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第2章『冥漠の空』(16)


 サランセラムの丘を支配した静寂は、永劫に続くかのように思え――、だが、すぐに乱された。

 ざわりと丘が揺れる。

 死者の軍の向こうに、塔のような影が身を起こす。


「あれは、ゼーレィか?!」


 嘶き身を揺する愛馬を宥めつつ、ゲイツは現れたその姿を睨んだ。

 三階建ての塔ほどもあるその体躯は、確かに昨夜戦った三の鉾、ゼーレィだ。その周囲に居並ぶのは、ゼーレィが率いる海魔と、西海軍。


 けれど同じと見えるのは姿だけだった。

 第六大隊と同様、それらもまた、生気を感じさせなかった。その数は、およそ四千。


 どの事実が最も、固唾を飲む西方軍兵士達に衝撃を与えたのか。

 死者の群れとなった第六大隊の姿か、倒したはずの西海軍が再び四千もの大軍となってそこにいる事か、それとも、第六大隊と西海軍が共にいる事か――


 ヴァン・グレッグでさえ、指示すべき言葉を忘れ、つかの間その光景をただ眺めた。

 不意に、丘の上を埋めた生無き兵士達は、唸るように吼えた。

 人のものとは思えない声が大気を叩き震わせる。


 その声と共に、前進を開始した。

 黒い泥水が流れ落ちるように、丘を降る。


「斉射しろ!」


 ヴァン・グレッグの声に、ゲイツやホフマンも同じ指示を張り上げ、騎馬をそれぞれ左右に走らせる。

 だが押し寄せる兵達を前に、正規兵達は弓に手を掛けながらもそれを引き絞れなかった。


「み、味方じゃないか……!」


 異様な姿は明らかでも、あれはほんの数刻前までは自分達と肩を並べていた戦友なのだ。


「撃ったら、どう……」

「戦うのか? でも」


 ヴァン・グレッグの声が兵士達の意識を鞭のように叩く。


「撃て! あれは既に敵だ! 構わず撃て!」

「――ッ」


 弓が引き絞られる。

 だが時既に遅く、矢を射る機会は虚しく(つい)え『第六大隊』は最早兵達の目前へと迫った。

 前面に立てた盾の壁に突進する『第六大隊』の騎馬がぶつかり、その重量に耐え切れず盾の壁は切り裂かれた。兵士達の間へと騎馬が雪崩れ込む。


 同じ軍装、昨夜まで共にいた見知った顔。

 それらが今はまるで意志の光の無い虚ろな目を兵士達へ向け、冷たい鉄の刃を容赦なく振るう。

 剣に断たれ、槍に貫かれ、西方軍兵士達は次々に地面に倒れた。


「ただの敵と思え! 戦え!」


 ゲイツは切りかかって来た兵の剣を弾き、その勢いのまま喉を突いた。落馬したその兵は、この二か月、ゲイツも言葉を交わした事のある第六大隊の中将だ。

 確か名を、エランドといった。


(考えるな!)


 振り払い、手綱を繰って馬体を回し、彼の部下に槍を突き立てようとしていた兵を斬り捨てる。


「今は戦え!」





 海魔が喉を震わせる。

 歌声が流れ、兵士達の流した血だまりが震えたかと思うと、刃となってそこにいた兵を、騎馬を切り裂いた。


「歌が――」

「法術士団! 防御を!」


 ヴァン・グレッグの声とほぼ同時に宿営地の奥に法陣の光が湧き起こる。

 西方軍兵士達を包んだ淡い光は、迫る血の刃を一旦弾き返した。

 だが、光は昨夜よりもずっと薄く、今にも解けそうに明滅している。


(昨夜大型の術を重ね過ぎた――法術士達も疲弊している)


「海魔を先に倒せ!」


 ヴァン・グレッグは自ら騎馬を駆り、再び喉を震わせ始めた人頭姫(ハゥフル)に迫ると、一刀のもとに首を跳ね飛ばした。

 見回した視線の先は、どこを見ても既に敵味方が入り乱れた混戦状態だ。目に見える兵達の顔はいずれも混乱し恐怖と動揺に強張り、ヴァン・グレッグの指示を受け集団として動ける体制は、あまりにあっけなく崩れていた。


 昨夜までは一糸乱れぬ統率を誇っていた兵士達が。

 襲い来るかつての同僚、戦友に、状況もつかめないまま容易く斬り倒されていく。


「――ッ」


 ヴァン・グレッグは憤りを噛み砕き、あらん限り声を張り上げた。


「己が命を守れ! 考えるのはそれからだ!」


 二体目の人頭姫(ハゥフル)を斬り捨て、ヴァン・グレッグは一つ先の丘の上へ視線を向けた。ゼーレィが巨体を揺らしている。


「あれを倒して、戦況が変わるか――?」


 その可能性は薄いと思えた。

 あれもまた、意志を持たぬ死者だと。


「――いや」


 変えるきっかけにはなる。

 手綱を繰り、ヴァン・グレッグはゼーレィへと丘を駆け登った。





「グィード!」


 ホフマンは盟友が振り下ろした剣を弾き、叫んだ。


「グィード! どうした! 目を覚ませ!」


 馬上で向かい合う姿は、血の気の失せた土気色の肌と虚ろな目以外は、昨夜までのグィードのままだ。

 その上に生命は無く、既に違うものだと判っていながら尚、ホフマンはもう一度叫んだ。


「グィード! 貴様何をやっている! 正規軍の誇りを見せろ!」


 その叫びは哀切に近く、だがグィードは僅かの反応も返さないまま、ホフマンへ剣を振り下ろした。

 騎馬ごと躱したホフマンの横をグィードの騎馬が駈け抜け、その剣は後方にいた正規軍兵士を容赦なく切り裂いた。

 ホフマンが馬体を返す間に、三名の兵士が草の上に倒れる。


「グィード!」


 感情を喉の奥へと押し込み、ホフマンはグィードの騎馬へと突きかかった。振り向いたグィードの剣とホフマンの剣が、二度、三度、激しく撃ち合い、弾き合う。

 ホフマンはギリ、と歯を鳴らした。


 グィードは気のいい男だ。そしてホフマンよりもほんの僅かではあるが、剣の腕は上だと認めていた。

 だが――

 七度、互いに剣を撃ち合った後、ホフマンの剣はグィードの身体を、右肩から斜めに斬り裂いていた。


 グィードの身体が馬上でぐらりと傾ぎ、そのまま顔が(たてがみ)に落ちる。

 流れる血は無く、ホフマンは苦々しい思いを無理矢理飲み込んだ。


「――西海め……」


 憤りが肚の底から湧き起こり、全身を震わせる。

 自らの意志も尊厳も無く、ただ動く死者にされ――

 感傷を払いのけるように首を振る。


「冷静になれば倒すのは容易い! 今はただ――」


 兵達を鼓舞しかけたホフマンの声は、途中で途切れた。

 見下ろした自分の左胸に、剣の切っ先が覗いている。

 声の代わりに、喉から生暖かい血が零れた。


 振り向いたホフマンの目が、身体を斜めに断たれながらも馬上に身を起こしているグィードの姿を映す。


「グ……」


 ホフマンは霞む視界にグィードの姿を捉えたまま、鞍からずり落ちるようにして草の上に倒れた。





 ヴァン・グレッグがゼーレィへと騎馬を駆り――、だがゼーレィまであと数間と迫ったヴァン・グレッグの耳に、一層の驚愕の呻きが届いた。


 それはたった今まで戦場を支配していた混乱と戸惑いとは、明らかに異なるものだ。

 恐怖の呻き。

 同時にヴァン・グレッグの背をも、凍る手が撫でる。


「何だ――」


 見回した視線は、凍り付き一点に視線を注いでいる兵士達の姿を捉えた。

 その視線の先――


 それを目にする前に、そこにあるだろう姿をヴァン・グレッグは理解していた。


「――ナジャル」


 朝日に照らされてなお禍々しく、闇の塊の如き巨大な蛇の躰。

 それが丘の上に、蒼穹の天蓋に架かる虹に似て、弧を描き空を割っていた。

 上空へ上がっていた竜騎兵の駆る飛竜達が、その翼を失ったかのように力を失い、地上へと降りて行く。

 黒い虹がゆらりと揺れる。


 長い身体の先端の、光を放つ二つの銀の双眸。

 閉ざされていた顎が割れ、血よりも赤黒い奈落が姿を現わす。

 ナジャルはゆっくりと、丘の上で恐怖を見上げる兵士達の上へ、その(あぎと)を下ろした。


 新たな、そして絶望的な死の出現に兵士達の混乱は一層増し、僅かに残っていた戦意などかなぐり捨て、逃げ惑った。


「落ち着け! 冷静に撤退を――」


 ヴァン・グレッグやゲイツの鼓舞も虚しい。

 戦場は絶望に満ちている。

 今、自分達にこの絶望を回避する術は無い。それは明らかだ。


 問題は、この先――


(あれ程の化け物を、どう倒せばいい)


 法術か。

 それとも。


 ヴァン・グレッグの脳裏に過ったのは、二か月前のあの時、王城の謁見の間に現れたナジャルへと振り抜かれた(つるぎ)だ。


 風竜と相対した剣。

 黒竜を切り裂いた剣。

 あれが必要だった。


 ヴァン・グレッグは奥歯にままならない憤りと虚しさを噛み締めた。


(だが彼は――)


 その考えすらも今この場では意味がない。

 この戦場はこれで終わると、そう思った時だ。

 恐怖を伝播する空気が、一瞬凪いだ海原のように拭い去られた。


「何だ……」


 その原因はすぐに分かった。

 空を割っていたナジャルの姿が消えている。


 ヴァン・グレッグの胸を占めたのは安堵ではなく、ナジャルの攻撃が次にどこから来るのかという危機感だ。

 兵士達がやや呆然と辺りを見回す中、ヴァン・グレッグも鋭く周囲に気を配った。

 だがどこにも、あの禍々しい気配は感じられない。


「有り得ん。あれで退くはずがない」


 ナジャルが顎を下ろした辺りへ目を凝らし――、ヴァン・グレッグは雷に打たれたように硬直した。

 そこにある姿を捉え、驚愕に瞳を見開く。


「あれは……、まさか」


 ただその姿は、一瞬ヴァン・グレッグの中に、激しい希望を引きずり出した。


「――陛下(・・)……!」


 信じがたい。けれどそれは、王都で何度もヴァン・グレッグがその膝をつき視線の先に戴いた、王の姿だった。

 足元まで覆い隠す長衣を風が揺らす。

 俯いていた王の面がゆるゆると巡らされる。


 以前王都で聞いたワッツからの報告が、不意に頭の中に軋んだ音のように響いた。


『王の姿を見た者がいると』


「ち、違う」


 自分に向けられたその面を遠間に見つめ、ヴァン・グレッグは掠れた声で呻いた。


 王ではない。

 王ではなく、良く似ていながらも全く違う存在だ。

 あれは不可侵条約再締結の儀の折に、あのイスの、謁見の間に座っていた。


「海皇……」


 いや――けれど確かに、ヴァン・グレッグが先ほど目にしたのは、彼等の王ではなかったか。


「海皇――海皇は、どんな姿をしていた……」


 茫然としたヴァン・グレッグの呟きが、微かに風に散る。

 海皇は凍り付いた戦場を、ただの草地を歩くかのごとく、身を揺らしながらヴァン・グレッグがいる丘へと歩いてくる。

 海皇が歩くごと、地面の草は黒く枯れ、そしてその場に流れた血が集まり一つに捩れて、海皇の手の中に赤黒い三叉鉾を形造った。


 通り過ぎた周囲の兵達が、呻き声も上げずに次々と倒れる。

 その場を死が通り過ぎ、身体とはただの入れ物なのだと証明するかのように。


 やがて海皇は、ヴァン・グレッグの正面に立った。

 ヴァン・グレッグはゼーレィが上げる苦悶の呻きを背中で聞きつつ、視線は海皇の上から離す事ができなかった。


「――」


 やはり王だ。

 いや、違う。

 二つの感覚がヴァン・グレッグの中で鬩ぎ合う。


(違う――これは)


 男の手にした三叉鉾が空気を斬り裂く。


「ッ」


 咄嗟に受けた剣は、鉄ではなく呪いを受けたかの如く、ヴァン・グレッグの腕に身を震わせる悍ましさを伝えた。

 あたかも死者の腐敗した身体に腕まで突っ込んだかのような、纏い付く不快。

 そして体中の血を、力そのものを抜かれていく感覚。

 ヴァン・グレッグの身体が傾ぎ、騎馬は小さな円を描くように距離を取った。


「ッ」


 奥歯を噛み締め、馬上で蹌踉めいた身体を立て直す。


(これは)


 全身に脂汗が滲み出て、鎧の下の軍服を湿らせる。

 怯える騎馬を左手で宥めつつ、ヴァン・グレッグは気力を振り絞り、正面に立つ男を再び見据えた。


(これは、あってはならないものだ)


 右腕の痺れが戻らない。腕そのものが石と化してしまったような感覚。

 あってはならないものだ。


(この地に)


 (わざわい)の凝り固まった、溟い(うろ)


(この先に――)


 あってはならない。


「――貴様を、ここで倒さねば!」


 三叉鉾を弾き上げ、手綱をぐいと繰る。

 突進する騎馬と共に剣を突き出す。

 ヴァン・グレッグの切っ先は男の喉元を掠め、騎馬が男を弾く勢いで駆け抜ける。

 直後にヴァン・グレッグは騎馬の背から飛び降りた。地面に触れた片足を軸に踏み込み、振り向きかけた男の胴へ、両手で構えた剣を薙ぐ。


 剣は男の胴の半ばまで食い込んだ。

 押し切ろうとしたヴァン・グレッグの動きが、ぴたりと止まる。


「――ッ」


 足元の血だまりから突き出した鉾が、ヴァン・グレッグの腹に深々と突き立っていた。


「閣下!」


 ゲイツが立ちはだかる死者を掻き分けるように、剣を振るいヴァン・グレッグへと騎馬を走らせた。

 だがゲイツの前に次々と新たな死者の群れが雪崩れ込み、まだ残る正規軍兵達を飲み込んだ。


 押し寄せる死者の群れはその向こうに、丘の上に崩れるヴァン・グレッグの姿と、男の姿とを、覆い隠していった。










 その日の夕刻、七刻。

 タウゼンからの急報を受け、アルケサスから不休のままに飛竜を駆ってサランセラム丘陵に辿り着いたアスタロト達の目前に広がっていたのは、ただ荒涼とした戦場の名残だった。







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