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第3章『西へ吹く風』(24)


 西海が動いた急報は、翌朝にはフィオリ・アル・レガージュに駐屯する南方軍の元へも届けられた。

 海上に陣取る西海軍はこれまでに千近くまでその数を減らし、レガージュの戦況は小康状態で推移していたが、急報が届いた翌朝には沖合の黒い群れは次第にその塊を広げ、一刻も経たずに数倍の兵がそこに集い始めた。



「ザイン――」


 レガージュ船団長ファルカンは傍らに座るザインを見た。

 交易組合に集まったカリカオテ、ビルゼン、エルンスト、オスロの組合幹部と領事であるスイゼル子爵。

 南方将軍ケストナーと参謀長アスナイ。

 ユージュ。

 領事館前の広場には船団員や南方軍兵士、そして船を沈められ未だレガージュに足止めされているマリやローデンなどの船乗り達も集まり、不安そうに領事館の窓を見上げている。


「これから戦いは激しさを増す一方になるだろう」


 ザインの言葉には、彼が過去――かつての大戦を思い起こしているのかもしれないと、そう思わせる響きがあった。

 ファルカンの面が一層引き締まる。


「体勢を整えなくてはな。今のレガージュにある戦力は、俺達船団とケストナー将軍の南方軍八千。これで守りが充分かどうかはこの先西海軍がどこまで膨れるかに寄るだろう。ケストナー将軍、南方軍の増援は見込めないだろうか」


 ケストナーは日に焼けた面をファルカンへ向けた。この半年で髪が伸び、やや明るい茶色の蓬髪が獅子を思わせる。


「増強も考えてはいるが他の地域――特に西方の戦況次第だ。それに依っては俺がここを離れる必要も出てくるだろう。そうなった場合は当然代替の手は打つが」

「将軍がレガージュを離れるとなると痛いな。早い段階で打って出るか――だが西海軍の総数は合わせて十五万と聞く」

「海上からの侵攻こそ最も抑えるべきだが、ボードヴィルへも西海軍が進出している以上、シメノスを利用した背後からの挟撃も警戒しなくてはならん。それを可能とする兵数が西海にはある」


 二人の会話を聞きつつザインは眉を寄せ、自分の右腕へ視線を落とした。

 右腕――今のそれはルベル・カリマの里で譲り受けた義手だ。程よくザインの意思と力を伝え、このお陰で剣を折る事も少なくなっていた。

 ただし、人より抜きん出ている程度の力で、剣士としての剣にはほど遠い。

 ザインは視線を上げ、それから室内の顔触れを見回した。


「西海軍が増えれば、義手だけではこれ以上抗しようも無い」


 一呼吸おいて、続ける。


「俺は、剣を戻すつもりだ」


 驚きが室内に波打つ。

 ユージュは立ち上がり、飛びつくように父の右腕に両手を置いた。


「父さん!? 本当なの? 本当に父さんの剣が」


 喜びに輝いたユージュの瞳が、ザインの表情を見て戸惑いを浮かべた。


「――」

「戻るのか? なら早く――」


 期待に椅子から腰を浮かせたファルカンもザインの表情に気付き、ユージュと同様にその色を潜め再び腰を下ろす。

 ザインの面は厳しく引き締まったままだ。


「――何かあるんだな?」


 ザインは卓の上に親指ほどの大きさの硝子の小瓶を置いた。三本。

 全員の視線が小瓶に集中する。

 ザインはその内の一本を手に取った。中で淡い金色の液体が微かに光を揺らす。


「俺の氏族――ルベル・カリマから譲られた薬だ。俺のように剣を失った者の為に作られた」

「剣を――? じゃあそれを飲めば剣が戻るのか」


 ファルカンは今度こそ期待を抑えきれず、椅子から立ち上がった。卓の上に置かれたままの小瓶に手を伸ばし、目の前に掲げて小瓶の中を揺らす。

 室内の光を含んだ、淡い金。


「この薬で――じゃあ今すぐ――じゃない」


 ファルカンは青い瞳を小瓶から離し、ザインへじっと据えた。


「つまり、今まで使わなかった理由があるんだな? 効く保証が無いとかか?」

「一族のものだ、効果はあるだろう。まあ」


 口の端に浮かべたのは苦笑の色だ。


「簡単に言えば、飲んだ後しばらくは使い物にならん。剣を無理に戻す以上、相当苦痛が伴うようだしな」


 口調こそ冗談じみていたが、ザインも只冗談事として言った訳ではなく、ファルカンなど全くそうは受け取っていない。ザインが戦場にいるといないとでは、士気がそもそも違う。


「それは、どのくらい……」

「一日か、数日か。長くても十日程度で戻るだろうとは聞いているが、そう何度も使われて来たものじゃないから俺も確証は無い」

「いや、その苦痛ってのが――いや時間もそうなんだが」


 ユージュが父の前に身を乗り出す。


「そんなの、危険なんじゃないの? そんな無理に戻さなくたって――この街はボクが」

「まさか死ぬような物は渡さないさ、安心しろ」


 ザインは左手を伸ばし、ユージュの頭を撫でた。


「ザイン」


 それまでじっと考え込んでいたカリカオテは、エルンスト等組合幹部の顔を見回し、彼等の意見を代弁するようにザインと向き合った。


「お前の言う通り、これから西海軍との戦いはより激しいものになるだろう。だからこそ、お前の剣が戻る事に期待したい。また頼っていいか――、ザイン」

「当然だ」


 長く、三百年にもわたってこの街を守って来た守護者の言葉に、カリカオテ達は顔を見合わせ、力強く頷いた。

 ザインはファルカンへ視線を向けた。


「ファルカン、俺の剣が戻るまで頼めるか」

「当然だ、俺もな」


 ザインの言葉を拾ってにやりと笑い、ただ少しばかり後悔したようにファルカンは眉を下げた。


「できるだけ早く戻してくれよ。いつまでもは保たん」


 いつもこんな事ばっかり言ってて悪いな、と顔をしかめた。





 丘の上の家に戻り、玄関を潜る前にザインは一度、碧く輝く海原に視線を投げた。

 僅かながらも、黒雲が空を覆っていくかのように沖合に増えていく、西海軍の兵の群れ。

 まだ攻め込む気配は見えないが、いつ堰を切ってレガージュに流れ込むか――


(遠くは無い)


「父さん――」


 共に戻ったユージュはザインの後について階段を上り、何度目か、父の名を呼んだ。


「大丈夫だ」


 ザインは自分の部屋の前まで来ると振り返り、ユージュの肩に両手を置いた。生身の左手から、ユージュの体温が伝わる。


「しばらくレガージュを――母さんの街を頼むぞ、ユージュ。必ず剣は戻る。そう長くもないさ」


 不安そうに瞳を揺らす娘の頭を左手で優しく撫で、そう言い切ると、ザインは一人、部屋に入った。

 扉を閉ざし、まだ廊下にいるだろうユージュへ背を向ける。

 手のひらの上に小瓶を一つ――瓶を満たす黄金の揺らめきを見据えながら、部屋の中央で立ち止まる。


 ファルカンやユージュにはああ言ったが、本当に数日で戻るのかは、ザイン自身他にこの薬を飲んだ者を見聞きした事がなく、正直判らない。果たしてうまく剣が戻るのかも。

 口の端を笑みに歪める。


「長の言う通り――自ら剣を失う愚か者は、久しく俺くらいだったろうからな」


 小さな瓶の封を切り、淡い金色の液体を喉へ流し込む。

 液体は舌に判らないほど軽かったが、一呼吸置いて微かな苦味が広がった。

 喉を通り、腹に落ちる。


 すぐに。

 じわりと、刺すような熱が腹の底から沸き起こった。





 背を向けた扉の向こうで硬い音が響いた。


「父さ――」


 階段を降りかけていたユージュは身を返し、扉を開けた。


「入るな……!」


 踏み込もうとした足を、低く放たれた声が止める。

 ザインはユージュに背を向け、倒れた椅子の横に膝をつき蹲っている。


「椅子を、倒しただけだ。――心配しなくて、いい」


 そう言った声は先ほどまでと異なり、極力抑えられ、掠れている。

 父の背中しか見えないが、肩で呼吸を抑え、その下に苦痛を抑えているのがユージュには見えた。その苦痛がどれほどのものなのか――


 部屋の暗がりは、自分の為に剣を失った、あの深い海の青を思い出させる。

 伸ばしかけた手を、握る。


(ボクは、今は、父さんの為に何もできない)


「――待ってるから」


 ユージュはぎゅっと唇を噛み、父との間の扉を閉ざした。


(……父さん――)


 いつも、この街を――母の名を冠したこのレガージュを、父は守り続けて来た。

 三百年の間、ずっと。


『母さんの街を、頼む』


 母も、父も、ユージュの誇りだ。


「ボクが、守るよ」


 父と母が大切にするこの街を、今度は自分が守る。

 ユージュは顔を上げ、ほんの束の間、右手の指先を扉に当て――踵を返した。





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