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第2章「風姿」(9)

 倒れているユージュの襟元から浮き上がった光の球が、柱となり高く空へと伸びると、一瞬目を眩ますほどの光を放ち、四散した。

 光に照らし出され眩しさを避け手を掲げながら、ルシファーは唇を笑みの形に刻んだ。




 腕をねじ切ろうとしていた容赦無い力が唐突に消える。

 草の中に倒れ痛みに全身を強ばらせたまま、ユージュは霞む瞳を細めて、そこにある光の柱を見た。

 光が弾け、何事も無かったかのように景色に溶けた。

「――」

 消えた光の後に立つ後ろ姿を見つめ、それが誰だかに気付いた時、一瞬意識を飲み込みそうなほどの安堵が身体中を包んだ。

「レ――」




 転位の法術による軽い眩暈はすぐに消え、代わりに強い陽射しが目を眩ませる。

 レオアリスは束の間瞳を細めた。

「――」

 青い空が見える。

 熱い、質量すら感じる大気。

「ここは」

 真っ先に頭に浮かんだのはレガージュの街だったが、あの『護符』に浮かび上がった術式を見た時から、アルジマールが自分をどこへ呼んだのか、半ば想定はついていた。その目的も。

 右前方に、空を背にして一棟の館が白い微かな光を纏っているのを見つけ、成功したのだ、と思う。

 それから――

 引き寄せられ上空に視線を向けかけた時、微かな呻き声と共に、掻き消えそうなほど小さな声に呼ばれ、レオアリスは振り返った。

 少し離れた草地に、見覚えのある少女が手足を縮めて倒れている。

「……ユージュ?! 何でお前が――その傷は」

 傍らに膝をつき、レオアリスは眉をひそめた。

 両足の踝が深く切れ、何より剣が現れた右腕の肘が紫に変色している。筋が切れ、裂けた皮膚から血が流れ出ていた。

「大丈夫か」

 ユージュの剣はまだ顕現したままだったが、その気配は一つの風にも消えそうなほど弱い。

「――平、気」

 ユージュは歯を食い縛ったまま頷いた。左肘をついて起き上がろうとしたが、堪らず呻く。

「いいよ、もう無理するな」

 その言葉でようやくそれまでの緊張が切れたのだろう、ユージュの両方の瞳から大粒の涙盛り上がり、零れる。

 ユージュは慌てて左手でこすったが、耐え切れず嗚咽が洩れた。

「――よく頑張ったな」

 レオアリスはユージュの額に手を置いた。

「ザインさんは」

 ユージュが首を振る。まだ口を開くのも苦しそうだ。

 ザインがいないという事は、ザインは今の状況を知らないのかもしれない。

(そうだろう)

 ユージュがここに立つ事を、ザインが認めるとは思えない。

 剣が覚醒したばかりのユージュが戦うべき相手ではない。

 レオアリスは瞳を上げた。この強い陽射しの中でさえ、肌を冷やす気配がある。

 上げた視界に上空に浮いているルシファーを捉え、レオアリスは双眸を細めた。

「西方公……」

 ルシファーが柔らかく微笑んでレオアリスを見下ろす。

「始めからあなたが来れば良かったのに」

 口調は柔らかく、これまで王都でレオアリスが耳にして来たものと変わらない。

 ただ、その時と同じ人物とは思えないほどに、声の中に嘲りと冷徹さがあった。

「ここにいるって事は、やっぱりあれは貴方の屋敷か」

「そうよ。ずっとずっと前のもの。今さら想い出さなくてもいいものよ」

 レオアリスはユージュの額を撫で、立ち上がると真っ直ぐ空へ顔を向け、声を張り上げた。

「――アルジマール院長!」

 ぐるりと見渡す中で、正規軍の小隊が離れた場所に退いているのが見えた。

(正規軍――)

 この場にいて彼等がどれほど動けたかは想像に難くない。

「ここ」

 館の中から声がして、壁の無い部屋からアルジマールがひょっこり顔を出す。

「やあ」

「あんた見越してたな」

「当然だよー。ルシファーが関わってる可能性考えて動いてるんだからね」

「護符だって言ったこれは、でたらめか」

「でたらめじゃないよぅ、ユージュの護符」

「ユージュ……」

 レオアリスは溜息を吐いた。

 自分の為の護符ではなく、『自分が』、護符扱いだと――そうあっさり言われては逆に怒る気にもなれない。いや、言うべき事は山ほどあるが。

 レオアリスはもう一度ユージュに視線を落とした。どの段階で負ったものか――傷の治りが遅い。

 ユージュ自身の理由か、それとも他に原因があるのか、その両方か。

「院長。何で始めから俺を呼ばずにユージュを呼んだのか、後できっちり説明してもらうからな」

「私を油断させるためでしょう」

 ルシファーが空の中で笑う。

「すぐに屋敷を壊されたくなかったから――。さすがの法術院長も、復元した館を維持しながら私の風を防ぐのは手に余ったみたいね」

 アルジマールからの返答は無い。レオアリスは改めて、右斜め前方に建つ館を見た。

 復元したなどと、言われても俄かには信じ難いほど細部まで造り込まれている。

「だから急ぐ必要がないと思わせるために、あなたじゃなくその子を呼んだのよ。その子も可哀想に、アルジマールにとってはただの駒かしら。おかげで私もすっかり騙されたわ」

「――」

 レオアリスはルシファーを見上げた。その身体を青白い陽炎が取り巻く。ルシファーから視線を外さないまま、アルジマールへ声を掛ける。

「取り敢えずそこは置いておいて、まずはユージュを治してやってください」

 判ったよ、と声がしたと思ったら、アルジマールがもうユージュの傍にしゃがんでいた。

 ユージュの身体が淡い光に包まれている。ユージュは意識を失ったのか、アルジマールの法術のおかげか、苦しそうだった呼吸が先ほどより軽く安定していた。

 アルジマールは被きの奥からレオアリスを見上げ、まじまじと眺めて唇をへの字に曲げた。

「それにしても君、なんて格好してるんだい」

「――あんたが突然呼び出したからだ。今日から第一層の一般解放なんです」

「ああそうなの? 何かの劇?」

「あら、良く似合うわよ。普段黒ばかりだけど赤もいいんじゃないのかしら」

 ルシファーの場違いに楽し気な声が落ちた。

「アスタロトが喜んだんじゃなくて? あの子は元気?」

「――」

 レオアリスが不愉快そうな顔をしたのを見て、ルシファーはクスクスと笑った。

 苛立ちがレオアリスの胸の内に湧き上がる。

「貴方には、もう関係無い」

「そう? 私はそうは思わないけど。だって」

 ルシファーは口を閉ざした。

 レオアリスが鳩尾に手を当てたからだ。

 青白い光が、熱を帯びた大気と緑の草の上に零れた。





 光が収まった時、レオアリスの姿はそこから忽然と消えていた。

「え……」

 すぐ後ろにいた主役の隊士が口と眼を丸く開く。

 舞台上の時が一瞬止まった。

 ロットバルトはレオアリスがそれまで立っていた場所と、グランスレイと、そして客席をほぼ同時に確認した。客席は驚いてはいるものの、まだ何が起こったか飲み込めてはいない。

 呆気に取られている主役の隊士に劇を続けろと指示する。隊士は押されるようにして、次の台詞を口にした。グランスレイが演技を続けると、観客席から短いながら、感嘆と拍手が起きた。光もレオアリスが消えた事も演出の一環だと思ったようだ。

 ロットバルトは舞台袖に引き、そこにいたクライフを捕まえた。驚いた顔でクライフが先に口を開く。

「おい、上将はどこ行ったんだ? あんな演出」

「まずは法術院から誰か、転位の得意な者をここに」

「転位? 転位って――、判った」

 転位という言葉に状況を汲み取って頷き、クライフはそれ以上間を置かず部下を呼んだ。クライフの指示を掻き消すようにわあっと観客席から歓声が上がる。舞台はまるで問題無い顔で進んでいる。

 ロットバルトは先ほどの状況を改めて思い返した。光を放ったものは、アルジマールが今朝レオアリスに渡したばかりの護符だった。

(護符ではないか――何か意図があるとは思ったが)

 大胆な仕掛けだ。

 レオアリスは召喚と言った。

(召喚)

 アルジマールがレオアリスを呼び寄せたのだと考えるなら、その目的は自ずと想定できる。

 しばらくして舞台から引き上げて来たグランスレイは、緑の瞳に厳しい光を浮かべまずロットバルトを見た。

「あれは、アルジマール院長か」

「そうでしょう。原因は朝のあの護符です。今日の復元の件を考えれば、上将は恐らくその現場に呼ばれたんでしょうね」

「意図は――」

「西方公」

 グランスレイは口を引き結んだ。

「問題はあるか」

 ロットバルトが一瞬だけ、苦笑に近い色を浮かべた。

「あり過ぎです。朝の段階でアルジマールがどこまで想定していたかは判りませんが、おそらくは彼の推測と懸念が当たった――西方公のものと思しき館を復元する現場に剣士を呼び寄せるとしたら、アルジマールが現時点でそれなりの問題を抱えたと考えていいでしょう。最大の懸念は、王の下命無く剣を交える事になるかどうか――」

「――早急にアヴァロン閣下のお耳に入れよう」

 舞台はまだ続いていたが、そろそろ終わる。ロットバルトは頷き、舞台袖から更に裏にある楽屋用の天幕に向かった。

 楽屋では客席にいたヴィルトールも含め、クライフ、フレイザー、三人が揃っていた。三人とも厳しい表情を浮かべている。

「ロットバルト」

「転位ですよ、アルジマール院長の――法術士は」

「今呼んでる。転位って、アルジマールは今日屋敷の復元をするとかって言ってたよな。西方公のかどうかって奴だろ。まさか」

 拍手と歓声で一瞬会話が途絶えた。舞台が終わったらしい。

 ロットバルトはクライフ達に視線を戻した。

「――法術士に上将かアルジマール院長を追う事が可能なら、状況を確認したい。できれば小隊を出すなり、現場の有事に即応させたいところですが、現場がどれほど安全かは判りません」

「俺行くわ」

 クライフが片手を上げる。

「行くって、どんな状況だか判らないのに」

 フレイザーが眉を寄せた。

「そこに上将がいるんだろ。なら問題無いさ。まあ戦闘の真っ只中に放り出されたらやべぇけど」

「その可能性は少なからず――」

 ふいに天幕の入り口が騒ついたかと思うと、「アスタロト様」という声が聞こえた。

 ロットバルトが振り返るのと袖を掴まれるのが同時だった。

「レオアリスは?!」




「――」

 レオアリスが消えた後の舞台は、一瞬戸惑ったように見えたが、すぐにそれが本来の流れだったかのように進んだ。

 周りの観客達は凝った演出だと感心している。彼等を眺め、アスタロトは微かに首を振った。

(――おかしいよ)

 ファルシオンを見れば、席の上で身を乗り出し、舞台をじっと見つめている。その表情までは判らない。

(おかしい、絶対)

 あれは演出とかではなく、確実に法術が働いていた。

 それに光が現れた時、レオアリスは驚いていたように見えた。

(何かあったんだ)

 アスタロトは拍手が湧き上がる中を幕が閉じ切る前に立ち上がり、天幕を出た。天幕の裏に回って楽屋を見つけ、入り口の布を払い除けるようにして開く。

 奥にロットバルトの金髪が目に入る。驚いたのは中にいた隊士達だったが、それも気にせずロットバルトに近寄ると袖を掴んだ。

「レオアリスは?!」

「――公」

 微かに瞳を見開いたものの、ロットバルトは特に驚いた様子はなかった。ロットバルトはまだ――その隣のグランスレイも舞台衣装のままだ。クライフとフレイザーとヴィルトール、三人とも揃っている。

 彼等の表情からも、問題が起きたと考えている事が見て取れた。

 ロットバルトは改めてアスタロトに向き直った。

「おいででしたか」

「どこ行っちゃったの? あれ、法術だろ」

「――法術ですね」

「ロットバルト、ちょっと」

 心配させるような事を言わなくても、とフレイザーが手を伸ばしかける。ただアスタロトはそれも目に入っていない様子だ。

「法術で――どこに。それって始めから決まってたの? でもそんな感じじゃなかった」

 ロットバルトは何かを測るように瞳を細めた。それが胸を冷やす。

「教えろってば」

「以前にも似たような事がありましたね。ちょうど上将の所在が不明だった所に貴方が来たんだったかな」

 いつものようにはぐらかされそうな感じがして、アスタロトはロットバルトを睨んだ。近衛師団は近衛師団、正規軍は正規軍と線引きをされている気がしたからだ。

「あの時は何も教えてくれなかったな。またどう誤魔化そうか、考えてるの」

「いえ、今回は伏せるべきものはありません。むしろ正規軍に協力いただく必要はあると思いますが」

「――協力? 正規軍の?」

 そんな言葉が出てくるとは思わず、アスタロトはつい身構えるように顎を引いた。

 正規軍。

「何に」

 天幕の外が再び慌ただしくなり、すぐに入り口の布がからげられると、慌てた顔の隊士が走り込んだ。

「失礼致します、殿下が今」

「レオアリスはどうしたんだ」

 隊士が告げ終える前に幼い声がかかり、声の主を確認した天幕内の全員が一斉に膝をついた。

「王太子殿下――!」

 ファルシオンが侍従長のハンプトンと数人の警護官を従え、天幕の入り口に立っていた。ファルシオンを間近で見る事のない隊士達は緊張に身体を固めている。

 グランスレイが叩頭し、それから顔を上げた。

「このような場所へお越し頂いていたとは存じ上げず、警護も無く大変ご無礼を致しました」

「そんなのはいいんだ、ちゃんと父上にはお許しをいただいた。近衛師団の、レオアリスの所に来るのに、警護なんてほんとうは必要ない」

 ファルシオンは膝をつく隊士達の中を抜けて歩み寄った。小さな身体で、膝をついても尚自分より高い位置にあるグランスレイの顔を見つめる。

「レオアリスは、どこに行ったんだ」

 ロットバルトがグランスレイの意志を確認し、改めてファルシオンへ面を向ける。傍らに膝をついたアスタロトは、その一瞬自分に視線が向けられた事に気付き、思わず息を詰めた。

 何だろう。

(何か――)

 そう言えば先ほどロットバルトは正規軍の協力と言ったが、正規軍がどう関わるのだろう。

「ロットバルト、レオアリスは」

 ファルシオンが繰り返し尋ねる。

「恐らく、西方に」

 西方と聞いて、アスタロトは心臓が大きく跳ねるのを感じた。ファルシオンが驚いて瞳を丸くする。

「西方? レガージュに?」

 やはり真っ先に思い浮かべたのはレガージュだったようだ。

「いいえ、今回はレガージュではありません。既に殿下のお耳にも届いているかもしれませんが、法術院院長アルジマールが今日、復元の法術の為、西海沿岸部のラクサ丘に赴いています」

「ふくげん?」

 ファルシオンはハンプトンを振り返った。

「壊れたものを元どおりに戻す事でございます」とハンプトンが説明する。

「何を戻そうとしているのだ、アルジマールは」

 アスタロトはゆっくり息をした。

(復元――)

 アルジマールが、何を。

 西海との境の、ラクサ丘で。

 ロットバルトの言葉は澱みが無い。

「西方公のものと考えられる屋敷です」

「西方公……ルシファーの……屋敷?」

 ファルシオンが大きな瞳をを丸くする。

「そんなことができるのか」

「恐らく――実証は報告を待たなくてはなりませんが」

(ファーの、屋敷)

 そうだった。何日か前、タウゼンがそう言っていた。

 その時アスタロトは、失われたのならもう問題ないと――

「じゃあレオアリスは」

「アルジマール院長の要請により、恐らくラクサ丘に」

 ファルシオンは幼い金色の瞳に、聡く思い当たった懸念の色を浮かべた。

「――大丈夫なのか? いそいで呼ばれたってことだろう、何かあったからじゃないのか」

「アルジマール院長にも考えがあるでしょう。ご心配には及びません。ですが早い段階で状況は殿下へもご報告致します」

「――」

 ファルシオンは少し戸惑ったように首を傾げた。「私は何かしなくていいか」

「その御心だけで充分です」

「……判った」

 二人の遣り取りを聞きながら、アスタロトの脳裏には、先日、この祝祭の始めの夜に自分がレオアリスに告げた言葉がぐるぐると回っていた。


 ルシファーを、斬るのか、と

 そう告げたのは。

(――私……)






 ヒースウッドは少女の腕がまだ付いている事に無意識に安堵しながら、突如現れたもう一人を、眼を凝らして見つめた。

「誰だ、あれは」

 まだ若い、少年と言ってもいい年齢だ。

「アルジマール院長が呼んだ、のか」

 ただ、真っ直ぐにルシファーと向き合った姿には、無意識に息を潜ませるものがあった。

 ふいに青白い光が零れ、次の瞬間ヒースウッドは喉元に白刃を突き付けられるような感覚を受けた。

「――」

 何度か瞬きをし、そしてヒースウッドは短く呻いた。

 剣が――いつの間にか、少年の手に握られている。

 月の光に浸したような、冴えた刃。剣から発せられ、全身へたたきつけられる、身を震わせるほどの圧迫感。

 それで判った。

「王都の――、近衛師団大将か」

「近衛師団――では、王の。し、しかし近衛師団の軍服では」

 ケーニッヒはそう言ったものの、先ほどまでのユージュの剣から感じていたものとは桁違いの圧迫感に呑まれ、その先は口の中で消えた。

 それはヒースウッドも同じだ。

 王が懐に置くはずだ、と漠然と思った。

 今までのルシファーの優位が崩れたように思え、ヒースウッドは口を真一文字に引き結び、ルシファーを見た。

(ルシファー様は……)

 この場で、王の剣士との戦いになるだろうか。

 アルジマールがいて、あの剣士がいる。

 ルシファーには不利なのではないか。

(――)

 剣の柄に片手を置く。それがあの一振りの剣と全く違う事がただ感覚で判った。

 アルジマールの護衛という体裁を保ったまま、ルシファーにどう加担すればいいかをヒースウッドは考え始めた。




 レオアリスの右手に握られた剣を見つめ、ルシファーは口元を綻ばせた。中空に浮かんだまま、優雅な仕草で首を傾げ――瞳を細める。

「アスタロトは私の所に来るって言ってた?」

 声は緩く周囲を吹き抜ける風に乗って、後方の正規軍の所まで届いたらしく、正規軍が騒めくのが聞こえた。

「アスタロト公が――何のことだ」

「西方公と、何か」

 レオアリスはルシファーを鋭く睨んだ。

「何の話か判らないな」

「そう? じゃああなたには言ってないのね。てっきり話してると思ったけど――信用されてないのかしら? 思うところがあるのかもね」

「……ふざけるな」

「ふざけてなんかいないわ。私、王都を出てくる時あの子を誘ったのよ。迷っていたみたいだけど――断られはしなかったわ。だから」


『私に、来るかって、聞いた』


 そう告げた時、アスタロトがどんな顔をしていたのか、レオアリスは覚えていない。アスタロトがずっと俯いていたから――

「……詭弁だな。アスタロトが正規軍を離れる訳が無い。正規軍将軍としての責務を簡単に放棄する奴じゃない」

 軽やかな笑い声が響いた。何も解っていないのかと、そんな響きだ。

「あなたがそんな認識じゃ、あの子の悩みも尽きないわね。可哀想に」

「――どう」

 どういう意味なのかと尋ねようとして、レオアリスは口を閉ざした。

 ルシファーの狙いは撹乱だ。レオアリスのというよりは、後方の正規軍の。

 或いはアスタロトがルシファーと関わっていると、正規軍の中に疑いを抱かせる為か。既に彼等の何人かは、驚きと共に不審そうな顔を見合わせている。

「今は余計なお喋りは必要ない。捕えた後に話してもらう」

 レオアリスは剣を下から薙いだ。

 剣風が大気を断つように奔り、上空にいるルシファーの喉元に迫る。

 ルシファーは上体を反らしてそれを躱し、ふわりと下降した。

「!」

 レオアリスが目の前だ。()()()()()事にルシファーは優美な眉を顰めた。

 肌に感じる程に迫った白刃に、ルシファーがふっと息を吹き掛ける。

 姿の無い刃を含んだ突風が沸き起こる。

 二つの視線が合った。

 光を纏う剣が一瞬だけ、躊躇うように止まり――、振り切られる。

 ルシファーの風とレオアリスの剣とがぶつかり、互いの威力を削ぎ合う。

 弾き合い、レオアリスとルシファーはそれぞれ離れた草地に降り立った。

 レオアリスの身体はルシファーの風を受け無数の裂傷を負っていたが、すぐにその傷も閉じていく。

 逆にルシファーは苛立ち紛れに息を吐いた。左の二の腕が深く切れている。剣が一瞬躊躇しなければ、剣はそのまま腕を断っていた。

「厄介――早めに終わらせておけば良かったわ」

 ただ、レオアリスが何に躊躇ったのか、ルシファーはその理由を思い浮かべ、くすりと笑った。

 それはルシファーが撒いた種の発芽だ。

 視線を転じれば、アルジマールはもうユージュの傍にはいない。おそらく屋敷に戻ったのだろう。

「全く、不愉快ね」

 顎の辺りまでかかる短い黒髪がふわりと風に舞う。

 ルシファーの身体の周りを、次第に空気の渦が取り巻き始めた。







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