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第3章『西へ吹く風』(12)

 

 どこから生まれたのかも知れない泡の筋が、細かな白い粒を不安定に踊らせながら空へと上がっていく。

 空――彼等にとっては長らく、それこそ永遠にも似た時の間、それが『空』だった。

 暗く重く深いこの水の世界と、彼方の地上とを分ける境界――、海の水面。


 その向こうにずっと焦がれ続け、戻りたいと願い、欲し続けて来たのだと、そう言うのだ。






『ナジャルめは何を企んでいる』


 広間に立つ四人の内、一人が他の三人を見渡す。

 将軍ヴォダ。西海四軍のうち第三軍を率いる。

 やや突き出た後頭部とぬるりと湿った皮膚を持つ姿は変異種と言い、西海の住人の三分の一を占める、かつて地上から海へ下った名残の色濃い種。


『レイモアに続き、ゼーレィも……あの様を見たか。生気の抜けた幽鬼の如き――あれはただの操り人形だ。三の鉾などもはや完全に形骸化した』


 ひそやかな響きは、聞きとがめられるのを恐れているかのようだ。

 今はまだこの広間にはいない、かつての三の鉾レイモア、ゼーレィ――そして、もう一人に――


『奴は次々と同胞も兵をも喰らい、ただ己が懐を肥やしている。その間も我等はこの海に囚われたままだ、何も変わらぬ』


 皮肉と苛立ちと恐れ。


『あやつをこのままにしておいて良いのか』

『ナジャルにも何か考えがあるのではないか? 企んでいるとまでは言わないが』


 そう返したのは、将軍レイラジェだ。

 ヴォダと同じく小変異種であり、第二軍を率いる。


『考えだと? 何を悠長な――奴は敵だけではなく、自軍の兵までも喰らっているのだぞ』

『どうでも良いわ』


 吐き出すような声が割って入った。

 将軍プーケール。

 身を丸めるようにゆるく湾曲した背骨、短く太い脚に長い尾を持ち、やや長い首の先に突き出した尖った顔と、左右に開いた目。全身は顔から指先に至るまで銀の鱗に覆われている。


『そのような事、今はどうでも良い話だ』

『何だとプーケール、ナジャルは』

『ゼーレィは失敗し、ナジャルに喰われた。それは否定はしない。だが奴のあれは(おぞ)ましくとも、我等の兵力である事には変わらん。それよりもアレウスだ』


 鋭い爪を持つ四指の間には半透明の水かきを備え、プーケールは部屋に満ちた海水を斬り裂くようにその手をひとつ振った。


『五か月前バージェスを奪って以来、何の進展も無い。ボードヴィルでも、アル・レガージュでもだ。地の利がどうの、剣士がどうの、法術院がどうのとつまらぬ事ばかり――我等はいつまで様子見に徹していればいいのか? 我等が兵数は未だ九万を残し、それに使隷を加えればアレウスの兵力を大きく上回っている。多少の不利などひねり潰せばよいだけの事』


 プーケールは原種と呼ばれる古くからバルバドスに存在する種の一つ、海竜種であり、原種で構成される第四軍を率いる。


『臆して誰も出ぬのならば我が出るぞ』

『貴様が? そもそも貴様のその()()では陸で満足に動けないのではないか』


 そう嘲笑ったのは将軍フォルカロル。

 四人の中で唯一、地上の人間とまるで変わらない姿をしていた。

 最も海皇に近く、代変わりを繰り返して来た西海の住民の中では非常に珍しく稀少な『水人種』であり、水人種と小変異種で構成される第一軍を率いている。


 海皇に近い姿をしているからこそ、フォルカロルは常に他を見下し自らを優位種として振る舞っていた。


『そもそも海皇陛下がお決めになる事柄を、貴様如きがその一端すら測ろうとする事も烏滸がましい』


 毎度の挑発に忌々しさを込めてプーケールはフォルカロルを睨み、唇の無い口元を威嚇の形に歪めた。


『腑抜けめが、碌な武功も無く』

『貴様こそ、ナジャルめの威を借りているだけの下位種が、この私に差し出た口を叩くとは無礼極まりない』

『何だと――』


 プーケールが一歩踏み出した時、ふとそれまで窓から落ちていた淡い日差しが陰った。

 北面に並ぶ窓の外を取り囲む海水が揺らぐ。

 イスを中心に――、あたかも石臼を回すがごとき重量で、海水がうねる。


 それは海水というよりも、巨大な蛇の腹。それが幾重にも城に巻き付いているのだ。

 大窓の外を、銀の鱗が流れて行く。


『……ナジャル――』


 城全体がギシギシと音を立てて軋み――

 思わず身構えた四人の将軍達を嘲笑うかのように、その圧迫感はふっと消えた。


 背骨の神経を掴むが如き声が滲む。


『血気盛んで良い事だ――』


 彼等の前にナジャルの姿があった。

 そして、たった今まで何もなかった奥の壁の前に、玉座。

 レイモアとゼーレィが玉座の脇に控え、玉座には、海皇が座している。


 四人は膝をついた。


『海皇陛下もお喜びであろう』


 フォルカロルが恭しく頭を下げ、膝を一つ進めた。


『海皇陛下には、ご機嫌麗しく――』





 伏せた面から視線だけを持ち上げ、海皇が座る玉座の足元を窺う。

(――)

 忍び寄る冷気に似た(おぞ)ましさ。

 もともと海皇が纏っているものではある。

 だがその違和感は他の三人も等しく感じているだろう。

 玉座の存在は確かに海皇ではあるが――

 海皇との中間に立つナジャルへ、視線を移す。





 ナジャルは闇の塊に思える姿をゆらりと揺らした。その姿を目の中に捉えていながら、全体が覚束ない。若くも見え、非常に歳経ても見え、人の姿に似て、闇のように曖昧だ。

 この部屋を出れば、恐らくその顔を明確には思い出せないだろう。


『血気盛んなのは良いがしかし、何を諍っていたのかね? 今は国が一丸とならねばならぬ時――多少の考えの違いは、互いに穏便にやり過ごさねばなるまい』

『貴様がそれを言うか、ナジャルよ。レイモアとゼーレィを喰らいおったくせに』


 忌々しさを滲ませ、フォルカロルがナジャルを睨む。


『これは人聞きの悪い事を――この二人はこれこのとおり、我等の前にいるではないか』


 白々しくナジャルは背後の二人を振り返った。


『――だが』


 口元に笑みの形の奈落が開く。


『そもそも喰らっても喰らわずとも、大して変わりはしないのではないか?』


 一瞬、その場に鋭い敵対の空気が生まれた。

 すぐにするりと流れて消える。


『ナジャルよ、何故に我等を燻らせておくのか』


 ヴォダが顔を上げ、ナジャルを見据える。


『ふむ。しかし未だ、アレウスの兵もその八割は健在、地上には我等の持たぬ法術体系があり、地の利がある。加えて昨日赤の塔に放った使隷は消えた。となれば潮はまだ満ちておらぬ』

『それが今更どうだと? 海皇陛下から全軍の指揮権を得ながら、この五か月貴様がやってきた事と言えばボードヴィルで遊ぶのみ。ただ貴様が肥え太っただけではないか』


 プーケールもまた、鱗に覆われた太い首を持ち上げる。長い尾が床を叩いた。


『ナジャルよ、これに関しては我もヴォダに同意する。待ったところで、アレウスの法術も地の利も消えぬ』


 四人の将軍達はそれぞれに、ナジャルへ四対の視線を向けた。

 ナジャルは考えるように腕を組み、目を閉じた。

 一呼吸後、その両腕を開く。

 それはひどく軽い仕草に見える。


『良かろう――道は半ば拓けている。進軍を開始しようではないか』


 玉座の海皇へと身を揺らし、ナジャルは恭しく向き直った。


『よろしいですか、海皇陛下――』





(――)

 視線の先で、海皇は『良い』、と――、一言頷いた。

 視線をナジャルへ戻す。

(もし――海皇が、想像通りならば……)





 フォルカロルが海皇へ向き直り、膝を進め、頭を深く床に這わす。


『海皇陛下。地上ならば我が軍こそが適地。その指揮権、是非ともこの私めにお与えください』

『いいや、このプーケールへ』


 ヴォダ、レイラジェもまた、同様の意を持って身を伏せた。


『面を上げよ』


 玉座に座る海皇から、くぐもった声が流れる。

 四人は膝を付いたまま、ゆっくりと上半身を起こした。

 空洞のように沈んだ双眸が四人の上に流れ、皮膚を千の虫が這うような感覚を覚えさせる。


『フォルカロル――貴様に任せる。兵は好きなものを好きなだけ率い、我が地上への復権の露払いをせよ』

『有難きお言葉――! 必ずや、ご期待に添うてご覧に入れましょう』


 フォルカロルはやはり自分こそが最も優れているのだと喜びを露わに(こうべ)を垂れ、歯を軋ませるプーケールへ侮蔑の篭った視線を向けた。


『――』


 プーケールは怒りを飲み込み、フォルカロルから視線を逸らす。

 続くナジャルの言葉をひとしきり聞くと、四人は立ち上がり、それぞれに黙礼し、踵を返して後方の扉へと歩き始めた。


『ただ、一つ――』


 退出しようとしていた四人の上に、再び海皇の声が落ちる。


『海の底で蠢いている者がいる』


 四人はぴたりと足を止めた。





 内心を悟られないよう、他の三人と同様に驚いた素振りで海皇を振り返る。


『穏健派とやら――かつて、我が皇太子を唆し、死地へ追いやった者共だ』


 極力抑えて流した視線の先で、海皇の表情は一つも動いていない。

 それが変質したが故か、それとも。

(例え変質していなくとも、何の感情もなかろうな)

 己が息子の命を奪ったのは海皇自身だ。

 大戦を引き起こす事を目的に。

 誰もがその程度は理解していた。

(――)


『此度もまた愚かしく、地上への復権を阻もうと目論んでいるのだろう。見つけ次第、我が前へ引き摺り出せ』










 満ちる水の中に服の裾が揺らぐ。

 窓から落ちる淡い光は水に拡散し、そこここに漂っている。


(進軍か)


 いずれは避けられないと思っていたが、想定よりも早かったか、遅かったか――

 どちらにしても事態は大きく動く。


 “地上への復権”と海皇は言った。

 だがそれに価値を見出せない。


(そもそもバージェスを奪ったところで、我等は未だこの()の下にいる。王都を奪う事に何の意味があるのか)


 銀色の眼が、廊下の窓の外、広がる海面を通して降り注ぐ光を、銀貨のように弾く。近付いた陽光は、暗い世界に慣れた彼等にとって眼の奥を射るようだった。

 イスが浮上しても尚、海面という檻の中に囚われている。


 ――だが、檻と考えぬ者もいる。

 少なからず、確かに。


 陽光の揺らぐ空に背を向け、廊下を降って行く。

 この城――、そしてこの皇都イスは、地上(アレウス)の王都を引き写したような造りだという。


(何の意味があろう)


 海皇の妄執だ。

 海皇はこの世界を見なかった。


(あの方は――)





 水に埋められた廊下を歩く。

 陽光が周囲から薄れて行くにつれ、馴染んだ色に身を沈める心地よさを愛でる。

 尚深く、水の底、城の奥へと進む。


 階段を更に下り、幾つかの角を曲がり、イスの奥底に行き着くと、そこにある一つの扉を開けた。

 さほど広くはない室内の中央には、微かな光を滲ませる緑色の球体が揺れている。


 か細く照らす緑の光に踏み込むと、奥で幾人かの影が動いた。

 身を包むのは西海軍の兵装だ。


『レイラジェ将軍』


 西海軍第三軍大将、ミュイルの姿がある。そして他に今は十人ほど。

 レイラジェは入ってきた扉に手をかざし、扉が微かに発光したのを確認して再び室内を振り返った。


 ミュイルが近寄る。その形はレイラジェと同じだが、全身を覆う硬質な黒い鱗が異なり、それは原種であるプーケールとも違う。

 変異種と、そう呼ばれる。

 地上から降った血統の中でも、更に環境に適合した者の姿だ。


『どのような結果に』


 ミュイルの問いに、レイラジェは奥の椅子の一つに腰掛けながら答えた。


『進軍が決まった』

『進軍――』

『だがすぐには動かんだろうな。フォルカロルは傲慢なだけの臆病者だ。気負ったはいいが、少しでも敗北が見える内は見せかけばかりの動きになるだろう』


 だが他者に功績を取らせるのは、それがごく僅かなものであっても良しとしない。


『そこに我等の好機がある』


 ミュイルが同意を示して頭を下げる。


『お前達の首尾はどうだ』

『先日来、御方と接触を試みておりますが、言葉を交わせたのはあの一度のみ……申し訳ございません』


 恐縮するミュイルへ、レイラジェは仕方がない、とそう言った。


『御方の失望は我等に推し量れるものではない――結果でしか納得して頂く事はできん。だが御方の力添えは必要だ。特に地上にあってはな。そしてナジャルめは、地上でなければ打ち滅ぼせまい。我等の動きに周囲も少しずつ感付き始めている。その前に御方の意を得たい』

『は』

『もし――、海皇の状態を明らかにできれば、我等の勝機は高まろう』


 あの海皇――

 あれは、ナジャルが喰らった死人だと。

 確たる証拠を掴み、そして全兵、全種族へ高らかに宣言し晒す事。


 そうなれば現状は大きく崩れる。

 それをまずレイラジェ達は一つ目の目標としていた。


『海皇を廃し、そしてナジャルを討ち滅ぼし、この海をかつてあの方と我らが目指したとおり、穏やかな美しい国にする。此度ならば我等にも不可能な事ではあるまい』


 レイラジェに向けられる目は無言の内に同意と決意を伝えて来る。


『かつて我等の祖の一部は、確かに地上にあったかもしれん。だがもはや、我等の故郷はこの西海なのだ』


 ミュイルと兵達は、噛みしめるように顔を伏せた。

 彼等の祖が地上から西海へ下ったのは、既に何十世代も前の事なのだ。

 地上の景色など、彼等の目には甦らない。

 今やこの深い海の色こそが、彼等の故郷の景色となった。


 陽光を揺らす空も悪くは無いのだと、レイラジェは瞳を閉じた。










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