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第2章『冥漠の空』(5)



 冷え込む深夜を丸まってやり過ごし、一行は夜明け前、再び起き出した。


 ザインは歩き出す時、彼等に初めてこう宣言した。


「この先は、なるべく物音を立てず歩いてくれ。この辺りは厄介な生物が棲んでいる。今の俺では対処しきれるか判らない」

「――」


 アルノーの後ろにいる兵士達がちらりと顔を見合わせる。


「厄介なものって」


 続いた囁きを聞き取ってしまい、アスタロトは喉をぐっと掴まれる気がした。


『剣士の氏族こそ、厄介なんじゃないか?』


 その響きが棘を持っていたからだ。昨日までと明らかに違う。


「気を引き締めて行くぞ」


 アルノーが厳しく兵士達に言い渡すと、その空気は一旦は薄れた。




(厄介な生物――)


 アスタロトはまだ仄暗い砂丘を歩きながら、ザインの先ほどの言葉を反芻していた。

 アルケサスには大型の獣はほとんどいないと聞いているが、蠍や蛇など砂に潜む生物は、これまで歩いている中でも度々見かけた。毒を持っていて気を付けなくてはいけないものが多かった。


(この先はって事は、もっと危険なものもいるんだ)


 飛竜を飛ばしたくないとザインが言ったのは、その関係もあるのかもしれない。


(こんな綺麗な世界なのに)


 夜明け前の薄明かりが丸い星空を摺り硝子のように染めている。重なる砂丘は影を宿し、まだ酷暑の気配は窺えない。



 風が砂を運ぶ音。

 砂を踏む乾いた音の連続。

 誰も口を開かずただ黙々と歩き、自然と意識は自分の中へ中へと落ちて行く。


 何の為に歩いているのか。

 アスタロトがここへ来た理由は。

 そう、剣士の氏族と話をして、力を貸してもらう為だ。

 その為にはまず、正規軍将軍として自分の足で彼等に会いに行き、国の誠意を示さなくてはならないと思った。


 それが今の自分にできる最大の役割で、本当はそれしかできないのだ。

 そして。


(そして――?)


 足元の砂が流れる。

 太陽が次第に高くなって行く。

 熱が甦る。


(剣士の氏族に会って)


 そして。

 本当は分かっている。

 その為に来たのだ。

 言わなくては。


 自分の――


(私は、ずるい)


 それでも。



 あの日の、(あやま)ちを。



 足元の砂が崩れてよろめいた身体を、立て直し、歩き続ける。

 あの日の事を思い浮かべる。


 不可侵条約再締結のあの日、偶然会った王城の廊下で、自分の想いを口にした。

 忘れる事などなく、繰り返し、思い出す。


 まだ低い位置にある太陽が、瞳の中に一条の光の影を焼き付ける。


(私は)





 日が昇り始め灼熱が甦って行くにつれ、一行の中の苛立ちは再び増し始めた。

 それでも、期待もまだあった。

 今日には何かしらの反応があるのではないかと。

 この炎天下の行軍から、今日には、仮にほんの束の間でも解放されるのでは――


 しかし早朝の行軍は何事も起こらず、虚しく酷暑を避ける為の休憩に入ると、兵士達は無言で天幕を張り、無言で日陰に身を寄せた。

 アスタロトは俯いて目を閉じている兵士達を見回した。ザインは敢えて何か言おうという気は無いようだ。

 けれどこのままでいいはずはなく、何か、アスタロトこそがこんな時に何か言わなくてはいけないのではないか。


(私が、ここに来るって言ったからなんだ、みんなが苦労して、辛い思いをしてるのは)


 なのに、彼等の疲れを癒す良い言葉が見つからなかった。





 長い酷暑が過ぎ、空がその輝く青さを潜め始めると、大気もまた熱を潜めていく。

 再び歩き出そうとした時だ。


「ザイン殿。本当に方角は、合ってるんですか」


 まだ二十代の若い兵士が、尖った声を出した。

 アスタロトはぎゅっと胸を縮めた。朝あの言葉を言った、彼はミゲルという兵士だ。


「おい、よせ」


 もう一人、エイクという兵士が素早く止める。


「黙って歩こう。きっともう少しだ。今晩にだってもしかしたら」

「もう少し? そんな保証あるのか!?」


 肩に置かれた同僚の手をミゲルは払った。


「ミゲル」

「道は合ってるのかって聞いてんです。どうなんだ!」


 ザインは歩き出そうとしていた足を止め、ミゲルへ首を巡らせた。


「合っている」


 声を落としてくれ、とザインは付け加えたがミゲルは耳に入ったかどうか、更にザインに詰め寄った。


「本当に?! もう何度それを言ったんだあんた! そればっかで一向に、剣士の里なんて見えてこないじゃないか!」

「落ち着け、ミゲル。体力を損なうだけだ」


 アルノーの制止ですら、疲弊した状態には意識に入らないようだった。

 ミゲルは砂を蹴ってザインへ更にもう一歩近付いた。ザインが険しい目を向け、左手を上げかける。その視線にミゲルは怒りを昇らせた。


「もう、これ以上限界だ! あんたもしかして、わざと――()()()()()()()()()()()、わざとやってるんじゃ」

「待って!」


 アスタロトは何とか二人の間に割り込み、ミゲルを見上げた。


「落ち着いてよ!」

「え、炎帝公……」


 ミゲルはようやく我に返り、さっと羞恥と後悔とを面に広げた。


「も、申し訳ございません!」

「いい。いいんだ。苦しいのは判る。苦しい思いをさせて本当にごめん。でも」


 アスタロトは一度ぎゅっと唇を噛んだ。


『俺達の事を恨みに思って』


 その言葉に息が詰まる。それは、今回の根底に渦巻くものだ。


「――私を信じて。必ず辿り着くから」

「そっ、そのような! ご無礼を――」


 ミゲルが右腕を胸に持ち上げ、敬礼を向けかけた時だった。


 彼の足元の砂がぼこりと崩れた。

 唐突に失われたような形だ。体勢を崩したミゲルが砂の上に尻餅をつき、その状態のまま砂丘を滑る。


「ミゲル!」


 アスタロトとエイクが咄嗟に手を伸ばしたが、ミゲルはあっという間に砂丘の底に転がり落ちた。

 ただ怪我は無かったらしく、ミゲルが口に入った砂を吐き出しよろめきながらも立ち上がるのを見て、ほっと息を吐く。

 アルノーはザインへ向き直った。


「申し訳ない。もう少し休憩しよう、ザイン殿。落ち着いてこれからの」


 そのアルノーを押し退け、ザインが駆け出す。


「ザイン殿?!」


 ザインは腰の後ろに帯びていた剣を左手で抜き払い、砂丘を駆け下りた。


「ザ――」


 砂丘の底にいるミゲルへ。

 逆手に握った剣の切っ先を、垂直に突き下ろす。


「ザイン!」


 息を呑み、駆け出そうとしたアスタロトの腕を、アルノーが捉えた。


「公!」


 アスタロトは瞳を見開いた。

 視線の先で、ザインの剣はミゲルの足元に突き立っている。

 その瞬間。

 砂が雨に似た音を立てて盛り上がった。


 巨大な黒い影が砂の中から身を起こす。剣を突き立てたザインと、驚きに立ち尽くしていたミゲルの身体がその上に乗って浮き上がる。


「アスタロト様! お下がりください!」


 アーシアがアスタロトの腕を引く。

 砂煙の中、鞭のように振り上がったのは、幾つもの節を持ち黒い甲殻に覆われた――、尾だ。それだけで人の身長を優に超える。

 続いて現れた二つの鋏、六本の脚が支える一間を越える長い胴も、全て黒く分厚い甲殻に覆われている。

 ザインの振り下ろした剣はその甲殻に深く突き立ち、だが根本から折れていた。


「蠍――!?」


 それも途方もなく巨大な蠍だった。六頭立ての馬車よりなお大きい。

 滑り降りたザインがミゲルの肩を突き飛ばす。同時にザインはミゲルの腰の剣を引き抜いた。

 針を持った先端がミゲルとザインを掠め、砂丘を穿つ。


「公! お退がりください!」


 アルノー達正規兵が剣を引き抜き、大蠍を囲むように展開する。

 大蠍は尾を振り上げ、次の瞬間凄まじい速度で、自分を囲もうとする正規兵達の立つ砂丘へと叩き付けた。足元の砂を崩され、三人が転がり落ちる。


「矢を射れ!」


 アルノーの声に残りの五人の兵が矢を構え放つ。だが放った矢は分厚く硬い甲殻に小枝のごとく弾かれた。

 大蠍が砂丘を、アスタロト達へと突進する。


「公を守れ!」


 ザインは砂を蹴り、剣を薙いだ。銀の刃が輝き、大蠍の右の後ろ脚を一本、第二関節から断ち切る。

 大蠍が軋る唸りを上げ、ザインを振り返った。

 その視線の先にザインの姿は無く、次の瞬間、甲殻の上に降り立ったザインの剣が、輝く光を纏い、大蠍の頭部を落とした。

 同時にザインの剣も折れる。


 砂丘の底に、力を失った巨大な体躯が砂煙と共に滑り落ちる。

 アスタロトはほっと息を吐き、それから砂丘の下の兵士達に目を凝らした。怪我を負っている者もいる。


「手当を……」


 そう言いかけた時、視線の先で再び、砂丘が盛り上がった。


「!」


(まだ)


 もう一頭――、いや。

 右の視界の端に、大蠍の黒い影が持ち上がる。


「三体か!」

「剣を!」


 ザインは折れた柄を捨て近くの正規兵へ手を伸ばしたが、旋風の如く唸る尾がザインとそこにいた兵士を捉え、後方の斜面へと叩き付けた。

 大蠍が前進する。


 ザインは跳ね起きて倒れている兵に駆け寄り、帯びていた剣を引き抜いた。

 ちらりと視線を上げる。

 突進してくる正面の敵と、アスタロト達がいる砂丘の上のそれと。


「間に合うか」


 大蠍の突進を躱し、ザインは砂丘を駆けた。途端に横薙ぎの尾が、ザインの前方を阻む。ザインは尾を剣で受け、そのまま断ち切った。


「もう一体――!」


 駆け上がろうとしたザインの側面を、反転した大蠍の甲殻が弾く。ザインは反対の斜面に再び叩き付けられた。

 砂丘上の大蠍が兵士の剣を弾く。


「アスタロト公!」

「アスタロト様!」


 アーシアがアスタロトを庇って抱え、砂の上に倒れ込む。

 見上げたアスタロトの視界が翳った。二人の目前に、大蠍の姿があった。


「アーシア、どいて!」


 答える代わりにアスタロトを庇う腕の力が増した。アーシアの背へと、大蠍の尾が落ちる。巨大な鎌に似た鋭い針の先端。

 アルノーが剣を翳し駆ける。


「アーシア!」


 振り下ろされた尾は、何かに弾かれた。

 大蠍が衝撃で砂丘を滑り落ちる。

 アスタロトから咄嗟に見えたのは、倒れている自分の頭の先に立つ、誰かの姿だ。

 少年――


(レオ――)


 一瞬、そう思った。


 その少年は砂を蹴り、二人の横を抜けて駆ける。前へと伸ばした右腕にゆらりと白い陽炎を纏わせた。

 肘から先に沿うように、澄んだ白刃が盛り上がる。

 そのまま砂丘の底へ、跳んだ。


 滑り落ちた大蠍の甲殻へ、右腕に現われた剣を振り下ろす。

 一振りで分厚い甲殻は縦に易々と断たれ、二つに分かれた身体は黄色い体液を撒き散らしながら、砂の中にどうと倒れた。

 更にもう一体――、ザインに尾を断たれていた大蠍も、次の呼吸で真っ二つに断たれた。


 少年の足が胴を蹴って再び跳躍し、反対側の斜面に降り立つ。

 身を起こしたザインの、隣に。


「――っ、アーシア、無事?!」


 アーシアが青ざめた顔で頷くのを確認して深々と息を吐き、それからアスタロトはよろめきながら立ち上がった。

 鼓動が早い。

 動かなくなった三体の大蠍を見て――そしてその少年を、食い入るように見つめた。


 右腕に現れた剣。

 剣は砂漠そのもののような陽炎を纏っている。


「……剣士――」


 剣士だ。

 レオアリスと同じ年頃――少し若くも見える。

 身長はアスタロトと同じくらいだろうか。愛らしい面立ちが少女かとも思わせたが、やはり少年だ。


「あ、の」


 砂丘を一歩踏み出した時、アルノーの張り詰めた呟きが聞こえた。


「公、あれを」


 振り返る前にその言葉は掛かった。


「誰かと思えばザイン。今更どんな顔をして現われた?」


 張りのある女の声だ。

 アルノーや無事な兵士四人が素早くアスタロトの前に立つ。

 斜めに落ちかけた太陽の光が瞳を射る。


 一つ先の砂丘の上、いつの間に現われたのか、彼等を見下ろす五人の人影の中から一人、背の高い女が進み出た。

 ザインのすぐ横に先程の少年が、並ぶ。その腕にはまだ剣が揺らめいている。


「――長」


 ザインは太陽に双眸を眇め、呟いた。







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