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第2章『冥漠の空』(18)

 

 昨夜から続く雨が広い硝子戸の向こうを(けぶ)らせ、今ファルシオンがいるこの部屋は、窓の外に広がる王都の街からここだけ切り離されているかのように思えた。


 絶えず聞こえてくる雨音。

 雨の日のごく淡い光。

 揺れる燭台の灯り。


 ファルシオンは白い光が滲む硝子戸を背に座り、微かな吐息を零した。陰を帯びたその響きは、たった五歳の幼い少年にはまるで似付かわしくない。



 西方軍の壊滅――中でも西方将軍ヴァン・グレッグの死は、王都に大きな衝撃を与えた。



 昨夜遅く、アスタロトからサランセラムの状況、そして西方第六大隊の軍都エンデの様子がもたらされた。

 剣士の氏族の協力は得られなかったとも。

 アスタロトはそのまま、バージェスの北方軍、そしてヴィルヘルミナと対峙する東方軍を回っていて、今日の夜遅くに王都に戻るはずだ。


 アスタロトの戻りを待たず、西方軍の壊滅の報を受けた昨日の朝から王城での協議は既に二度行われていた。三度目の協議が今日この後、朝の七刻に謁見の間で予定されている。

 当然、ファルシオンはその中心にいなくてはいけない。


(私が)


 微かな吐息は自分ですら気付かないまま溢れ、淡い室内に溶けて積もる。

 もっと自分に力があったならと、何度思っただろう。この三か月、それを考えない日は一日たりとも無かった。


 問題は尽きず、次から次へと目の前に置かれ、そして様々に対応をしてはいても一つ一つが簡単に解決していかない。

 西方軍をどう立て直し、どう西海へ対処するか。西海が死者を兵としているという悍ましい報告も上がっている。

 一方で難民の増加への対応。第六大隊軍都エンデ周辺は既に飽和状態だと聞いた。


 バージェスの手前、グレンディル平原に展開する北方軍、フィオリ・アル・レガージュの南方軍。

 ヴィルヘルミナの東方軍。

 ファルシオンの母と姉。

 ボードヴィルの――



 ファルシオンは柔らかな頰を強張らせ、広げた手のひらを金色の瞳で見つめた。

 小さな手だ。どれほど一生懸命広げてみても、ファルシオンが掴めるものなどほとんど無い。支えられるものも。


 カチリと時計の針が音を立てる。そろそろ六刻になろうとしていた。

 もうあと一刻で、また協議が始まってしまう。


「――様、……ファルシオン様」


 はっとして顔を上げると、ハンプトンが開いた扉の前に立っていて、心配そうに――けれどどこか励ますように告げた。


「お考え中の所を失礼いたします。ヴェルナー侯爵が、控えの間に」


 ハンプトンが期待した通り、ファルシオンはさっと面を輝かせ椅子から滑り降りた。


「通して」





「失礼致します」


 ほどなく扉が開き、静かな声がファルシオンの耳に触れる。再び吐息が零れたが、それは先ほどの陰を含んだでいたものとは、全く異なる響きで散った。

 駆け寄りたい気持ちをぐっと堪え、ファルシオンは入室した相手が側に来るのを待った。

 訪問者――、ロットバルトがファルシオンの手前で片膝をつく。


「早朝にも関わらずお時間を頂き、恐縮です」

「私が呼んだのだ、すぐに来てくれて嬉しい、座って」


 どの時間でもいいから会って話をしたいと、そう連絡したのは昨日の深夜になってからで、けれどこれほどすぐに来てくれるとは思っていなかった。今は誰も忙しく、財務院とヴェルナー侯爵家を担ったばかりのこの青年は尚更だ。

 けれど卓を挟んでファルシオンと向き合っている姿からは、そうした煩雑さは窺わせない。


「ヴェルナー」


 と、そう口にしかけてファルシオンは束の間躊躇い、それからまっすぐ視線を合わせた。


「……ロットバルト」


 名を呼んだ方がいいと、以前レオアリスが言っていた。

 だからいっときは呼んでいたのだ。三ヶ月前に彼がヴェルナー侯爵家を継いだ事もあって、何となく、そう呼べなくなっていたから。


 ロットバルトの蒼い瞳がファルシオンの上に留まり、だが窘める言葉はなかった。それがまた少し、心の中に沈んでいた陰を和らげる。


「そなたの考えを聞きたい。ほんとうは、スランザールに聞かなくちゃいけないのかもしれないけど」


 以前なら彼は教育官としてファルシオンの館を月二回程度訪れていて、他愛のない質問にも丁寧に答えてくれていた。少し言葉は難しかったけれど。

 そして何より、レオアリスのそばにいて――、何度も、レオアリスと共にファルシオンを助けてくれた。


 ハンプトンが手押しの台を押して室内に入り、香りの良い紅茶を注いだ磁器の器を二人の間の卓に置いて退出する。その束の間の沈黙の間に、ファルシオンは幾つも幾つも頭の中を巡っている不安から、今問うべき言葉を選んだ。

 心の中が少しずつ穏やかになって来たのは、この部屋を占めている空気が、以前の学習室を思い起こさせたからかもしれない。


「正規軍のことと、それから、エンデにいる人たちのことと……何か、良い方法はないだろうか」


 西方軍の問題だけではなく、エンデの難民の事も心の一角を占めていた。

 難民については当面増え続ける事はあっても減る事は期待できないと、昨日の協議の場でベールが言っていた。そして長期化すればエンデ周辺は荒れ、疫病の類も流行る危険性もあるのだと。

 少しでも早く、彼等の為にできる事をしたい。


「急に住んでた家をはなれなくちゃならなくて、それなのにこれ以上、つらいことが続くのはかわいそうだ」


 エンデに避難している多くはサランセラム近隣の村の農民や職人達で、四千人近くいるのだと聞いた。

 荷物を荷車に載せて逃げてこれた者達もいるがそれも最低限のものでしかなく、特にサランセラムに近い村から逃げて来た人々は着の身着のままの者達も少なくない。

 寝るところは簡易な天幕か、それともただ草の上、食料も今はエンデが配給しているものの、エンデの備蓄だけではあと十日も保たないのではないかと言っていた。


 心配な事ばかりだが、昨日の協議では議論は西方軍の立て直しに集中し、難民への対応についてはほとんど話し合えていなかった。

 再び重苦しい陰が心の中にじわりと広がりかけ――、耳に届いた声に、ファルシオンは瞳を持ち上げた。


「――正規軍については、やはりアスタロト公とタウゼン副将軍のお考えをお聞きするのが一番だと申し上げます。公式な協議の場以外で軍の運用を私が殿下に意見申し上げるのは、避けた方が無難でしょう」


 ロットバルトの言っている事はファルシオンにも判る。この二か月余り、そうした事を意識せざるを得なかった。ファルシオンの今の立場だからこそだ。

 頷くと、ロットバルトは「難民については」、と続けた。


「大公が昨日仰った通り、難民問題の解決もまた、一夕一朝に行くものではありません。今後幾つかの対策を並行して取っていく事になるかと思いますが、その中でもまずは、彼等が従事できる仕事が必要だと考えています」

「しごと――」


 ファルシオンの考えていた事とは違って、首を傾げる。


「具体を挙げさせていただくとすると、西海平定後には元の街や村へ戻す事を前提とした上で、一つには彼等からエンデ防衛の志願兵を募る事。エンデの防衛は現時点ではさほどの負担はありません。防衛にそれらの志願兵を回せば、第六大隊の現正規兵は、西海への対応に集中する事が可能になります」


 磨かれた卓の上に二つ並んだ紅茶の、赤い液体の表面が光の輪を作っている。ふわりと昇る湯気は控えめな朝の光にすぐに消える。

 やはり学習室にいるようだと、そんな想いがその温かな湯気と共に浮かぶ。


 ロットバルトはどうだろう。

 見上げた面からはファルシオンと同じ想いを抱いたかは判らない。


「また一つは、西海の進軍に備えた塁壁構築などの労力として人を募る事」


 サランセラム丘陵の前面に、西方軍の侵攻を食い止める為の塁壁を築く必要性は、昨日の協議でも正規軍参謀長ハイマンスから意見が出ていた。ただサランセラムから内陸への防御となると簡易なものでは終わらず、確実なものにしようとすればするほど大規模な労力を投入する必要がある。

 通常その任務に就く正規軍には、そもそも余力が無いのだ。


「エンデにいる人たちに……」


 でも、と心配に眉を寄せる。


「住んでいた所を離れて、それでも働かなくちゃいけないのは大変ではないのか」

「そうかもしれません。しかし役割を担うという事は、そこに自らの足場を作る事に繋がります。人はただ与えられるより、求められる方が上手く立てる」


 その言葉は少し難しかった。


「どういうこと?」

「そうですね」


 ロットバルトは指先を紅茶の受け皿の縁に当てた。

 窓から滲む淡い陽光が卓に置かれた紅茶の器の白く薄い縁を透かし、そこに柔らかな光を蓄えるようだ。


「物資などにより支援する事はさほど難しくはありませんし、受ける側も楽でしょう。けれどそれでは人任せにただ漫然と過ごすだけになります。それは心を削る。彼等自身が自らの行為に対価を得て、その対価により自らの暮らしを立てられる事が肝心なのです」


 ファルシオンの瞳と視線を合わせ、ロットバルトはもう少し続けた。


「殿下御自身も、身の回りの事を全てハンプトン殿や侍従官に任せるよりも、御自身でなさる事に価値を感じられるのではありませんか」


 ロットバルトの言葉にファルシオンは頷いた。価値を感じるという言い方はまだ少し理解しきれなかったが、言っている事は判る。例えば調べ物など、ハンプトンや女官達の手を煩わせないでできた時は、とても誇らしい気分になった。


 ファルシオンは少しでも、自分でできる事はやりたい。今はできない事が多すぎて――自分の事も、それからこの国の事も――、だから、ロットバルトの言うように、できる事があればやりたい。

 逃れてきた人々も同じだろうか。


「他にもできることはあるかな」

「例えば」


 穏やかに問い返され、「ええと」と、ファルシオンは腕を組んだ。


「エンデの街の人のお手伝いをしたり」


 それから、と考えながら、今度は指をひとつづつ折り曲げる。


「みんなで助け合ったり……、小さい子や、ご老人のお世話とか、食事の支度とか、きっと困ってる人がたくさんいるから、できる人が少しずつ、手伝ってあげれば」

「良いお志です」


 ロットバルトが笑みを浮かべたのを見て、ファルシオンは頬を輝かせた。


「今日、そういう話をしたら、みんな賛成してくれるかな」

「殿下ご自身で、協議の場にご提案を。この件に限らず、殿下のお考えはお示しになられた方が良いでしょう」

「私が? でも」


 戸惑いと躊躇いが急に浮かんで来る。

 スランザールどころではなく、ベールや、そしてロットバルトと比べても自分がずっと幼い子供だという事は、ファルシオン自身良く理解していた。


 でもファルシオンは国王代理という立場だ。ファルシオンが勝手な事や間違った事を言ってしまったら、みんな困ってしまうのではないか。

 その迷いを読み取ったように、ロットバルトは静かに続けた。


「貴方が自らお考えになり、公の場で御発言される事が何より重要なのです。お考えに対する助言や補佐は幾らでも、老公を初めとして我々が致しましょう。その為におります。殿下はお考えを示し、偏らず多くの意見をお聞きになる事――そうお努めください」


 ファルシオンはその言葉を噛みしめた。

 それはとても大事な事だと判る。


「――うん」


 頷き、ほうっと息を吐く。

 少し、自分にできる事が見つかった気がする。

 ほんの少しだけれど。


 時計の針はもう六刻半を過ぎており、ロットバルトはそれを見て、ファルシオンへと退意を告げて立ち上がった。


「後ほど改めて、協議の場で」

「ありがとう」


 それから少し早口で続けた。


「ロットバルト――、また、相談してもいい?」


 それには微笑みが返る。


「必要な時にお声掛けください」


 扉に向かいかけたロットバルトはふと足を止め、雨に濡れる庭園へ瞳を向けた。

 そこに広がっているのは、三か月前のあの庭園ではない。

 今ファルシオンが暮らしているのは王の館だ。

 ファルシオンの館の補修は既に終わっているものの、あの夜余りに血が流れたそこへ、ファルシオンを戻す事は時期尚早と考えられていた。

 少し先に硝子張りの温室が、雨を弾いて白く霞んでいる。


 ファルシオンは淡い光に向けられているロットバルトの面差しへ、少しの期待と共にそっと、問いかけた。

 二人で、向かい合って話をしていながら、その事に一度も触れなかったから。


「もし、行くなら……」


 地下のあの場所へ、と。


「――いいえ」


 ロットバルトは笑みを浮かべ、ファルシオンへ一礼した。








 前を行く三名の侍従官の足音は、誰一人靴音を鳴らす事無くひっそりと抑えられ、廊下は静寂の中に沈んでいる。

 およそ三か月前――正確には二か月半前のあの夜、居城に満ちていた混乱の気配は、今は微塵も感じられなかった。

 確実にあの夜の延長上にありながら、あの時が、一切失われたかのような。


「――」


 何もない自分の前から、視線を逸らす。

 ロットバルトが居城の扉を潜ったのはあの日以来だ。それは意図してのものではなかったが、気付けば二か月半が過ぎていた。


(確かに、殿下には気負う事のない相談相手が必要だろう)


 本来は、それが――


 白い光に満ちた『控えの廊下』に至り、居城と王城とを繋ぐ両開きの扉が見えたところで、扉の脇に立っていた二人の侍従官が、扉を内側へと開いた。ロットバルトが出るにはまだ距離が離れている。開けたのは新しい訪問者を迎え入れる為だろう。

 ちょうどセルファンがファルシオンを迎えに来たのかと思ったが、扉を潜り控えの廊下へ入ったのはセルファンでは無かった。だが三十半ばのその男は、ロットバルトも顔を知っている人物だ。


(エスティア伯爵――)


 内政官房の事務官次長。

 エスティアは前から歩いて来るロットバルトに気付き、一瞬逸らせかけた視線をすぐにまた戻した。互いに目礼して擦れ違う。


 控えの廊下を出て、扉が閉ざされる前に、ロットバルトは背後に視線を流した。

 エスティアがファルシオンへの面会を求め、それに対し、「協議のご予定が入っておられます」と侍従官が面会できない旨を告げる。

 そこで扉は閉ざされた。







 ロットバルトは居城と王城を仕切る扉の前を離れ、一度広間を抜けて、階段を四階へと降りた。王城北西棟に設けられたヴェルナー侯爵家の控えの間に戻る。

 次第に雨脚は弱まり陽射しの気配を見せてきたが、まだ室内は冷えた空気が占めている。軽く息を吐いた。


「侯爵」


 掛けられた声に驚く様子もなく、ロットバルトは視線をその場所へ向けた。ブロウズが膝を付き、顔を伏せている。

 ブロウズ、そしてエイセルは彼等が担う役割を着実に果たし、そして日々報告を上げて来る。


「昨日の城内では、復帰を望む声が四割ほど……以前よりやや強くなっております。ただいずれにしても、王都は安泰だろうという楽観論は根強く」


 ブロウズの報告は想定の範囲内に収まっている。一通りの報告を終え、ブロウズはもう一つの案件についても付け加えた。


「エイセルは本日の午後、イル・ファレスから戻ります」


 イル・ファレスについても現状大きな問題は無い。今後どう周囲と関わっていくか、それを慎重に見極めなくてはならないが。

 一つ想定外と言えるのは、西方軍の壊滅の報の中に、ワッツの生死についての情報が含まれていなかった事だ。ヴェルナーの伝令使もワッツを追えていない。


「私はこれで。何か別の御用件はございますか」


 ロットバルトは思考を切り替えた。


「――アルジマール院長に繋ぎを。協議の後に少し話をしたいと」

「承知致しました」







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