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第2章『冥漠の空』(1)


 水が流れる音が聞こえる。


 灯りのほとんど無いこの地下の暗く入り組んだ通路に、水音は遠いながらも絶えず響いていた。

 あれは地下深くから汲み上げた水が、水車や水路を流れる音だ。

 ファルシオンはここに何度となく通ううち、この地下の役割がだんだんと判ってきた。


 一つには、有事に外部へと逃れる為の通路だということ。ファルシオンがあの日の夜、ハンプトン達と必死にここを走ったように。その時を思い出すと、今でも背筋が張り詰める。

 そしてもう一つ、ファルシオンが学んだ役割は、この地下が王都全体の様々な機能を維持する為の重要な場所だという事だった。だからこそ、この場の防御陣が地上より強固に構築され、地上の防御陣が失われても尚、生きているのだという事も。


 王都は全体に水道溝を巡らせ、富裕層の家々ならば自家の水場を持っている他、住民達の為の共同の水場が至る所に置かれている。生活の生命線だ。

 また王都の各層を巡り繋いでいる運河は、大河シメノスに代表されるように河川と繋がり、様々なものを国内各地から王都へと運び、生活を豊かにしていた。


 この場所は、水を地下深くから汲み上げ、それを上水道、下水道、運河などに利用する、その仕組みを維持する装置なのだ。

 更には、王都の区画を移動する手段として四方の大通りに設けられた『転移門(ガルド)』の維持。

 王城に張り巡らされていた防御陣の維持。


 それらを絶え間なく行っているのが、あの部屋に置かれた美しい球体だった。

 父王が組み上げた複雑な術式があの球体に織り込まれているが、アルジマールでさえそれをまだ読み解けていないと言っていた。

 読み解ければ、地表部の防御陣の再構築が一歩進むとも。


「父上――」


 声に出した呟きは小さく、遠い水音に隠れる。

 ファルシオンは白い扉に瞳を上げた。

 冷えた白い石の表面に小さな掌を置く。鍵は掛かっておらず、押せば扉は苦もなく開いた。


 開くべきかどうか、いつもためらう。

 けれどいくら待っていても、内側から開かれる事はないのだ。

 そしてファルシオンがこの扉を開けたのは、これまでたった二回だけだった。まして一人で入るのは初めてだ。


 胸の奥が早鐘を鳴らしている。

 息を吐き、心を定めて扉を押し開ける。


 とたんに漏れる淡い金色の光が、扉の隙間が広がるごとに、暗い廊下にファルシオンの姿を浮かび上がらせた。


「――」


 初めに感じるのは、温かな空気が指先まで包む感覚。

 父王が膝に乗せてくれた時のような懐かしさ。

 目の奥がじわりと熱くなり、ファルシオンはそれを堪えて扉の中に入った。


 天井が高く、五間四方の広い部屋だ。壁も床も天井も、白い大理石が張られていて、部屋全体がやや発光しているように感じられる。それは部屋の中央に、輝く一つの球体がある為だった。


 球体は二尺ほど――成人が両腕で円を作ったほどの直径を持ち、その表面は水面(みなも)のように奥まで透き通って見えるが、球体の向こうは覗けない。

 支える台座も何も無く、微かに移ろう金色の光を放ち、宙に浮かんでいる。


 その球体から半間ほどの空間を置き、四つの白銀の柱が同心円を描いて球体を囲んでいる。柱は一つ一つ細い蔦が絡むような美しい細工で形造られ、上部はそれぞれ四方に開いていた。

 先端は俯く鈴蘭の花のように丸まり、そこから黄金の光が雫になって零れる。雫が落ちるごとに白い大理石の床は淡く光を帯び、光を吸い込んだ。


 球体の奥から湧き出た波紋が一つ、球体の表面を広がり、ゆらりと黄金の光が波打つ。

 黄昏の色から黄金、そしてまた黄昏へ。

 刻々と色を変える。

 その美しく深い光はやはり、父王を感じさせた。


 堪えていた涙が溢れ、幼い頬を静かに伝う。

 唇を噛み締めて頬をぐいと拭い、ファルシオンは見上げていた球体から視線を落とした。


「――」


 鼓動が再び早くなる。

 黄金の球体の前、中空に、何の支えも無く横たわっている。アルジマールがそう施した。


 二か月前に負ったあのひどい負傷の気配は、もうどこにも見当たらない。

 身に纏う近衛師団の軍服の為か、何も変わったところなどなく、何も問題など無いように見える。声を掛ければ目を開き、身を起こしそうだ。

 一方で瞼はずっと閉ざされたまま、血の気の失せた頬は、その印象のせいでこの存在そのものをとても遠いものにも見せていた。




『僕の見立てですと、短くてもあと数カ月はこの状態が続くでしょう』


 ひと月前、アルジマールは改めてそう言った。


『長ければ、一年――、もしくは、バインドのように長期に及ぶ場合も考えられます』


 覚悟をして欲しい、と。




 ファルシオンはそっと息を吸い込んだ。


「――レオアリス」


 返事を待つ空白に、返る音は無い。

 泣き笑いのような表情を浮かべながら、ファルシオンは懐から小さく折り畳んだ絹の布を取り出した。その中に包んでいたのは、昨日アスタロトがくれた護符だ。


 白銀の柱が造る円の中に踏み入ると、自分を包む温かさは一層増した。

 宙に横たわるレオアリスに近付く。その身体はちょうど、ファルシオンの胸の位置の高さに浮かんでいる。

 ファルシオンは護符の組紐をレオアリスの首に掛けると、小さな銀板を胸の上に置いた。


「これは昨日、アスタロト公爵がくれた護符だ。アルジマール院長がつくったというから、きっとまもってくれる。それから、ほら」


 自分の首に掛けたもう一つのそれを取り出し、にこりと笑った。


「私と、同じなんだ。私とそなたをまもってくれるだろうって」


 アスタロトがくれたもう一対は、ファルシオンが常に持っておくようにと言っていた。


「代わりに、そなたの青い石は私が持っているから。だから目が覚めたら、いちばんに私のところに取りに来い」


 ファルシオンはそっと、確かめるようにレオアリスの胸に片頬を当てた。

 耳を澄ますと鼓動の音が遠く、微かに伝わる。


 生きている。


 心の奥底から安堵が込み上げる。

 ファルシオンは耳を離し、上体を起こした。


「――そなたの、一族は」


 鼓動が鳴る。

 耳の奥に響くそれは、期待だ。

 もしかしたら。


「ルフトと、いうらしい」


 その言葉で目を覚ますのではないか――



 鼓動が早鐘を打ち――



 けれど、瞳を閉ざした面にはやはり何の変化も無かった。


「――ルベル・カリマという、剣士の氏族がいるらしいのだ。今日、アスタロト公爵が、レガージュのザインのところに行った」


 変化の無い面を見つめながら、ファルシオンは微かに笑みを浮かべた。

 早く眼が覚めて欲しいと思う。けれど反面、目が覚めたらきっとまた、あんな戦い方をすることになるのは、怖かった。

 それなら。

 ぎゅっと唇を噛む。


「――きっと、力を貸してくれると思う。だってそなたが、そうだもの」


 ファルシオンは束の間顔を伏せて瞳を固く閉ざしていたが、やがて黄金の瞳を上げた。

 瞳に球体の金が映り込む。


 父王へ、祈る。

 この国が早く、元どおりの平穏な国になるように。

 その為の力が自分にあるように。



 それからファルシオンは温かなこの部屋を出ると、暗い廊下を歩き出した。

 扉が静かに閉じる音が、水の音に混じる。







 黄金から黄昏へ、天空に似た球体は光を緩やかに移ろわせる。

 その前に横たわる姿を淡く照らす。

 ふと、右手の指先が微かに動き――



 無音の中で、ただその光のみ、淡い輝きを放ち続けている。









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