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第3章『西へ吹く風』(6)


 ゲルド一座がベルゼビアの前に呼ばれたのは、城に招かれて三日目、ちょうど十月に入った日の事だった。


 豪奢な広間の高い空間に楽の音が吸い込まれていくと、静寂が広間に落ちた。踊り終えたばかりのスキア達でさえ、弾む息を抑え込むほどの沈黙だ。

 一座の演奏と踊りはベルゼビアを満足させたのか。

 ベルゼビアの座る椅子は縦に長い広間の奥にあり、その表情は明確には読み取れない。


 ピリピリと肌を刺激するような張りつめた空気の中、ゲルド達の速い鼓動に、ベルゼビアの鷹揚な声が重なった。


「――明日、もう一度呼ぶ。今日より優れた技で、王妃殿下と王女殿下の目を楽しませよ」


 ゲルドは息を呑み――、身を伏せながら心の底から声を押し出した。


「有難き、幸せにございます――!」






 金糸雀(かなりあ)のもたらした文面を見つめ、ミラーは引き締まった面を綻ばせた。


「良くやった――!」


 目の前にはいないゲルド達へ、そう言葉をかける。


「今得られる中で最良の成果だ」

「閣下、これは両殿下の御身の救出も視野に入って来るのでは。機を見て両殿下の救出を図るよう指示しますか」


 卓の向こうで副将ホメイユが身を乗り出したが、ミラーは自らの意識も含め、敢えて抑えた。


「いや、目的が複数に渡れば、その分失敗の可能性は高くなる」


 ミラーの視線は長い卓の上の地図に落ちている。


 ヴィルヘルミナの街は外周を幅広の水路で囲まれ、全ての橋は街側へと跳ね上がる事で、容易く街と外とを遮断できる。

 街中の複雑な通りと、ヴィルヘルミナ城が聳える遮蔽物の一切ない丘。

 街の背後には深い森が広がり、その中を広い河が蛇行しながら横切っている。更に森の中の一里ほど先には、街道に沿うように走る断崖の亀裂。

 ヴィルヘルミナの街が難攻不落と言われる所以だ。


 わずか十五名の兵では、王妃と王女を連れて城を抜け、かつ街を無事出る事は至難の技だろう。


「今の手が失敗すれば、二度は使えない。ゲルド達は今は東方公の暗殺に集中させる。両殿下の救出は東方公暗殺の成功を以って、我々本陣が行う」

「では」

「暗殺成功の報と共にヴィルヘルミナへ総攻撃を仕掛けられるよう、全軍の態勢を整えておけ」

「承知致しました」


 ただ、とホメイユは続けた。


「両殿下のご様子を、王都の王太子殿下にお伝えいたしたいと考えますが」


 ミラーが頷き、再びその面に笑みを浮かべた。

 それこそが、ファルシオンの待ち侘びている情報だろう。


「それがいい。明日、殿下に吉報をお伝えできるよう、ゲルド達の首尾を祈ろう」








 スキアは心の中で忸怩たる思いを噛み締め、その想いを一足、一振りごとの舞に込めた。

 他の二人の踊り手もスキアと同じ想いだったろう。楽を奏でる奏者達も、見守るゲルド達も。

 彼等の目の前には、彼等が守るべき、その存在があった。


 王妃クラウディアと、王女エアリディアル――

 エアリディアルは椅子に腰掛け、たおやかに、そして凛とした姿を見せている。その事に深い安堵を覚えた。

 けれどエアリディアルの傍らの、もう一人の姿にスキアは衝撃を受けていた。


(王妃様――)


 王妃クラウディアはエアリディアルの横で、その身を半ば寝椅子に横たえている。

 王が戻らない事――、幼い王子ファルシオンの事、そして何よりベルゼビアに囚われているこの現状が、王妃を心痛と病に追いやっている事は明らかだ。

 スキアは三月に行われたファルシオンの誕生祝賀の折に、人々に手を振る王妃の姿を見ていたのだから。


 今、広間を満たしているのは彼等がこれまで街で奏でていた賑やかな楽曲ではなく、慰めるような、労わるような、柔らかな楽の音だった。

 囚われているエアリディアルと、王妃の心に届くようにと。

 スキアの腕は剣を持つためではなく、まるで生まれながらに誰かに舞を捧げるためのもののように動いた。

 あなた方をお助けします、と叫んで飛び出したい。

 すぐそこに、二人がいる――どうにかして――


 王妃と王女の左右には、離れてはいるが警備兵がそれぞれ十人、立っている。スキア達の背後の扉の前にも、十人。合わせて三十。

 一座に扮したスキア達正規軍兵士十五人ならば、警備兵の数が倍でも恐らく抑えられる。

 東方公はこの場に姿はなく、いるのは退屈そうにこの場を眺めているマンフリートとブラフォードのみだ。


(二人を人質にすれば)


 スキアはぐっと堪えた。

 今、ここでスキア達が失敗すれば、王妃達を救出する道はほぼ閉ざされてしまう。ベルゼビアは同じ過ちを繰り返さないだろう。それは何より避けなければならなかった。


(でも)


 楽の音に合わせてスキアの長く艶やかな黒髪が揺れる。祈りを捧げるような曲だった。


 二人を連れ出す事ができなくても。

 せめて、打ちひしがれ、伏せっている王妃へ、ファルシオンが無事である事を伝えられれば。

 それができないのなら、せめて何か、王妃の心を励ませる事を――


 スキアのその行動は、初めから意図していたものではなかった。

 無意識に、足を止め、驚く他の踊り手や奏者達がそれでも舞と演奏を続ける中、スキアはおもむろに音楽に声を乗せた。





 妙なる楽の調べに 月の花は輝き


 その御手で幼き太陽を(いざな)


 幼き陽は次第に 輝き 高く天へと進む


 天は月と太陽と大地と 我等を(いだ)


 恵みを巡らせ 命を巡らせる





 ファルシオンが生まれた時、名もない詩人によって作られ、人々に歌われた詩だ。

 月はエアリディアルを、太陽はファルシオンを、大地は王妃クラウディアを――

 そして天は王を。



 それまで興味の無さそうに頬杖をついていたブラフォードが、双眸をスキアに向ける。

 その口元が笑みを象った。



 流れる歌声の余韻が、淡く消えて行く。

 音楽も、踊りも止まっている。

 はっと我に返り、スキアは全身の血が足元へと引いていくのを感じた。


 このベルゼビアの城の、今の状況において――

 王家とファルシオンを讃える詩を歌う事の意味は。


「今の歌は何のつもりだ」


 マンフリートが低く声を這わせる。身体を預けていた椅子の背から身を起こし、冷えた眼差しでスキア達を睨み据えた。

 その声に警備兵達が一斉に剣に手を掛ける。


 先程まで心安らぐ音曲に満ちていた広間は、突然陽が陰ったように冷え、張り詰めた。

 スキアはその場に膝を落とした。踊り手と奏者、ゲルド達も両膝をつく。


「申し訳――」

「せっかくの美しい舞と調べに、目くじらを立てるのは無粋というもの」


 マンフリートに似た、だがより酷薄さを備えた声がそう言った。

 傍の椅子に座ったブラフォードが鷹揚に脚を組み、ひじ掛けに置いた両手を軽く組んで顎を持ち上げる。


「この程度、良いではないか、兄君。民達の想いが王家にあると改めて確認できた。我等ベルゼビアも、王家と国を支えようという想いは同じと、常々公言しているのだから」


 その言葉に何を感じたのか、マンフリートは苛立ちを眉に載せた。


「何を甘い事を、お前は」

「何より、王妃殿下のお喜びの何と明らかなものか」


 ブラフォードが手を伸べた先を見て、マンフリートだけではなくスキアも、ゲルド達も息を飲んだ。

 王妃クラウディアが、上半身を寝椅子の上に起こし、その頰には静かな涙が伝っていた。

 そっと寄り添い母の顔を覗き込むエアリディアルの瞳も、宝石のように光を弾いている。

 それはマンフリートが見る限りでも、五か月の間で初めての事だった。


「――良い」


 その一言に、警備兵等が剣の柄に掛けていた手を下ろす。マンフリートはそれ以上は何も言わず、再び椅子に身を沈めた。

 それまで呼吸すら忘れ息を詰めていたゲルド達の上に、風琴の澄んだ音色のような声が流れた。


「とても――」


 エアリディアルが白皙の面を持ち上げ、スキアと、一座の者達を真っ直ぐに見つめている。


「とても嬉しく、心地よいひと時でした。お礼を申し上げます」


 綻ぶ花を思わせる微笑み。月の光を受けたようだと謳われる銀糸の髪は王都にいた頃と変わらず、けれどその柔らかで可憐な面差しは、隠しようのない憂いを帯びている。


「また、あなた方の舞と演奏を見せてくださいますね?」

「我々のような、稚拙な……」


 ゲルドが頭を伏せ、感極まって口籠もる。


「下がって良い」


 家令がゲルドへそう声を掛け、一座は再び深く頭を下げた。

 エアリディアルは一座が退出するまで、ずっと柔らかな微笑みを絶やさなかった。






 夕刻、家令は今回の失態に気を揉んでいたゲルド達を訪ねると、詫びようとするゲルドを制し、逗留の継続を告げた。


「両殿下はお前達の芸をお気に召され、またご覧になりたいとご希望になられている。公爵閣下はお前達にしばらく城へ逗留せよと仰せだ」



 家令の足音が廊下の奥に消えると、室内に張り詰めていた緊張が解けた。ようやく午後の日差しが室内に差し込んだかのように感じられる。

 スキアはゲルドや仲間達に向かい合い、深く頭を下げた。


「申し訳ございません、皆を危険に晒し――任務すら危うくしました。二度と、このような事を」


 一座の――、スキアとこれまで任務を共にした兵士達は顔を見合わせ、思い思いスキアと向き合った。最初に口を開いたのは小風琴を奏でている第五大隊准将、ブレイクだ。


「まあ確かに、一瞬これで首が飛んじまうかと肝が凍ったが」


 上半身を伏せたままのスキアへ、にやりと笑った。


「俺達の任務は却って繋がったんじゃないか?」


 踊り手に扮した二人、アルマとコーディがスキアの肩を抱くようにしてゲルドを振り返る。


「結果良けりゃってヤツですよね、少――ゲルドさん」

「それに、スキアの歌はとても綺麗だったし、またあの歌を歌えば王妃様はお喜びになるわ」

「そりゃいいな。スキアにゃまた歌ってもらって、王妃様にどんどん元気になっていただこう」


 ブレイクが軽い口調で笑うと、唯一の法術士であるバーデンも頷いた。


「その為に妃殿下は我々をもう一度呼びたいとおっしゃったのでしょう。あの歌が無ければ今回限りだったかもしれません」


 兵達が口々にゲルドへ訴えるのへ、ゲルドは判っているというように兵士達へ両手を上げ、そしてスキアと改めて向き合った。


「皆の言う通りだと俺も思う、スキア。あの歌がなければ、今日城を出ることになったかも知れない。今後は更に慎重を期さなくてはならないが、まあ結果良ければ、だ。――ブレイク」


 ブレイクは浮かべていた笑みを収め、右腕を胸に当てた。


「バーデン、ユング、コーディ」


 ゲルドは部下一人ひとりの名を呼び、部下達を見回した。

 あの広間で見た、王妃の姿。打ちひしがれ――、けれどファルシオンを称える歌に、涙した。

 それは彼等の心に改めて、任務達成への誓いを刻んだ。


「俺達で、必ず、任務を成功させるぞ」









 居城の一室で、ファルシオンが手に握りしめるように掴んで見つめているのは、一枚の書状だった。

 ベンゲルにいる東方将軍ミラーから、ファルシオンの母、王妃クラウディアとエアリディアルについて。

 二人が無事であると、書状にはそう書かれていた。


「母上と、姉上が――」


 ファルシオンにはまだ難しい文字が綴られたその書状を、縋るようにじっと見つめている。前に立つスランザールは労りを込め、ミラーの手紙の内容をファルシオンへ伝えた。


「殿下のご生誕の折に作られた詩をお聴きになり、お母上は涙を流されたと――」

「わたしの――」


 ファルシオンの瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れる。


「母上……あねうえ……っ」


 堪えきれず、ファルシオンは堰を切ったように泣き出した。


「ははうえ――」


 啜り上げ、突き上げるように泣きじゃくる。

 ハンプトンがファルシオンをぎゅっと抱きしめ、懸命に背中をさすった。

 スランザールがその年齢故だけではないしわがれた声をぽつりと落とす。


「殿下……良うございました――」


 どれほど不安と心配に押しつぶされそうになり、そしてどれほど、幼い身でその不安を表す事を抑えていたのか。


 ハンプトンにしがみつき、母を呼びながら身体全体で泣きじゃくる幼いファルシオンの姿を、スランザールは掛ける言葉もなく、痛ましさの反面ファルシオンが感情を吐露できた事への安堵を持って、長い間見つめていた。







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