから大丈夫だと思うが、それでもその前の段階で負傷者が出てるはずだ。悪いけど、西方第七軍に伝えてくれ」

 アスタロトが視線を落とす。

「――判った。転位は、どこに?」

 レガージュ、とアルジマールが言った。

「の、旧砦。あそこはもう転位門があるからね」

 かつて大戦の折に部隊や物資を移送する為に使っていた転位陣が、先月のレガージュの一件から復活していた。「それを使った」

「レガージュ?! じゃボクを送ってくれれば良かったのに」

「そんな余裕無かったよ。いいじゃないか、君は王都を見物していくといい。今は一番大きな祝祭だよ、レガージュでも中々見られないものがたくさんあるだろう」

 アスタロトは頷き、レオアリスにじゃあ、と言って一旦は天幕の出口に向かいかけた。

 それから足を止め、しばらく迷うように視線を落とした後、レオアリスを振り返った。

「――私、この前」

「アスタロト」

 ほとんど同時にレオアリスが口を開く。思わず口を閉ざしたアスタロトから、レオアリスはほんの僅かに視線を逸らせた。

「――悪い。この前の事、忘れてた」

「――」

 この前の事、というのが何を差しているのか、聞かなくても判る。同じ事を考えていたのが、今は皮肉に思えた。

「まあ結局、どうにかなった訳じゃねぇけど――悪いな」

 忘れていたというのは、嘘だ。

 アルジマールがああ言っていたのだから。

「な、んの事?」

 でもそれを違うと突き詰める勇気は無かった。そうできないのだから、いつもと変わらないように、笑うだけだ。

「良く判んないけど、でもレオアリスが無事で良かったよ。じゃあ、何か情報出たら教えて」

 我ながら誤魔化し方が下手だと思ったが、レオアリスがもう少し何か言う前に、アスタロトは手を振って天幕を出た。

 絡げた厚い生地の向こうから、長い間遮られていた陽光がさっと差し入り、天幕内を束の間明るく染めた。

 布が降りた後も僅かな隙間から漏れる光が揺れている。レオアリスは息を落とし、それからフレイザーを振り返った。

「フレイザー、アスタロトを総司令部まで送ってくれるか」

「承知しました」

 天幕を出ようと、まだ揺れている入口の布に手をかけたフレイザーをロットバルトが呼び止め、近付いて声を落とし、幾つか囁いた。

「え? ――判ったわ」

 フレイザーは頬を引き締めて頷き、アスタロトに続いて天幕を出た。





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