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第3章『西へ吹く風』(14)


「ファルシオン殿下! 本日も晴れやかなご尊顔を拝し、わたくしも喜びを噛み締めております」


 ハンプトンの警戒の視線も物ともせず、エスティアは大仰とも言える仕草で身をかがめてお辞儀をすると、その四角く厳つい顔を上げファルシオンの瞳を見た。


「おや」


 じっと見つめ、首を傾げる。

 ハンプトンは今日もエスティアが持って来た書物を壁際の台に置き、さりげなく二人に近寄った。


「晴れやかな、とはわたくしの想いでございましたか。殿下はどこかお辛そうなご様子――」


 伏し目がちだったファルシオンは、その言葉にはっと顔を持ち上げ、瞳を瞬かせると面を反らした。


「そんなことは」

「殿下の今のお立場ではお辛い事も多うございましょう。わたくしは他の方と比べ微力ではございますが、殿下の支えの一人になりたいと常々考えております。どのような事でも、お聞きいたしますぞ」


 そう言って、ああ――、と頷き眉を寄せる。


「もしや、赤の塔に侵入者があった事でございますか? あれは確かに」

「え」


 見上げるファルシオンはやや青ざめ、瞳を驚きに見開いている。失言に気付いたエスティアは慌てて背筋を伸ばし、ファルシオンからやや身を引いた。


「なんと、ご存知無いのですか? こ――これは、大変、失礼致しました。既に大公からご説明されているものと――、いえ、今の事はどうぞお聞き流し頂きたく」

「どういうことだ」


 まだ小さな手がぐっとエスティアの袖を掴む。


「いえ、大公やスランザール公がお話しにならない事を、わたくしなどの口からは」

「かまわない、話してくれ」

「し、しかし――」


「ファルシオン殿下、そのような」


 ハンプトンが諌めるようにファルシオンの側に立ったが、ファルシオンはもう一歩、エスティアへ詰め寄った。


「いいから――! 赤の塔に、侵入者って、どういうことだ」

「ファルシオン様。その事はスランザール様に」


 傍らにハンプトンが膝をつく。それも構わず、ファルシオンは黄金の瞳をエスティアに据えた。

 その瞳に込められた熱に押され、エスティアは諦めて首をゆるく振る。


「七日前、赤の塔に侵入者があったのです」

「七日――」


 七日も、前に――、と、ファルシオンの微かな呟きに、エスティアは更に首を大きく降った。


「い、いえ、そう、七日前の事ではございますが――侵入者と申しましても、塔内へ入られたという事ではなく、結果としては何事も無かったのです。そう聞いております、ご安心ください」


 だがファルシオンはそれで納得はせず、代わりに袖を握る指の力が一層増した。


「誰が……、一体誰が赤の塔に入ろうとしたのだ」


 黄金の瞳には息が詰まる光が揺れている。エスティアは白い絹を懐から取り出し、額に浮いた冷や汗を拭った。


「おそらくは西海の、その……殿下が先日、わたくしにもお話くださった、あの使隷であろうと」

「使隷――」


 かつてファルシオンの庭園を襲った、水から創られた人型。

 レオアリスが西海の三の鉾の一人と湖上で戦った時の、その話をエスティアに先日したばかりだ。

 サランセラムの戦場にも、その姿はあったという。


「……赤の塔に」


 王城に。


「そんな大事なことを、私はなにも、知らなかったのか」


 傍らのハンプトンはその言葉に胸を突かれ、ファルシオンの横顔を見つめた。

 青ざめているファルシオンへ、エスティアがにこりと笑う。


「ですがご安心ください、殿下、先ほども申し上げましたが、幸いにも法術院が赤の塔に施していた防御陣のお陰で、敵の塔内への侵入には至っていないのです」


 ファルシオンはエスティアの袖を掴むのをやめていて、代わりに二つの小さな手は身体の横でぎゅっと握り締められた。


「誠に失礼致しました、てっきり殿下はご存知と――しかし使隷は一体だけだったようでございますし、大公方がお伝えしなかったのは、殿下がご不安になられないようにとのご配慮でございましょう」


 なかなか顔を上げないファルシオンの前で、エスティアは言葉を重ねた。


「わたくしの粗相で、殿下にご不安をお与えしてしまいました事、お許しください。未然に防げた為、レオアリス殿には何の影響も無かったかと――」


 そこまで言って、エスティアはもう一つ自分の失言に気付き、片手を上げた。


「い、いえ、レオアリス殿が赤の塔にとは、全くのただの噂でございまして」


 ぴくり、とファルシオンが肩を揺らす。

 エスティアの瞳がファルシオンの上にじっと注がれる。


「――ご不安なのですね、殿下」


 エスティアはファルシオンをそのまま暫らく見つめた後、ファルシオンの傍に立つハンプトンを見上げた。


「ハンプトン殿、ほんの僅かで良い、殿下と二人でお話しをしたい」

「ですが」

「ご不安を増してしまうような事は言わん。良いだろう」


 ハンプトンはちらりとファルシオンを確認し、「いえ、やはり」と、首を振りかけた。それをファルシオンの強い口調が(とど)める。


「大丈夫だハンプトン」

「けれど」

「エスティア伯爵は、私が知らなくちゃいけないことを話してくれている」


 黄金の瞳が、ハンプトンの視線を弾くようだ。


「――殿下……」


 ファルシオンが意図しているかは判らないが、その瞳の中にファルシオンの不安――不審とまではハンプトンは思いたくなかった――が仄見え、ハンプトンは口を閉ざした。


「殿下がお望みなのだ。ほんの少しの間だ、ハンプトン殿」


 重ねて求められ、束の間考えたあとハンプトンはそっと息を吐いた。


「――承知いたしました」


 お辞儀をし扉まで下がりはしたが、ただそれ以上はハンプトンも譲るつもりはない。エスティアもそれで良しとしたようだ。


 やや頑なに見えるファルシオンのその裏には、先日のスランザールとの会話があるのだろう。

 それから、これまでに少しずつ積み重なっている沢山のこと。

 もう一度抑えた溜息を落とし、ハンプトンは扉の側の台に置いてある、エスティアの持って来た書物を見つめた。


 七冊目――ファルシオンに手渡していない事は、会話の端々からエスティアも気付いているだろう。それでもハンプトンを責める事もなく、こうして新しい書物をファルシオンの為にと持ってくる。

 七冊もの書物は誠意の表れと、前向きに受け止めるべきかもしれない。


(スランザール様や大公閣下は、赤の塔の事を、ファルシオン殿下を慮ってお伝えしていなかったのでしょう)


 ただ、それはファルシオンを少し幼く見立て過ぎているのではないかとも、ハンプトンには感じられる。

 ファルシオンはとても聡明で、まだ五歳であっても受け止められる事は多いのだ。


(わたくしから、スランザール様へお願いしましょう。それか、やはりヴェルナー侯爵にもう少しお時間を頂くか)


 膝をつきファルシオンと向き合っているエスティアの背中を見つめる。

 やはりそうした役割は、エスティアには悪いがエスティアではなく、スランザールなりが担うべきものだと、ハンプトンはそう考えた。





 エスティアは改めてファルシオンに向き直り、姿勢を整えた。


「殿下がご存知ないのは、老公方のご判断でございましょうが、そのご判断は間違ってはいないとわたくしも考えます。赤の塔の一件は城内の者にはほぼ伏せられておりますし……やはり皆、西海の使隷が侵入しようとしたなどと聞けば不安になるでしょうしな」


 しかし、とエスティアは乾いた唇を湿らせた。


「今回の事にも絡むのですが、レオアリス殿が赤の塔にいるのではないかと、そう考えている者は少なくございません。城内蟄居と、公表されているのはそれだけで、それ以外一向に話が聞こえてまいりません。それほどにファルシオン殿下のお怒りが深いのではと、多くの者が誤った勘繰りをしております」


 ファルシオンは俯き、じっと考えている。


「いずれ蟄居が解かれれば自然と誤解も消えましょうが――、ええ、それまでは、レオアリス殿がいるのは赤の塔や牢獄などではなく、あくまでも責任上避けられなかった形式的な蟄居なのだと、わたくしも周囲の誤解を解くように尽力致します」


 そう言うと、エスティアはにこりと笑って頭を下げた。

 ファルシオンはまだ俯いたまま床を見つめていたが、「また参ります」とエスティアが立ち上がりかけた時、遮るように声が追った。


「さっき、今回のことにからむと言ったのは、どういうことだ」


 しまったという顔をして、エスティアが改めて膝をつく。


「――その――」


 暫らく口ごもっていたが、ややあって意を決したように、顔を上げた。


「西海が探りを入れて来たのは、やはり西海もまたレオアリス殿の所在を気にしているからかと、わたくしは考えております。赤の塔を探ったのは、街にそういう噂があるからでございましょう」

「――」


 エスティアは一つ、膝を進めた。

 その双眸に、慎重な光がある。


「――殿下、いかがでしょう。レオアリス殿とお話する事をお許しいただけませんか」


 驚きに見開かれた瞳を、エスティアが正面から捉える。


「わたくしが殿下をお支えできる事など限られております。殿下がお立場上表立って彼とお話になれないのであれば、わたくしが彼と話し、殿下のお言葉とお気持ちを確とお伝えします。そして彼から、殿下へ、言葉を預かりましょう」


 黄金の瞳が縋るように震え、あたかもエスティアの言葉こそが自分の想いだというような光を滲ませる。


「殿下、どうかその役をわたくしに」


 だがファルシオンは首を振った。


「……レオアリスとは、話せないんだ」

「しかし、誤解を解く為には必要な事でございましょう。今は形式的な蟄居を示すよりも、彼が動ける事を内外に示した方が良い時期かと」


 また首を振る。


「殿下」

「できない……」

「何故でございますか。スランザール殿のお考えは判ります。ですが国と国民にとって、今は」

「――」


 噛み締めた歯の間から、掠れた言葉を押し出す。


「……怪我を、しているから」


 エスティアはファルシオンに注いでいた二つの瞳を、ゆっくりと見開いた。


「怪我――」

「もう、動くのは、無理だった。すごく大きい怪我で――」


 眠っている、と。

 声は辛うじて拾えるほどの小ささだったが、エスティアにははっきりと伝わった。膝に置いた拳をぐっと握り込む。


「何という……まさか、そのような事に」


 はっとして、ファルシオンは俯いていた顔を上げた。

 口にしていい事では無かった。


「今のは、ちがう」


 蒼白になったファルシオンの前に、エスティアは敢えて身体を起こした。それは小さな体を支えようとするようだ。


「だから蟄居という方法を取ったのですね――ようやく合点がいきました。何故、赤の塔という噂が流れるほど、何の消息も無いのかと――ああ」


 (かぶり)を振り、ひとことひとこと、力強く告げる。


「ファルシオン殿下、それは間違った判断では、ございません」


 瞳を見開いたままのファルシオンへ、もう一度、エスティアはそれを肯定してみせた。


「殿下は、間違ってはおられません」

「――」


 ファルシオンは何も言わず――、ただ、肩に篭っていた力が少しずつ、抜けて行く。


「大変失礼致しました。このお話し、聞かなかった事に致します」


 そう言い切り、エスティアは深々と頭を下げた。








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