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第3章『西へ吹く風』(18)


 きょろきょろと忙しく動いていたエスティアの視線が一箇所に止まり、輝く。

 磨き上げられた床に、ハンプトンとファルシオンの姿が逆さまに映っている。

 まるで張り詰めた水面のようなその上を、薄い影が蠢いていた。

 薄紫色の煙だ。

 煙は左の部屋の扉の下から滲み出していて、部屋の中央にいるハンプトンとファルシオンへ、這いながら近付いてくる。



『貴方にはこの書物を全て、居城に持ち込んでいただきたい。七冊の間に貴方は王太子殿下の信用を得ているでしょう。公爵からの最後の指示は、この紙と共に――』


 ベルゼビアの法術士長、オブリースはそう言った。


『可能な限り、王太子殿下と二人の時に』


 確実を期す為に、と。




 ハンプトンの悲鳴が上がる。


「殿下!」


 ファルシオンを両腕に抱きかかえて後退りしつつ、這い寄る煙を指差した。

 セルファンが踵を返す。

 エスティアは気付かれた事に舌打ちし、だが今まで噴き出していた冷や汗が、安堵のそれに代わり背を伝うのが判った。

 オブリースの術が発動したからにはもう、エスティアは助かったも同然だ。術でここから抜け出して――


「?」


 目の前が紫色に染まっている。

 それが煙だと気付くと同時に、煙はエスティアの喉の奥に流れ込んだ。

 ハンプトンが再び高い悲鳴を上げる。


 エスティア自身何が起こっているか理解していないままに、煙は彼の身体を内側からぼこりと音を立て膨らませた。エスティアの手足が痙攣を起こし、あたかも操り人形の糸を闇雲に動かしたかのように激しく揺れる。

 煙が潜り込んだ目や鼻や口から、赤黒い血が溢れ、伝った。


 セルファンと隊士達が剣を引き抜き、膨らみ続けるエスティアへ切っ先を据える。


「殿下を外へ!」


 ファルシオンは自分を抱きかかえるハンプトンの腕の合間から、変わり果てたエスティアの姿を見上げた。黒ずみ異様に膨らんだ上半身が庭園への硝子戸を半分塞いでいる。

 ファルシオンは恐怖にぎゅっと手の中の石の感触を握り締め、だが瞳をそれから離す事ができなかった。


 先ほどまでエスティアだった面影は、歪んで膨らんだ今の姿にはほとんど見られない。

 おそらく意識も、もう無いのだろう。


「み、見てはなりません、殿下――早、早く、そ、外へ――」


 ハンプトンが掠れて震える声で、それに背を向けてファルシオンを抱き締め、扉へとにじり寄った。


「ハンプトン殿! 今の内に――!」


 セルファンはハンプトンへの指示と同時に、辛うじて人の形を残している脚へ剣を薙いだ。片足が断たれ、膨張した躰がぐらりと傾ぐ。

 ハンプトンが把手を握る。

 扉が指二本分ほど薄く開き――更に引き開けようとしたハンプトンの腕を、何かが掴んだ。


 ぱんぱんに膨らんだ皮手袋のようなものだ。

 背後から伸びたそれは、エスティアの手――腕。

 窓際にいるエスティアの躰から、鞭の先を放るように弧を描き、言葉通り伸びていた。


「ハンプト――」


 抱えるファルシオンごと、異様に伸びたエスティアの腕がハンプトンに巻き付き、身体を吊り上げる。


「殿下!」


 駆け寄ったセルファンの剣が振り下ろされ、エスティアだった腕を断つ。

 甲高く(おぞ)ましい苦鳴が響く。

 腕がしなり、ファルシオンとハンプトンは硬い床の上に放り出された。


 ハンプトンが手足を滑らせながら起き上がり、ファルシオンの上に覆い被さる。

 再び、半ば溶けたような腕がファルシオンへと伸ばされる。

 ファルシオンの瞳が、黄金の光を増す。

 手が胸元を探った。


「レオ――」



 あの時の瞳は、何を映していただろう。



「――殿下!」


 声と共にファルシオンは背中を抱え起こされ、硬く瞑っていた瞳を、開いた。

 瞳に映ったのは黒髪と、黒い軍服の肩――


 一瞬湧き上がった喜びは、口から名前となって溢れる前に消えた。

 ファルシオンを助け起こしているのはセルファンだ。


「お怪我はございませんか」


 一瞬、音を消していた鼓動が、胸の奥で脈打つ。


「だ、大丈夫――」


 セルファンの肩越しに、ファルシオンは瞳を彷徨わせた。

 姿は無い。

 胸元を握り締めていた手のひらから、力がゆっくりと抜けて行き、やがてその手は膝の上に力なく落ちた。


「――」


 それからようやく、もう一つの事に気が付いた。割れた硝子戸や倒れている椅子や卓の間を、近衛師団隊士がまだ緊張した面持ちで行き来している。


 ただ、たった今までファルシオン達を襲っていたエスティアだった身体は、跡形も無く消えていた。






 天井から吊り下がっていた燭台、その天井も壁も床も全て消え失せ、ただ白い空間が広がっている。


 どこまでも無限に広がっていると思えるその空間で、ほんの僅か人だったころの名残を残していた躰は、空気が抜けたように形を崩して行く。

 人の姿では無く、ただの書物へと。


 白い空間に残された七冊の書物へ、灰色の法衣を纏った人影が歩み寄り、手をかざした。

 書物が次々浮き上がる。

 (かず)きの下で瞳を伏せたのは、以前第二王妃とその王子の秘密を守っていた、『目』の法術士、セルマ。


「処置は済みました――これはいかがなさいますか」


 セルマは虚空へそう告げた。


『ああ、まあ何も残って無いだろうし、侯爵も必要ないだろうけど一応送って。それにしてもオブリースらしい術だね』


 返ったのは法術院長、アルジマールの声だ。

 セルマの手元からもう書物は消えている。

 やっぱり何もないや、とやや不服気味の声は、書物をもう一通り見たからか。


『あの夜とおんなじだよ。まったく、彼は自分の手を汚さず、他人を使い捨てるやり方ばかりだ。口封じも兼ねて』


 証拠となるものを残すこともなく、一石二鳥というところだろう。

 取り敢えずは対処できる範囲で良かったと、アルジマールが声を落とす。


『ありがとう、セルマ。引き続き、君には殿下と居城の警護を』


 セルマは静かに頭を下げた。







 スランザールは俯いているファルシオンの前に膝を付き、両手を取って自分と向き合わせた。


「まずはお怪我が無く、ようございました。アルジマール院長から、術は全て無効化されたと。しかしながら法術の発動を防ぐ事ができなかったことを、お詫び申し上げます」


 スランザールの目が胸元を掴んでいるファルシオンの右手へ落ちる。布越しの何か。首飾りか何かだろう。


「――殿下」


 視線の合わないファルシオンの面を身を屈めて覗き込む。


「殿下、エスティアの言葉などお気になさりませぬよう」


 スランザールは噛んで含めるように、一言一言に力を込めた。


「このような混乱の折には、少なからず現れる者の一人です。万人がいれば万人の考えがあり、利害があり、目的があり――それを一つの方向に納める事など、できはしないのですから」

「わかっている」

「……噂については、既に対応しております。今後街まで流れる事はないでしょう」


 噂など完全に封じ込める事は不可能だが、スランザールはそう言い切った。それでファルシオンがどれほど安心するのかは判らない。


「ですが殿下のお言葉でも改めて否定して頂かなくてはなりません。明日の協議の場で殿下から」


 レオアリスはあくまで責任を負っての蟄居だと。

 西海と国内への牽制の為にも目を覚ますまではその理由を保つと、そう決めた事だ。

 だからファルシオンに理由がある事ではないのだと、スランザールは言外にそう込めた。


「――わかっている」






 ファルシオンの寝室を移し、寝台を整え終え、ハンプトンは窓際に佇んでいたファルシオンへ近寄ると慈しむようにその背中に手を当てた。

 小さな背中はとても頼りなく感じられる。


「殿下……」


 俯いているファルシオンが痛ましい。

 居城での面会まで許していた者に裏切られ、命を狙われ、


(あのような、心無い言葉を――)


 一番ファルシオンの心を締め付けているのは、それだろう。

 改めてエスティアへの憤りを感じながらも、どのような言葉を掛ければいいか口ごもったハンプトンへ、ファルシオンはそっと顔を上げた。


「ありがとう――大丈夫だから」


 一人にしてほしいと、その言葉は飲み込んだのだろう。

 思わしげな表情を浮かべたものの、ハンプトンはファルシオンの傍らを離れた。ただ、部屋を出る訳ではなく寝台の脇に椅子を寄せる。


「今宵はお傍におります」


 ファルシオンは駄目だと言う代わりに、大人びた笑みをハンプトンに向けた。





『資格がないのですよ』


 寝台に横になり、柔らかな寝具を目の辺りまで引き上げて、ただファルシオンの意識はずっと冴えたままだった。

 手に握っているのは、あの青い石の首飾りだ。それは今もまだくすんだままなのだろう。ずっと手に握り締めながら、灯りの中にそれを出して確かめる事は、今はできなかった。


『だからあの剣士も――』


 その言葉に胸がぎゅうっと縮むようだ。


(私に、資格が無いから……)


 ファルシオンは小さく身体を丸め、目を瞑った。










 空だった鳥籠に、金糸雀が戻った。

 夜の十刻。

 鳥籠を見つめていたスキアは、高く結わえた髪を揺らし、ゲルドを振り返った。


「ゲルドさん」


 ゲルドもまた鳥籠を注視していて、呼ばれる前に足を踏み出し、鳥籠の前に立つ。

 スキアが鳥籠に手を差し入れると、小鳥は慣れた様子で伸ばした人差し指の上に移る。その脚に取り付けられたごく細い銀色の筒から、スキアは中に収められていた小さな紙切れを取り出して、ゲルドへと手渡した。


 ゲルドがその紙切れを広げる。

 集まった部下達が固唾を呑むのが判る。


「――」


 彼等の運命――それは、王都の動向次第だった。

 ゲルドは喉の奥に息を殺し、空いていた左拳を強く握り締めた。

 静かに息を吐き出す。


「ファルシオン殿下は、ご無事だ」


 一瞬の緊張。

 喜びと、そして、言い表せない複雑な感情が、確かに流れる。


「閣下はこう仰っている。お前達の運命は王都の動向のもとにあり――」


 そこに記されている言葉を、ゲルドは誇りと共に告げた。


「そしてお前達は――、()()()、王都の運命を動かした」


 誰もが息を深く吸い、ゆっくりと肩を下ろす。


 手元の紙に記されているのは、ミラーの直筆だ。そこに記された一言は、漫然と告げられたものではないだろう。


 命を捧げろ、と。


 ゲルドが双眸を上げる。


「元より」


 その為に来たのだ、自分達は。

 ベルゼビア暗殺の成功か、失敗による自らの死か。


 その覚悟はできている。

 ただそれでも、もう一度、覚悟を決め直す事が必要だ。

 部下達の視線がゲルドを捉えている。


「皆――」

「ゲルドさん――いえ、ゲルド少将」


 若いエインズが先んじる。まだ二十歳そこそこだが、剣の腕は秀でていて、笛が上手い。


「無為にここにいる訳にはいきません」


 彼より二つほど年上のユングも頷いた。


「動きましょう。今、我々のできる事をやりましょう」

「好きな事は充分、今回やったしな」

「楽しかった。旅芸人ってのも悪くない」


 ケントとベルディが笑う。


「俺達は裏方だぜ。あれこれ世話焼いた俺達に感謝してくれ」


 そう言ったのはいかにも苦労人と言った顔のスラックだ。

 ゲルドは部下達の顔を見回した。


 准将ブレイク、ユング、エインズ、パルマ、ダイス、ケント、ベルディ。彼等は楽器が得意で、この数か月ずっと一座の楽曲を奏でていた。

 マイエン、スラック、ライモンは裏方役を。

 踊り子に扮していたアルマ、コーディ、スキア。

 副団長に扮していたのは法術士のバーデン。


 総勢十四名の、一人一人の視線を捉える。

 四十歳のゲルドを筆頭に、半分以上はまだ二十代の若い兵士達だった。歌舞音曲を嗜み――もしかしたら精鋭として選ばれた剣よりもそちらの方が好きで得意な類の。


「この三か月半、よくやってくれた。まずは礼を言う。そしてこの城に潜入して既に半月だ、何事も無くともこれ以上、ただここに留まる事はできないだろう」


 部下達が頷く。

 この間、日に僅かずつなりとも、ヴィルヘルミナ城の構造を探ってきた。

 ベルゼビアの居室に侵入する為の道順は、幾通りか組み上げて頭に叩き込んでいる。


「エスティア伯の失敗は、遅くとも明日の朝にはベルゼビアの知るところになるだろう。機会はそう多くは無い。――今夜」


 ゲルドは低く告げた。

 今、この時点で彼等は旅芸人の一座ではなくなり、本来の任務に戻る。


「暗殺を実行する」


 ぴりりと肌を刺す緊張が部屋を覆い、既にそこにこれまでの穏やかな空気は微塵も無い。


「閣下は無為に我々に死ねとは仰らない」


 ミラーの手紙には、まだ続きがあった。

 深夜、ヴィルヘルミナの街に強襲を掛ける、と。


「深夜一刻に。我々の任務は決して死ぬ事では無い」


 ゲルド達に加えられたもう一つの任務が、手紙には共に記されていた。

 強襲に乗じてベルゼビアを暗殺、そして王妃とエアリディアルを、このヴィルヘルミナから連れ出す事――


「我々の任務の最上は、暗殺をやり遂げ、そして両殿下をお救いする事だ」

「ベルゼビアの暗殺は私が行きます」


 スキアが立ち上がる。ゲルドは頷いた。


「ブレイク、ユング、アルマが適任だ」


 四人が右腕を胸に当てる。


「バーデン、ここに転位陣を」

「承知致しました」


 バーデンは深々と頭を下げた。


「マイエン、ダイス、ライモンはバーデンを補佐しろ」


 ゲルドはもう一度部下達を見回した。


「残りは、俺と共に王妃殿下と王女殿下をお救いする」






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