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第2章『冥漠の空』(15)



 アスタロトの目の前に広がっていたのは、ただ荒涼とした戦場の名残だった――






 ヴァン・グレッグは閉じていた瞳を開けた。

 天幕の入口に掛る布の合せ目から、薄白い明け方の光が射し始めている。


 ゼーレィ率いる西海軍との戦いに勝利して、五刻。ヴァン・グレッグは兵達を休ませる為に、昨夜の戦場から当初本陣を構えていた丘までおよそ半里、兵を退いていた。

 兵士達は宿営地に戻ったひとときの間こそ戦勝の喜びに興奮を抑えきれていなかったが、襲い来る疲労と睡魔と、そして安堵に押し包まれ、今は天幕の外は交わす声も無く静けさが満ちていた。


 ヴァン・グレッグもまた兵士達と共に勝利を喜び彼等を称え、そして本来ならば今頃は同様に眠りに呑まれていたに違いない。だが睡魔の尾すらも意識に触れず、ヴァン・グレッグは天幕の中に座ったまま待っていた。


 追撃に出た第六大隊は未だ戻っていなかった。

 斥候は第六大隊を探してボードヴィル周辺までを駆け、けれど何の情報も無く虚しく戻った。

 それが一刻前だ。

 何の情報も無く――

 まだ夜の中だった事もあるが、第六大隊の存在の跡すら見つける事が出来なかった。


 第四大隊ホフマン、第五大隊ゲイツも休息とは名ばかりに、戦闘の収束した深夜からずっと天幕の椅子に座り、外の気配に耳を傾けている。


 シメノスにあった兵はゼーレィ軍のみ、そしてこの周辺にゼーレィ軍以上の、またはそれに近い規模の軍は無かったはずだ。そもそも伏兵がいたとして、およそ二千の兵が、何の痕跡も無く姿を消すとは考え難かった。

 思いの外遠くへゼーレィ軍が逃走したのか。

 それとも――ナジャルが。


 しかしそれでも五刻の間、伝令すら無いという事は考えられない事態だ。

 飛竜もいたのだ、数騎、いや、せめて一騎なりとも伝令に戻る事は、それほど困難な事とは思えなかった。

 そうした推論は数刻前に既に交わし尽くし、何ら情報が入らないままに一刻、二刻と時間だけが過ぎていった。



 明るくなれば何らかの形跡が掴めるのではないかと、ワッツとその部下五十騎が偵察に出たのが、つい半刻ほど前、まだ夜が明け始める前の事だった。


 ヴァン・グレッグは忍び入る明け方の光の筋を睨み、それが広がるのを待った。




 激しい戦闘の疲れと勝利の喜びにすっかり飲み込まれ、西方軍の兵士達は丘の上に思い思いに横たわり、深い眠りに落ちていた。

 あちらこちらに篝火が焚かれ、解いた剣帯や脱いだ兜が草の上に無造作に置かれている。騎馬や飛竜達もまた、兵士達の間で身を休めていた。

 丘の上を風が心地よく流れ、その光景だけを見れば、五刻前に戦闘があった事など窺えないほどの穏やかさだ。


 見張りの兵は簡易な物見櫓の上から辺りを見回し、柱に背中を預けてあくびをした。ほかの二人もつられたようにあくびを重ねる。三人とも二十代、第五大隊中軍の兵士だ。


「さすがに眠いな。もう寝たい」

「まあそろそろ交替だ。つってもあいつらもかなり騒いでたから、すんなり起きて来るかね」

「蹴って起こしゃいい。にしても」


 もう一度首を伸ばし、兵士は南の方角を見透かした。


「第六大隊は全然戻らねぇな。何かあったのかな」

「休んでるんだろ、どっかで。ここまで戻るのも疲れるし――明るくなりゃ戻って来るさ」

「それより俺達これで戻れるかな。早いとこクエルクスに戻りたいぜ」

「何言ってんだ、まだまだだろ。ボードヴィルがある」

「うぇ」

「ボードヴィルもさっさと降参してくれねぇかなぁ」

「ボードヴィルって敵なのか?」

「ええ? よ、良くわかんねぇけど、でも旗が」

「おい」


 最初の兵士が声を上げ、木の柵に手をついて伸び上がり朝日の射し始めた丘陵に目を凝らした。

 緩やかな起伏を重ねて広がる丘陵南方に、滲む影を見たのだ。

 三つ先の丘の上へ、影は広がっていく。


「あれは――」


 影はゆっくりと彼等がいる宿営地へと前進し、次第にその姿は朝日の中で明らかになり始めた。

 木の柵に身を乗り出していた兵士達は、雲間から差す朝日に影を揺らす軍旗を認め、互いに肩を叩いて喜びの声を上げた。


「第六大隊だ!」

「グィード大将の隊が戻ったぞ!」


 吊るしてあった鐘を打ち鳴らす。固い鉄が打ち合う音が明け方の丘に響き渡った。

 その音に跳ね起きた兵士達もまた、第六大隊が戻ったという声を聞き、立ち上がり背伸びをして見張りの指し示す方角を見透かす。

 低い位置からも揺れる旗の房飾りが見えた。


 歓呼の声がどっと丘の上に広がった。

 これで本当に、この一戦は終わりを告げたのだ。


「第六大隊が帰ったぞ!」


 連鎖したその響きが、ヴァン・グレッグの天幕へも流れ込む。

 顔を見合わせ、すぐさま飛び出し、ヴァン・グレッグとホフマン達は喜び合う兵士達の間を足早に抜けて彼等の視線の先を見据えた。

 丘の上に翻るのは、確かに正規軍の軍旗だ。


「戻ったか――!」


 ヴァン・グレッグは篭っていた息を吐き出した。ホフマンがその横で自分の首を撫でさする。


「安心しました。何をやっていたのか、グィードの奴は」

「まあどこかで休んでいたんでしょう。兵士達も疲労している」


 ホフマンとゲイツの声からも先ほどまでの重苦しさは薄れ、肩の力を抜いたように明るい。


「閣下。王都へ戦勝の報告を――他の部隊の弾みになりましょう」


 喜び合う兵士達の姿を見渡してヴァン・グレッグは頷き、だが再び近付いて来る第六大隊の上に戻したその瞳は、ふと厳しく眇められた。







 ワッツは夜明け前に宿営地を出立し、五十騎の部下と共に第六大隊の捜索を行なっていた。

 まだ明け染めぬ夜の中では地面は暗く空と変わらず、遠くまで見通せない。

 そんな中であっても、丘陵の上に第六大隊の姿は見当たらなかった。


 緩い速度で騎馬を走らせながら第六大隊の形跡を探しつつ、やがてもうあと二つ、三つの丘を越えればボードヴィルがある辺りまで至る。その頃になると、雲が垂れ込めた東の空は、少しずつ明るくなり始めていた。

 お互いの顔が微かな表情も読み取れるほどになってくる。


「夜明けか」


 長い夜だったと、息を吐いた時だ。


「ワッツ中将」


 丘の頂に騎馬を立てていたスクードが、緊張を含んだ声でワッツを呼んだ。


「どうした。いたか」


 スクードの隣に騎馬を並べたワッツへ、スクードは眉根を寄せた張りつめた面で前方の斜面を指差した。

 雲間から朝の光がくっきりとした線を引き、丘陵へ落ちている。

 上空の風に運ばれ、雲は次第に薄くなり始めていた。

 朝日が照らし始めた丘陵が、その上に残された痕跡を露わにしていく。


 目にしたものに、ワッツは呻いた。


「何だ、こりゃあ……」


 丘陵を覆う緑の草は黒く枯れていた。

 一面。

 何かが這いずったような、(ねじ)くれた縄のような跡が見渡す限り広がっている。


 ワッツ達が今立っている丘だけではなく、正面に連なる丘も。その隣の丘もだ。

 その禍々しい歪み。

 それはワッツの肚の底を荒々しい手で掴んだ。


「中将、一体何でしょうか」

「――判らねぇ。だが、昨日の昼まではこんな状態じゃなかったはずだ」


 嫌な予感、というのだろうか。

 まるで蛇が背中を這いずるようだ。

 そしてこの痕は、第六大隊の不明に関係していると、何の根拠も無いままに強く思った。


「戻りますか」


 スクードがそう言ったのも、ワッツと同じ感覚からだろう。

 ワッツはボードヴィルの姿を見る位置まで行くかどうかを束の間迷い――、だがスクードの言葉に頷いた。


「戻ろう」




 広く連なる丘を駆け降り、そしてまた駆け登る。来た時よりも騎馬を駆る速度は倍に近い。

 ほどなくワッツ達五十騎は、昨夜の戦場に近付いた。

 既に夜はすっかりと明けていた。


 朝日に照らし出された昨夜の戦場――戦場だったはずのその場所で、ワッツは思わず手綱を引いた。嘶きたたらを踏むように騎馬が止まる。


「こいつは――」


 一刻前通り過ぎた時は確かに残されていた戦いの爪痕、西海兵達の遺骸が、無い。

 三千近い兵がここで倒れた。

 どう弔うか、それを考えながら先ほどはただ通り過ぎた。

 その(むくろ)が、一体も――、一体たりとも残されていなかった。


「馬鹿な、こんな事が」

「中将」


 スクードが示したものは、ワッツの目も既に捉えていた。

 累々と横たわっていた骸がそれに代わったかのように、黒々と刻み込まれた枯れた草の(おぞ)ましさ。


 何があったかまるで判らないが、この場所と、大地の黒い染みに初めに気付いた、あの場所。

 二つの場所で同じ事が起こったのだろうと、それだけは理解できた。

 何か、ひどく不吉な事だ。


 そしてその黒々とした痕は、彼等が初めに来た方向へ――、西方軍本隊の宿営地がある方向へと、うねりながら続いていた。


「――急ぐぞ!」







 ヴァン・グレッグの面が険しく引き締まる。


「あれは、何だ」

「閣下?」


 ゲイツはヴァン・グレッグを振り返り、そこに浮かんだ表情に改めて第六大隊へ目を凝らした。


「何か」


 と言いかけて言葉が途切れる。ゲイツの目もヴァン・グレッグが捉えたものと同じ姿を捉えていた。


「――不味いぞ」

「ゲイツ、閣下は何を」

「ホフマン、良く見ろ。あれは第六大隊じゃない。いや――」


 吐き出した声には、朝日を凍らせるような響きがあった。


()()()()


 ヴァン・グレッグはまだ喜び合う兵士達の間を抜けながら、鋭い声を張り上げた。


「戦闘態勢を取れ!」


 唐突なその指示に、兵士達が戸惑って顔を見合わせる。


「将軍閣下は何を仰ってるんだ」

「戦闘? でもあれは第六大隊だろ」

「第六大隊が敵に追われてるとかか?」


 だがゲイツ、ホフマンも同様に呼ばわりながら騎馬に跨るのを見て、兵士達は訳が判らないながらも慌てて武具を手に取った。


「整った者から第一陣を作れ! 盾、そして弓を二列!」


 ヴァン・グレッグが声を張りつつ、自らの騎馬を前へ進める。

 その奥歯を軋らせ、騎上から近付いてくる姿を睨んだ。

 丘の上を隊列を組み、足音を鳴らし、ゆっくり近付いて来る、その姿――


 それは第六大隊でありながら、ゲイツがそう表したように、もはや違うものに成り果てていた。

 盾を構え、剣を構え、軍旗を靡かせた兵達の姿。

 明らかに、生きている者のそれでは無かった。


 盾はひび割れ、剣は折れ、軍旗は血と泥に(まみ)れている。

 脚を引きずり、折れた腕や首をぶら下げ、土気色の肌を晒し。

 半信半疑で陣を組んだ兵士達の間に、驚愕と呻きが広がっていく。


「どうなってるんだ――」

「生きてるのか、あれ……」


 呟いた兵にさえ、第六大隊の誰か一人でも、生命を残しているようには見えなかった。

 ヴァン・グレッグは信じ難い光景に歯を噛みならした。

 信じがたい光景だ。

 だが明らかに、そうと表現するしかなかった。


「死者の軍だと……」


 痛ましくも悍ましい兵士達の姿が誰の目にも露わになる頃には、西方軍の陣営からはさきほどの歓喜は一切拭い去られ、ひりつく静寂に支配されていた。

 近付く死者達の行進の音だけが、脈打つ鼓動のように重く丘陵を震わせる。


 やがて死者の軍は正面の丘の上に、足音を立てて止まった。

 その中央に馬を立てた見覚えのある――そして変わり果てた姿に、ホフマンが軋る声を洩らす。


「――グィード……」







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