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第3章『西へ吹く風』(8)

 王都西中層の、落ち着いた雰囲気を漂わせる街の一画は、大通り周辺の雑多で荒れ始めた空気からはまだ切り離されている。


 静かなその通りを見回しながら歩いているのは、手紙や物を届ける事を生業としている配達人の青年だ。昨日の日暮れに王都に着き、今日は午前中から仕事である配達の為に王都の街を歩いていた。

 とは言え戦争が始まってから、配達の依頼の件数はがくんと落ちている。今回も青年が託されたのはたった三件だけだった。


 配達人は王都に近い西のモースという街の運搬屋で働いていて、そこで引き受けた手紙を手に、きょろきょろと並ぶ家々の扉を見回した。家の扉には一つ一つ番地が表示されている。


「あった、ここだここだ」


 最後の届け先が無事見つかった事に若い配達人は破顔し、その白い板張りの扉を叩く。顔より少し高い位置にひし形の小さな窓があって、そこに顔を近づけた。


「すいません、お届けものです!」


 扉の向こう初め静かだったが、もう一度呼ばわると、奥で微かな音がした。

 二度手間にならずに済んだと肩を下ろしつつ、配達人は封筒の裏面を眺めた。差出人と宛先の名字は同じだ。ずいぶん遠いところに親戚がいるんだなぁ、と呟く。

 そこに書き留められている街の名は、彼も地図でしか見た事がない。さすがの親方でもそこまで遠くには行かないだろう。


 手紙は配達人が受け取った街まで、幾つもの手を経て、ひと月ほどかけて運ばれてきたものだった。

 最近は飛竜の運搬も高くなったからな、と呟く。軍が優先的に飛竜を使用しているせいで、飛竜屋で借りるのさえ以前の倍近い値段になっているのだ。


「遅いな」


 なかなか家人が出てこない。

 青年は再び声を張り上げた。


「――ヴィルトールさん! お届けものです!」


 もう一度玄関扉を叩こうと右手を上げた時、近づいてくる足音が聞こえた。ひし形の小窓に口を近付ける。


「良かった、ええと」


 差出人の名前を確認する。


「アーネスト・ヴィルトールさんからお手紙で――」


 終わりまで口にする前に、扉は勢い良く内側へ開いた。


「わっ」


 驚き、身を引いて家人と向かい合う。

 三十歳前後だろうか、女性だ。清潔感のある身なりだが、やつれた様子が一目で見て取れた。


 女性は見開いた鳶色の瞳を震わせ、喉元まで上った言葉を忘れてしまったと言うように、唇を何度も開こうとしながら、配達人を見つめた。








「ヴィルトールの手紙が届いたって……!」


 飛び込んで来たクライフは、その勢いのままグランスレイの執務机に手をついた。


「本当ですか?! 手紙――、何て言って、いや、奴はどんな状況で、今、どこに――」

「まずは落ち着け。手紙はこのとおり、消えたりはせん」


 苦笑するグランスレイの手元には、やや皺の寄った封筒が置かれている。その皺が運ばれて来た距離を示しているようだ。

 フレイザーもグランスレイの執務机の前に立っていて、クライフの様子に微笑んだ。翡翠色の瞳が少し潤んでいる。

 クライフは二人の様子を見て、ようやく息を吐いた。


「でかい問題がある訳じゃ、ないんですね?」

「まあ、それはどう言うべきか――」


 グランスレイは椅子の背もたれから身を起こした。


「ボードヴィルにいる、と書いている。それ自体が今は重大な問題だろう。だがまず無事だ」


 ボードヴィルは偽りの王太子旗を掲げた、離反者だ。そこにヴィルトールがいる事自体問題は根深い。

 けれどグランスレイの言うように、まずはヴィルトールが無事だと、本人の手紙からそれを知った事――それこそが重要だ。

 クライフは差し出された封筒を手に取った。少しだけ指先が震えて便箋を取り出す時乾いた音を立てた。


「――」


 文面は彼の妻に当てたものだった。

 無事でいる事、妻と娘に対し元気でいるかを問い、娘を淋しがらせている事を詫び、妻と娘に会えない事に対する辛さ、寂しさ、いかに二人を大切に想っているか本当ならすぐにでも飛んで会いに行きたい愛しているよと――


「うわこいつ俺達が読むかもしれないって事考えてねぇんすかね。普通読むと思いませんかこの状況なら」


 連綿と心情を綴られている手紙にクライフは閉口して左の眉をひくつかせ平たい声を出した。


「拍車かかってやがるわ」

「当然よ、もう五か月も経つんだもの。その間ずっと、あんなに大切にしてる奥様とお嬢さんに会えないなんて、ヴィルトールじゃなくても想いが募るわ」


 本当に奥様を大切にしてるのね、と溜息を零したフレイザーを、クライフはまじまじ見つめた。


「? 何?」

「いや、何でも」


 早口で言いつつ、フレイザーってそういう方がいいのか、と心に刻むように独りごち、それからまだ眉を微妙に震わせながら手紙に視線を戻した。


「俺達への伝言みたいなものは無いですね」


 自身の近況ばかりの手紙だ。他に――例えばボードヴィルの内情や、そして『ミオスティリヤ』に関する事には一切触れられていなかった。

 だがボードヴィルの街や人々の様子は、自分が命の危険の無い状態だと説明する中にちらほらと書かれている。


「我々が読む事もそうだが、ヒースウッドなりルシファーなりが読む場合も当然想定して書いているだろう。これもおおっぴらに出せたのでは無いようだが、この手紙を書いて出せる状況になるまでにも、相当の時間をかけたのは間違いない」


 ひと月もかけて、幾つもの運搬屋を経由して届けられたのがそれを示している。

 手紙がまともに王都に届いたのは、ヴィルトールを信用している、かつ真っ当な商人なりが間に入っているという事でもあるだろう、とグランスレイは続けた。


「ボードヴィルで足場を固めるのに、五か月――」


 グランスレイは壁の燭台を一つ外し、使いさしの蝋燭へ暖炉の中に吊るしてあった種火から火を移すと、自らの執務机の上に置いた。


「副将?」

「今後またいつ手紙を出す機会があるかは判らん。確実に届くという保証も無いだろう。一つ一つの機会を無駄にする男ではない」


 クライフから便箋を受け取り、グランスレイは蝋燭の火の上にそれをかざした。


「単純な方法でいい――届いたのならばな」


 見つめる三対の瞳に、便箋の裏に、熱にあぶり出されじわりと浮かび上がる文字が映る。


 兵数。

 警備体制。

 加わった近隣領主の名。

 風竜の警戒行動。

 西海の、第三勢力と考えられる者の、ルシファーとの接触。

 ミオスティリヤ――イリヤの意志。


 単語を簡潔に連ねたそれは、だが十分な情報だった。

 フレイザーが卓上に置いてあった白紙の便箋に、素早くそれらを写し取る。グランスレイは文字の浮き上がった便箋を丁寧に畳み、再び封筒にしまった。


「私は戻る。まだ第一大隊が動く場面は無いだろう」


 余り気負わないようにしておけ、とグランスレイが言ったのは、クライフが今にも外へ飛び出しそうな顔をしていたからだろう。


「承知しました」


 クライフは自分の頬に手を当て、苦笑した。

 閉じる扉を束の間見つめ、フレイザーは息を吐いた。


「――何にしても、まずは本当に良かったわ。奥様はどれだけ安堵されたか……」


 ヴィルトールの妻は近衛師団の将校である以上は常に覚悟はできているのだときっぱり言い、それはこの五か月揺らぐ事がなかったが、そんな痛々しい姿を見ているのはやはり辛いものだ。


「だな」

「上将にも教えてあげたいわ。きっと喜ぶわよね」


 フレイザーはぽつりと呟くようにそう言った。


「……だな」


 クライフがもう一度、一層力強く頷く。

 それが難しい事は良く分かっているが、ただレオアリスが喜ぶだろうと、そう考えるだけでも喜びは増した。


「それにロットバルトも――、伝えてやれりゃほっとすんだろ。たまにはツラ見に行くか」

「……きっと財務院は忙しいんじゃないかしら」

「そんなの関係ねぇって――」


 クライフはふとひっかかりを覚えてまじまじとフレイザーを見た。フレイザーはその翡翠色の瞳を落としている。


「どうかしたか?」

「どうかってほどじゃないんだけど、でも……」


 以前、ロットバルトと王城で顔を合わせた時がフレイザーの意識に引っかかっていた。


「やっぱり、もう侯爵家を継いだのだし」


 立場が違うのではないか――、と、フレイザーが口を開く前にクライフは真夏の空のような笑みを浮かべた。


「なんだよ、変な気を回すなって、フレイザー」


 夕刻も近くなった室内に、陽光が差し込んだように感じられる。


「どんなに立場が変わったって、あいつが上将の為に動かねぇなんて訳ねぇし」


 きっぱりと言い切ったクライフを、フレイザーは瞳を見開いて見つめ、それから頬に笑みを浮かべた。


「……そうね。そう思う、私も」

「だろ?」


 クライフは左の掌に、右の拳を打ち付けた。乾いた音が鳴る。


「よっしゃ、いい方向に向かって来た気がするぜ。早く俺の出番来ねぇかな!」








「プラド!」


 黒髪の少女は、扉を開けて入って来た砂色の外套の男の姿を見るなり、両手を広げて駆け寄り、その勢いのまま飛びついた。少女の体重を受け止めても、男の身体はほんの僅か揺れただけだ。


「どうした」


 男――プラドの淡々とした問いかけに、少女が人形のような顔を上げる。普段と変わらない男の反応へ、少し頬を膨らませた。


「待ってる間、質問だとか何とか言ってしょっちゅう兵隊が来るの!」


 プラドの目が僅かに細められる。


「問題は」

「無いけど」


 あんまりしつこかったら追い払えばいいし、と必要最小限の事を呟き、少女――ティエラは高い位置にあるプラドの顔をじっと見つめた。


「私あなたのお嫁さんだって言っておいたわ。ほんとはまだだけど。そしたらその後は話しかけて来なくなっちゃった」


 ジロリと視線が落ちたが何も言われなかった事に気を良くし、ティエラはプラドから離れると、ほっそりした腕を後ろ手に組んで僅かに首を傾ける。


「どうだったの?」

「赤の塔」

「赤の? 塔の名前? その塔は何?」

「罪人を入れる牢獄だ」


 プラドは息を呑んだティエラから離れ、窓際に寄った。


「……どうするの?」


 ここは王都街壁の東大門に設けられた、正規軍の建物の二階だ。旅証を改める兵士達の詰所であり、旅証不携帯や偽造の輩を一時留め置き調べる為の施設でもあった。

 旅証を持たないプラド達はここに足止めとなり、ティエラは建物を出ないという約束でプラドだけ街へ入る事を認められたのだ。

『私が残るからいいでしょう?』と願い出たティエラに、責任者である正規兵は半日だけという条件を付け、プラドの外出を許可した。


「もう数日ここにいるが、いいか」

「構わないわ。王都の街は歩いてみたいけど、ずっと旅して来たから少しゆっくりしたいのもあるし。でも一度くらい街へ行ってもいい?」


 プラドは窓際に寄り、陽の陰ってきた広場を見下ろした。そこを見覚えのある男が歩いている。名前を確か言っていた。


「……一人で歩くのは面倒が多い。俺がいる時にしろ」

「ほんと?」


 ティエラの頬がぱっと輝いたのは、街へ行く許可が出たからというだけではない。


「私、一人でも心配ないと思うけど、でもプラドが一緒に歩きたいって言うんならそうするわ」


 彼女の気持ちを表すように、腰の辺りまでの真っ直ぐな黒髪が揺れる。


「でも旅証は? 旅証が無いと二人で街は歩けないでしょう」

「つてができた」

「つて?」


 プラドは広場から視線を上げた。

 広場と大通りに面したこの窓からは、街の通りよりずっと良く王城の姿が見える。


「――赤の塔か」


 プラドの呟きを聞き取り、ティエラもまたその黒い瞳を窓の外に向けた。


 今王城は西陽を浴びて影になり、その全体が燃え立つようだった。






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